門を説き、日光参拝と唱えて最初から下野国大平山《しもつけのくにおおひらやま》にこもったのも小四郎であった。水戸の家老職を父とする彼もまた、四人の統率者より成る最高幹部の一人たることを失わなかった。
 高崎での一戦の後、上州|下仁田《しもにた》まで動いたころの水戸浪士はほとんど敵らしい敵を見出さなかった。高崎勢は同所の橋を破壊し、五十人ばかりの警固の組で銃を遠矢に打ち掛けたまでであった。鏑川《かぶらがわ》は豊かな耕地の間を流れる川である。そのほとりから内山峠まで行って、嶮岨《けんそ》な山の地勢にかかる。朝早く下仁田を立って峠の上まで荷を運ぶに慣れた馬でも、茶漬《ちゃづ》けごろでなくては帰れない。そこは上州と信州の国境《くにざかい》にあたる。上り二里、下り一里半の極《ごく》の難場だ。千余人からの同勢がその峠にかかると、道は細く、橋は破壊してある。警固の人数が引き退いたあとと見えて、兵糧雑具等が山間《やまあい》に打ち捨ててある。浪士らは木を伐《き》り倒し、その上に蒲団《ふとん》衣類を敷き重ねて人馬を渡した。大砲、玉箱から、御紋付きの長持、駕籠《かご》までそのけわしい峠を引き上げて、やがて一同|佐久《さく》の高原地に出た。
 十一月の十八日には、浪士らは千曲川《ちくまがわ》を渡って望月宿《もちづきじゅく》まで動いた。松本藩の人が姿を変えてひそかに探偵《たんてい》に入り込んで来たとの報知《しらせ》も伝わった。それを聞いた浪士らは警戒を加え、きびしく味方の掠奪《りゃくだつ》をも戒めた。十九日和田泊まりの予定で、尊攘の旗は高く山国の空にひるがえった。
[#改頁]

     第十章

       一

 和田峠の上には諏訪藩《すわはん》の斥候隊が集まった。藩士|菅沼恩右衛門《すがぬまおんえもん》、同じく栗田市兵衛《くりたいちべえ》の二人《ふたり》は御取次御使番《おとりつぎおつかいばん》という格で伝令の任務を果たすため五人ずつの従者を引率して来ている。徒士目付《かちめつけ》三人、書役《かきやく》一人《ひとり》、歩兵斥候三人、おのおの一人ずつの小者を連れて集まって来ている。足軽《あしがる》の小頭《こがしら》と肝煎《きもいり》の率いる十九人の組もいる。その他には、新式の鉄砲を携えた二人の藩士も出張している。和田峠口の一隊はこれらの人数から編成されていて、それぞれ手分けをしながら斥候の
前へ 次へ
全217ページ中84ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング