方用人を命ぜられた。彼が京都にとどまる間、交わりを結んだのは福羽美静《ふくばよしきよ》、池村邦則《いけむらくにのり》、小川一敏《おがわかずとし》、矢野玄道《やのげんどう》、巣内式部《すのうちしきぶ》らであった。彼はこれらの志士と相往来して国事を語り、共に画策するところがあった、という。彼はまた、ある日偶然に旧友|近藤至邦《こんどうむねくに》に会い、相携えて東山長楽寺《ひがしやまちょうらくじ》に隠れていた品川弥二郎《しながわやじろう》をひそかに訪問し、長州藩が討幕の先駆たる大義をきくことを得たという。これらの志士との往来が幕府の嫌疑《けんぎ》を受けるもとになって、身辺に危険を感じて来た彼はにわかに京都を去ることになり、夜中|江州《ごうしゅう》の八幡《やわた》にたどり着いて西川善六《にしかわぜんろく》を訪い、足利《あしかが》木像事件後における残存諸士の消息を語り、それより回り路《みち》をして幕府|探偵《たんてい》の目を避けながら、放浪約五十日の後郷里をさして帰って来ることができたということだった。
 この先輩が帰省の途次、立ち寄って行った旅の話はいろいろな意味で半蔵の注意をひいた。義髄と前後して上洛した清内路《せいないじ》の先輩原|信好《のぶよし》が神祇伯白河殿に奉仕して当道学士に補せられたことと言い、義髄が同じ白河家から地方用人を命ぜられたことと言い、従来地方から上洛するものが堂上の公卿たちに遊説《ゆうぜい》する縁故をなした白河家と平田門人との結びつきが一層親密を加えたことは、その一つであった。西にあって古学に心を寄せる人々との連絡のついたことは、その一つであった。十二年の飯田を去った後まで平田諸門人が忘れることのできない先輩岩崎長世の大坂にあることがわかったのも、その一つであった。しかしそれにもまして半蔵の注意をひいたのは、なんと言っても討幕の志を抱《いだ》く志士らと相往来して共に画策するところがあったということだった。
 そういうこの先輩は最初水戸の学問からはいったが、暮田正香と相知るようになってから吉川流の神道と儒学を捨て、純粋な古学に突進した熱心家であるばかりでなく、篤胤の武学本論を読んで武技の必要をも感じ、一刀流の剣法を習得したという肌合《はだあい》の人である。古学というものもまだ伊那の谷にはなかったころに行商しながら道を伝えたという松沢義章《まつざわよしあ
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