その前日に中津川泊まりで東下する弘前《ひろさき》城主|津軽侯《つがるこう》の通行とを迎えたのみだ。
しかし、馬籠の宿場が閑散であったわけではない。二度と参覲交代の道を踏む諸大名こそまれであったが、三月二十二日あたりから四月七日ごろへかけて日光|大法会《だいほうえ》のために東下する勅使や公卿たちの通行の混雑で、半蔵は隣家の年寄役伊之助らと共に熱い汗を流し続けた。幕府では四月十七日を期し東照宮二百五十回忌の大法会を日光山に催し、法親王および諸|僧正《そうじょう》を京都より迎え、江戸にある老中はもとより、寺社奉行《じしゃぶぎょう》、大目付、勘定奉行から納戸頭《なんどがしら》までも参列させ、天台宗徒《てんだいしゅうと》をあつめて万部の仏経を読ませ、諸人にその盛典をみせ、この際――年号までも慶応《けいおう》元年と改めて、大いに東照宮の二百五十年を記念しようとしたのだ。この街道へは尾州家から千五百両の金を携えた役人が出張して来て、日によっては千人の人足を買い揚げたのを見ても、いかにその通行の大がかりなものであったかがわかる。奈良井宿詰《ならいしゅくづ》めの尾張人足なぞは、毎日のようにおびただしく馬籠峠を通った。伊那|助郷《すけごう》が五百人も出た日の後には、須原《すはら》通しの人足五千人の備えを要するほどの勅使通行の日が続いた。
この混雑も静まって行くと、水戸浪士事件の顛末《てんまつ》がいろいろな形で世上に流布《るふ》するようになった。これほど各地の沿道を騒がした出来事の真相がそう秘密に葬られるはずもない。宍戸侯《ししどこう》(松平|大炊頭《おおいのかみ》)の悲惨な最期を序幕とする水府義士の悲劇はようやく世上に知れ渡った。
いくつかの多感な光景は半蔵の眼前にもちらついた。武田耕雲斎の同勢が軍装で中仙道《なかせんどう》を通過し、沿道各所に交戦し、追い追い西上するとのうわさがやかましく京都へ伝えられた時、それを自身に関係ある事だとして直ちに江州路《ごうしゅうじ》へ出張し鎮撫《ちんぶ》に向かいたいよしを朝廷に奏請したのも、京都警衛総督の一橋慶喜であったという。朝議もそれを容《い》れた。一橋中納言が京都を出発して大津に着陣したのは前年十二月三日のことだ。金沢、小田原《おだわら》、会津《あいづ》、桑名の藩兵がそれにしたがった。そのうちに武田勢が今庄《いまじょう》に到着したので、諸藩
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