伴野《ともの》に、阿島《あじま》に、市田に、座光寺に、その他にも熱心な篤胤の使徒を数えることができる。この谷だ。今は黙ってみている場合でないとして、北原|兄弟《きょうだい》のような人たちがたち上がったのに不思議もない。
その片桐まで行くと、飯田の城下も近い。堀石見守《ほりいわみのかみ》の居城はそこに測りがたい沈黙を守って、浪士らの近づいて行くのを待っていた。その沈黙の中には御会所での軍議、にわかな籠城《ろうじょう》の準備、要所要所の警戒、その他、どれほどの混乱を押し隠しているやも知れないかのようであった。万一、同藩で籠城のことに決したら、市内はたちまち焼き払われるであろう。その兵火戦乱の恐怖は老若男女の町の人々を襲いつつあった。
夜、武田《たけだ》本陣にあてられた片桐の問屋へは、飯田方面から、豊三郎が兄の北原稲雄と一緒に早|駕籠《かご》を急がせて来た。その時、浪士側では横田東四郎と藤田《ふじた》小四郎とが応接に出た。飯田藩として間道の通過を公然と許すことは幕府に対し憚《はばか》るところがあるからと言い添えながら、北原兄弟は町役人との交渉の結果を書面にして携えて来た。その書面には左の三つの条件が認《したた》めてあった。
一、飯田藩は弓矢沢の防備を撤退すること。
二、間道に修繕を加うること。
三、飯田町にて軍資金三千両を醵出《きょしゅつ》すること。
「お前はこの辺の百姓か。人足の手が足りないから、鎗《やり》をかついで供をいたせ。」
「いえ、わたくしは旅の者でございます、お供をいたすことは御免こうむりましょう。」
「うんにゃ、そう言わずに、片桐の宿までまいれば許してつかわす。」
上伊那の沢渡村《さわどむら》という方から片桐宿まで、こんな押し問答の末に一人の百姓を無理押しつけに供に連れて来た浪士仲間の後殿《しんがり》のものもあった。
いよいよ北原兄弟が奔走周旋の結果、間道通過のことに決した浪士の一行は片桐出立の朝を迎えた。先鋒隊《せんぽうたい》のうちにはすでに駒場《こまば》泊まりで出かけるものもある。
後殿《しんがり》の浪士は上伊那から引ッぱって来た百姓をなかなか放そうとしなかった。その百姓は年のころ二十六、七の働き盛りで、荷物を持ち運ばせるには屈強な体格をしている。
「お前はどこの者か。」と浪士がきいた。
「わたくしですか。諏訪飯島村《すわいいじまむら
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