三左衛門らを共同の敵とすることにも一致した。湊《みなと》の戦いで、大炊頭が幕府方の田沼玄蕃頭《たぬまげんばのかみ》に降《くだ》るころは、民兵や浮浪兵の離散するものも多かった。天狗連の全軍も分裂して、味方の陣営に火を放ち、田沼侯に降るのが千百人の余に上った。稲右衛門の率いる筑波勢の残党は湊の戦地から退いて、ほど近き館山《たてやま》に拠《よ》る耕雲斎の一隊に合流し、共に西に走るのほかはなかったのである。湊における諸生党の勝利は攘夷をきらっていた幕府方の応援を得たためと、形勢を観望していた土民の兵を味方につけたためであった。一方、天狗党では、幹部として相応名の聞こえた田中|源蔵《げんぞう》が軍用金調達を名として付近を掠奪《りゃくだつ》し、民心を失ったことにもよると言わるるが、軍資の供給をさえ惜しまなかったという長州方の京都における敗北が水戸の尊攘派にとっての深い打撃であったことは争われない。


 西の空へと動き始めた水戸浪士の一団については、当時いろいろな取りざたがあった。行く先は京都だろうと言うものがあり、長州まで落ち延びるつもりだろうと言うものも多かった。
 しかし、これは亡《な》き水戸の御隠居を師父と仰ぐ人たちが、従二位大納言《じゅにいだいなごん》の旗を押し立て、その遺志を奉じて動く意味のものであったことを忘れてはならない。九百余人から成る一団のうち、水戸の精鋭をあつめたと言わるる筑波組は三百余名で、他の六百余名は常陸《ひたち》下野《しもつけ》地方の百姓であった。中にはまた、京都方面から応援に来た志士もまじり、数名の婦人も加わっていた。二名の医者までいた。その堅い結び付きは、実際の戦闘力を有するものから、兵糧方《ひょうろうかた》、賄方《まかないかた》、雑兵《ぞうひょう》、歩人《ぶにん》等を入れると、千人以上の人を動かした。軍馬百五十頭、それにたくさんな小荷駄《こにだ》を従えた。陣太鼓と旗十三、四本を用意した。これはただの落ち武者の群れではない。その行動は尊攘の意志の表示である。さてこそ幕府方を狼狽《ろうばい》せしめたのである。
 この浪士の中には、藤田小四郎《ふじたこしろう》もいた。亡き御隠居を動かして尊攘の説を主唱した藤田|東湖《とうこ》がこの世を去ってから、その子の小四郎が実行運動に参加するまでには十一年の月日がたった。衆に先んじて郷校の子弟を説き、先輩稲右衛
前へ 次へ
全217ページ中83ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング