いはあっても、水戸のように惨酷《ざんこく》をきわめたところはない。誠党が奸党を見るのは極悪《ごくあく》の人間と心の底から信じたのであって、奸党が誠党を見るのもまたお家の大事も思わず御本家大事ということも知らない不忠の臣と思い込んだのであった。水戸の党派争いはほとんど宗教戦争に似ていて、成敗利害の外にあるものだと言った人もある。いわゆる誠党は天狗連《てんぐれん》とも呼び、いわゆる奸党は諸生党とも言った。当時の水戸藩にある才能の士で、誠でないものは奸、奸でないものは誠、両派全く分かれて相鬩《あいせめ》ぎ、その中間にあるものをば柳と呼んだ。市川三左衛門をはじめ諸生党の領袖《りょうしゅう》が国政を左右する時を迎えて見ると、天狗連の一派は筑波山の方に立てこもり、田丸稲右衛門《たまるいなえもん》を主将に推し、亡《な》き御隠居の御霊代《みたましろ》を奉じて、尊攘の志を致《いた》そうとしていた。かねて幕府は水戸の尊攘派を毛ぎらいし、誠党領袖の一人なる武田耕雲斎《たけだこううんさい》と筑波に兵を挙《あ》げた志士らとの通謀を疑っていた際であるから、早速《さっそく》耕雲斎に隠居慎《いんきょつつし》みを命じ、諸生党の三左衛門らを助けて筑波の暴徒を討《う》たしめるために関東十一藩の諸大名に命令を下した。三左衛門は兵を率いて江戸を出発し、水戸城に帰って簾中《れんちゅう》母公|貞芳院《ていほういん》ならびに公子らを奉じ、その根拠を堅めた。これを聞いた耕雲斎らは水戸家の存亡が今日にあるとして、幽屏《ゆうへい》の身ではあるが禁を破って水戸を出発した。そして江戸にある藩主を諫《いさ》めて奸徒《かんと》の排斥を謀《はか》ろうとした。かく一藩が党派を分かち、争闘を事とし、しばらくも鎮静する時のなかったため、松平|大炊頭《おおいのかみ》(宍戸侯《ししどこう》)は藩主の目代《もくだい》として、八月十日に水戸の吉田に着いた。ところが、水戸にある三左衛門はこの鎮撫《ちんぶ》の使者に随行して来たものの多くが自己の反対党であるのを見、その中には京都より来た公子|余四麿《よしまろ》の従者や尊攘派の志士なぞのあるのを見、大炊頭が真意を疑って、その入城を拒んだ。朋党《ほうとう》の乱はその結果であった。
 混戦が続いた。大炊頭、耕雲斎、稲右衛門、この三人はそれぞれの立場にあったが、尊攘の志には一致していた。水戸城を根拠とする
前へ 次へ
全217ページ中82ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング