せる下心があったからで。伊那には彼ひとり残った。それからの彼は、山吹での篤胤研究会とも言うべき『義雄集』への聴講に心をひかれたのと、あちこちと訪《たず》ねて見たい同門の人たちのあったのと、一晩のうちに四尺も深い雪が来たという大平峠の通行の困難なのとで、とうとう飯田に年を越してしまった。
この小さな旅は、しかし平田門人としての半蔵の目をいくらかでも開けることに役立った。
「あはれあはれ上《かみ》つ代《よ》は人の心ひたぶるに直《なお》くぞありける。」
先人の言うこの上つ代とは何か。その時になって見ると、この上つ代はこれまで彼がかりそめに考えていたようなものではなかった。世にいわゆる古代ではもとよりなかった。言って見れば、それこそ本居平田諸大人が発見した上つ代である。中世以来の武家時代に生まれ、どの道かの道という異国の沙汰《さた》にほだされ、仁義礼譲孝|悌《てい》忠信などとやかましい名をくさぐさ作り設けてきびしく人間を縛りつけてしまった封建社会の空気の中に立ちながらも、本居平田諸大人のみがこの暗い世界に探り得たものこそ、その上つ代である。国学者としての大きな諸先輩が創造の偉業は、古《いにしえ》ながらの古に帰れと教えたところにあるのではなくて、新しき古を発見したところにある。
そこまでたどって行って見ると、半蔵は新しき古を人智のますます進み行く「近《ちか》つ代《よ》」に結びつけて考えることもできた。この新しき古は、中世のような権力万能の殻《から》を脱ぎ捨てることによってのみ得らるる。この世に王と民としかなかったような上つ代に帰って行って、もう一度あの出発点から出直すことによってのみ得らるる。この彼がたどり着いた解釈のしかたによれば、古代に帰ることはすなわち自然《おのずから》に帰ることであり、自然《おのずから》に帰ることはすなわち新しき古《いにしえ》を発見することである。中世は捨てねばならぬ。近つ代は迎えねばならぬ。どうかして現代の生活を根からくつがえして、全く新規なものを始めたい。そう彼が考えるようになったのもこの伊那の小さな旅であった。そして、もう一度彼が大平峠を越して帰って行こうとするころには、気の早い一部の同門の人たちが本地垂跡《ほんじすいじゃく》の説や金胎《こんたい》両部の打破を叫び、すでにすでに祖先葬祭の改革に着手するのを見た。全く神仏を混淆《こんこう》して
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