藩の陣中へやって来たから、そういうことなら当方から拙者|一人《ひとり》推参すると甚七郎は言って、ひとまず耕雲斎の帰陣を求めた。そこで甚七郎は出かけた。新保宿にある武田の本営では入り口に柵《さく》を結いめぐらし、鎗《やり》大砲を備え、三百人の銃手がおのおの火繩《ひなわ》を消し、一礼してこの甚七郎を迎え入れた。耕雲斎は白羅紗《しろらしゃ》の陣羽織を着け、一刀を帯び、草鞋《わらじ》をはいて甚七郎を迎えたという。甚七郎は自己の率いて行った兵を営外にとどめ、単身耕雲斎の案内で玄関に行って見ると、そこには山国兵部、田丸稲右衛門、藤田小四郎を始め二十五人の幹部のものがいずれも大小刀を帯びないで出迎えていた。その時だ。甚七郎も浪士らの態度に打たれ、規律正しい陣所の光景にも意外の思いをなし、ようやくさきの戦意をひるがえした。しからば願意をきき届けようと言って、その旨を耕雲斎に確答し、一橋中納言に捧呈《ほうてい》する嘆願書並びに始末書を受け取って退営した。翌日甚七郎は未明に金沢藩の陣所を出発し、馬を駆って江州梅津の本営にいたり、二通の書面を一橋公に捧呈した。その嘆願書と始末書には、筑波《つくば》挙兵のそもそもから、市川三左衛門らの讒言《ざんげん》によって幕府の嫌疑《けんぎ》をこうむったことに及び、源烈公が積年の本懐も滅びるようであっては臣子の情として遺憾に堪《た》えないことを述べ、亡《な》き宍戸侯《ししどこう》のために冤《えん》をそそぐという意味からも京都をさして国を離れて来たことを書き添え、なお、一同が西上の心事は尊攘の精神にほかならないことをこまごまと言いあらわしてあったという。
 過ぐる日に諏訪の百姓降蔵が置いて行った話も、半蔵にはいろいろと思い合わされた。その時になると、浪士軍中に二つのものの流れのあったことも彼には想《おも》い当たる。最初金沢藩の永原甚七郎から一戦に及ぼうとの返書のあった時、武田耕雲斎は将士を集めて評議を凝らしたという。ちょうど長州藩からは密使を送って来て、若狭《わかさ》、丹後《たんご》を経て石見《いわみ》の国に出、長州に来ることを勧めてよこした時だ。山国兵部は浪士軍中の最年長者ではあるものの、その意気は壮者をしのぐほどで、しきりに長州行きを主張した。その時の兵部の言葉に、これから間道を通って山陰道に入り、長州に達することを得たなら、尊攘の大義を暢《の》ぶるこ
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