》と薩摩《さつま》との支持する公武合体派の本拠を覆《くつがえ》し、筑波山《つくばさん》の方に拠《よ》る一派の水戸の志士たちとも東西相呼応して事を挙《あ》げようとしたそれらの種々の計画は、与党の一人《ひとり》なる近江人《おうみじん》の捕縛より発覚せらるるに至った。この出来事があってから、長州方はもはや躊躇《ちゅうちょ》すべきでないとし、かねて準備していた挙兵上京の行動に移り、それを探知した幕府方もようやく伏見、大津の辺を警戒するようになった。守護職松平|容保《かたもり》のにわかな参内《さんだい》と共に、九門の堅くとざされたころは、洛中の物情騒然たるものがあった。七月十八日には三道よりする長州方の進軍がすでに開始されたとの報知《しらせ》が京都へ伝わった。夜が明けて十九日となると、景蔵は西の蛤御門《はまぐりごもん》、中立売御門《なかだちうりごもん》の方面にわくような砲声を聞き、やがて室町《むろまち》付近より洛中に延焼した火災の囲みの中にいたとある。
今度の京都の出来事を注意して見るものには、長州藩に気脈を通じていて、しかも反覆常なき二、三藩のあったことも見のがせない事実であり、堂上にはまた、この計画に荷担して幕府に反対し併《あわ》せて公武合体派を排斥しようとする有栖川宮《ありすがわのみや》をはじめ、正親町《おおぎまち》、日野、石山その他の公卿たちがあったことも見のがせない、と景蔵は言っている。烈風に乗じて火を内裏《だいり》に放ち、中川宮および松平容保の参内を途中に要撃し、その擾乱《じょうらん》にまぎれて鸞輿《らんよ》を叡山《えいざん》に奉ずる計画のあったことも知らねばならないと言ってある。流れ丸《だま》はしばしば飛んで宮中の内垣《うちがき》に及んだという。板輿《いたこし》をお庭にかつぎ入れて帝《みかど》の御動座を謀《はか》りまいらせるものがあったけれども、一橋慶喜はそれを制《おさ》えて動かなかったという。なんと言っても蛤御門の付近は最も激戦であった。この方面は会津、桑名《くわな》の護《まも》るところであったからで。皇居の西南には樟《くす》の大樹がある。築地《ついじ》を楯《たて》とし家を砦《とりで》とする戦闘はその樹《き》の周囲でことに激烈をきわめたという。その時になって長州は実にその正反対を会津に見いだしたのである。薩州勢なぞは別の方面にあって幕府方に多大な応援を与えた
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