しまったような、いかがわしい仏像の焼きすてはそこにもここにも始まりかけていた。

       三

 元治二年の三月になった。恵那山の谷の雪が溶けはじめた季節を迎えて、山麓《さんろく》にある馬籠の宿場も活気づいた。伊勢参りは出発する。中津川商人はやって来る。宿々村々の人たちの往来、無尽の相談、山林売り払いの入札、万福寺中興開祖|乗山和尚《じょうざんおしょう》五十年忌、および桑山《そうざん》和尚十五年忌など、村方でもその季節を待っていないものはなかった。毎年の例で、長い冬ごもりの状態にあった街道の活動は彼岸《ひがん》過ぎのころから始まる。諸国の旅人をこの街道に迎えるのもそのころからである。
 その年の春は、ことに参覲交代《さんきんこうたい》制度を復活した幕府方によって待たれた。幕府は老中水野|和泉守《いずみのかみ》の名で正月の二十五日あたりからすでにその催促を万石以上の面々に達し、三百の諸侯を頤使《いし》した旧時のごとくに大いに幕威を一振《いっしん》しようと試みていた。
 諸物価騰貴と共に、諸大名が旅も困難になった。道中筋の賃銀も割増し、割増しで、元治元年の三月からその年の二月まで五割増しの令があったが、さらにその年三月から来たる辰年《たつどし》二月まで三か年間五割増しの達しが出た。実に十割の増加だ。諸大名の家族がその困難な旅を冒してまで、幕府の命令を遵奉《じゅんぽう》して、もう一度江戸への道を踏むか、どうかは、見ものであった。
 この街道の空気の中で、半蔵は伊那行き以来懇意にする同門の先輩の一人を馬籠本陣に迎えた。暮田正香の紹介で知るようになった伊那小野村の倉沢|義髄《よしゆき》だ。その年の二月はじめに郷里を出た義髄は京大坂へかけて五十日ばかりの意味のある旅をして帰って来た。


 義髄の上洛《じょうらく》はかねてうわさのあったことであり、この先輩の京都|土産《みやげ》にはかなりの望みをかけた同門の人たちも多かった。
 義髄は、伊勢、大和《やまと》の方から泉州《せんしゅう》を経《へ》めぐり、そこに潜伏中の宮和田胤影《みやわだたねかげ》を訪《と》い、大坂にある岩崎|長世《ながよ》、および高山、河口《かわぐち》らの旧友と会見し、それから京都に出て、直ちに白河家《しらかわけ》に参候し神祇伯資訓《じんぎはくすけくに》卿に謁し祗役《しえき》の上申をしてその聴許を得、同家の地
前へ 次へ
全217ページ中129ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング