姓は本陣の表玄関のところに立って、広い板の間の前の片すみに腰を曲《こご》めている。ちょうど半蔵は昼の食事を済ましたころであったが、この男がまだ飯前だと聞いて、玄関から手をたたいた。家のものを呼んで旅の百姓のために簡単な食事のしたくを言いつけた。
「この書付のことは承知した。」と半蔵は降蔵の方を見て言った。「まあ、いろいろ聞きたいこともある。こんな玄関先じゃ話もできない。何もないが茶漬《ちゃづ》けを一ぱい出すで、勝手口の方へ回っておくれ。」
降蔵は手をもみながら、玄関先から囲炉裏ばたの方へ回って来た。草鞋《わらじ》ばきのままそこの上がりはなに腰掛けた。
「水戸の人たちも、えらいことになったそうだね。」
それを半蔵が言い出すと、浪士ら最期のことが、諏訪の百姓の口からもれて来た。二月の朔日《ついたち》、二日は敦賀《つるが》の本正寺《ほんしょうじ》で大将方のお調べがあり、四日になって武田伊賀守はじめ二十四人が死罪になった。五日よりだんだんお呼び出しで、降蔵同様に人足として連れられて行ったものまで調べられた。降蔵は六番の土蔵にいたが、その時|白洲《しらす》に引き出されて、五日より十日まで惣勢《そうぜい》かわるがわる訊問《じんもん》を受けた。浪士らのうち、百三十四人は十五日に、百三人は十六日に打ち首になった。そうこうしていると、ちょうど十七日は東照宮の忌日に当たったから、御鬮《みくじ》を引いて、下回りの者を助けるか、助けないかの伺いを立てたという。ところが御鬮のおもてには助けろとあらわれた。そこで降蔵らは本正寺に呼び出され、門前で足枷《あしかせ》を解かれ、一同書付を読み聞かせられた。それからいったん役人の前を下がり、門前で髪を結って、またまた呼び出された上で最後の御免の言葉を受けた。読み聞かせられた書付は爪印《つめいん》を押して引き下がった。その時、降蔵同様に追放になったものは七十六人あったという。
「さようでございます。」と降蔵は同国生まれの仲間の者だけを数えて見せた。「わたくし同様のものは、下諏訪《しもすわ》の宿から一人《ひとり》、佐久郡の無宿の雲助が一人、和田の宿から一人、松本から一人、それに伊那の松島宿から十四、五人でした。さよう、さよう、まだそのほかに高遠《たかとお》の宮城《みやしろ》からも一人ありました。なにしろ、お前さま、昨年の十一月に伊那を出るから、わたくし
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