しい者は見かけ次第すみやかに討《う》ち取れと言いつけた。あの湊《みなと》での合戦《かっせん》以来、水戸の諸生党を応援した参政田沼|玄蕃頭《げんばのかみ》は追討総督として浪士らのあとを追って来た。幕府は一方に長州征伐の事に従いながら、大きな網を諸国に張って、一人残らず水府義士なるものを滅ぼし尽くそうとしていた。その時はまだ八十里も先から信じがたいような種々《さまざま》な風聞が諏訪藩へ伝わって来るころだ。高島城に留守居するものだれ一人として水戸浪士の来ることなぞを意《こころ》にかけるものもなかった。初めて浪士らが上州にはいったと聞いた時にも、真偽のほどは不確実《ふたしか》で、なお相去ること数十里の隔たりがあった。諏訪藩ではまだまだ心を許していた。その浪士らが信州にはいったと聞き、佐久《さく》へ来たと聞くようになると、急を知らせる使いの者がしきりに飛んで来る。にわかに城内では評定《ひょうじょう》があった。あるものはまず甲州口をふさぐがいいと言った。あるものは水戸の精鋭を相手にすることを考え、はたして千余人からの同勢で押し寄せて来たら敵しうるはずもない、沿道の諸藩が討《う》とうとしないのは無理もない、これはよろしく城を守っていて浪士らの通り過ぎるままに任せるがいい、後方《うしろ》から鉄砲でも撃ちかけて置けば公儀への御義理はそれで済む、そんなことも言った。しかし君侯は現に幕府の老中である、その諏訪藩として浪士らをそう放縦《ほしいまま》にさせて置けないと言うものがあり、大げさの風評が当てになるものでもないと言うものがあって、軽々しい行動は慎もうという説が出た。そこへ諏訪藩では江戸屋敷からの急使を迎えた。その急使は家中でも重きを成す老臣で、幕府のきびしい命令をもたらして来た。やがて水戸浪士が望月《もちづき》まで到着したとの知らせがあって見ると、大砲十五門、騎馬武者百五十人、歩兵七百余、旌旗《せいき》から輜重駄馬《しちょうだば》までがそれに称《かな》っているとの風評には一藩のものは皆顔色を失ってしまった。その時、用人の塩原彦七《しおばらひこしち》が進み出て、浪士らは必ず和田峠を越して来るに相違ない。峠のうちの樋橋《といはし》というところは、谷川を前にし、後方《うしろ》に丘陵を負い、昔時《むかし》の諏訪頼重《すわよりしげ》が古戦場でもある。高島城から三里ほどの距離にある。当方より進ん
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