けれども、会津ほど正面の位置には立たなかった。ひたすら京都の守護をもって任ずる会津武士は敵として進んで来る長州勢を迎え撃ち、時には蛤御門を押し開き、筒先も恐れずに刀鎗を用いて接戦するほどの東北的な勇気をあらわしたという。
 この市街戦はその日|未《ひつじ》の刻《こく》の終わりにわたった。長州方は中立売《なかだちうり》、蛤門、境町の三方面に破れ、およそ二百余の死体をのこしすてて敗走した。兵火の起こったのは巳《み》の刻《こく》のころであったが、おりから風はますます強く、火の子は八方に散り、東は高瀬川《たかせがわ》から西は堀川《ほりかわ》に及び、南は九条にまで及んで下京のほとんど全都は火災のうちにあった。年寄りをたすけ幼いものを負《おぶ》った男や女は景蔵の右にも左にもあって、目も当てられないありさまであったと認《したた》めてある。
 しかし、景蔵の手紙はそれだけにとどまらない。その中には、真木和泉《まきいずみ》の死も報じてある。弘化《こうか》安政のころから早くも尊王攘夷の運動を起こして一代の風雲児と謳《うた》われた彼、あるいは堂上の公卿に建策しあるいは長州人士を説き今度の京都出兵も多くその人の計画に出たと言わるる彼、この尊攘の鼓吹者《こすいしゃ》は自ら引き起こした戦闘の悲壮な空気の中に倒れて行った。彼は最後の二十一日まで踏みとどまろうとしたが、その時は山崎に退いた長州兵も散乱し、久坂《くさか》、寺島、入江らの有力な同僚も皆戦死したあとで、天王山に走って、そこで自刃した。
 この真木和泉の死について、景蔵の所感もその手紙の中に書き添えてある。尊王と攘夷との一致結合をねらい、それによって世態の変革を促そうとした安政以来の志士の運動は、事実においてその中心の人物を失ったとも言ってある。平田門人としての自分らは――ことに後進な自分らは、彼真木和泉が生涯《しょうがい》を振り返って見て、もっと自分らの進路を見さだむべき時に到達したと言ってある。
 半蔵はその手紙で、中津川の友人香蔵がすでに京都にいないことを知った。その手紙をくれた景蔵も、ひとまず長い京都の仮寓《かぐう》を去って、これを機会に中津川の方へ引き揚げようとしていることを知った。


 真木和泉の死を聞いたことは、半蔵にもいろいろなことを考えさせた。景蔵の手紙にもあるように、対外関係のことにかけては硬派中の硬派とも言うべき真
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