先輩とも言うべき義髄になんと言っても水戸の旧《ふる》い影響の働いていることを想《おも》い見た。水戸の学問は要するに武家の学問だからである。武家の学問は多分に漢意《からごころ》のまじったものだからである。たとえば、水戸の人たちの中には実力をもって京都の実権を握り天子を挾《さしはさ》んで天下に号令するというを何か丈夫の本懐のように説くものもある。たといそれがやむにやまれぬ慨世《がいせい》のあまりに出た言葉だとしても、天子を挾《さしはさ》むというはすなわち武家の考えで、篤胤の弟子《でし》から見れば多分に漢意《からごころ》のまじったものであることは争えなかった。
武家中心の時はようやく過ぎ去りつつある。先輩義髄が西の志士らと共に画策するところのあったということも、もしそれが自分らの生活を根から新しくするようなものでなくて、徳川氏に代わるもの出《い》でよというにとどまるなら、日ごろ彼が本居平田諸大人から学んだ中世の否定とはかなり遠いものであった。その心から、彼は言いあらわしがたい憂いを誘われた。
水戸浪士に連れられて人足として西の方へ行った諏訪《すわ》の百姓も、ぽつぽつ木曾街道を帰って来るようになった。
諏訪の百姓は馬籠本陣をたよって来て、一通の書付を旅の懐《ふところ》から取り出し、主人への取り次ぎを頼むと言い入れた。その書付は、敦賀《つるが》の町役人から街道筋の問屋にあてたもので、書き出しに信州諏訪|飯島村《いいじまむら》、当時無宿|降蔵《こうぞう》とまず生国と名前が断わってあり、右は水戸浪士について越前《えちぜん》まで罷《まか》り越したものであるが、取り調べの上、子細はないから今度帰国を許すという意味を認《したた》めてあり、ついては追放の節に小遣《こづか》いとして金壱分をあてがってあるが、万一途中で路銀に不足したら、街道筋の問屋でよろしく取り計らってやってくれと認《したた》めてある。
半蔵はすぐにその百姓の尋ねて来た意味を読んだ。武田耕雲斎以下、水戸浪士処刑のことはすでに彼の耳にはいっていた際で、自分のところへその書付を持って来た諏訪の百姓の追放と共に、信じがたいほどの多数の浪士処刑のことが彼の胸に来た。
「旦那《だんな》、わたくしは鎗《やり》をかつぎまして、昨年十一月の二十七日にお宅の前を通りましたものでございます。」
降蔵の挨拶《あいさつ》だ。
旅の百
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