、したがって自分らの江戸滞在を長引かせることを恐れた。時には九十六|間《けん》からある長い橋の上に立って、木造の欄干に倚《よ》りかかりながら丑寅《うしとら》の方角に青く光る遠い山を望んだ。どんな暑苦しい日でも、そこまで行くと風がある。目にある隅田川《すみだがわ》も彼には江戸の運命と切り離して考えられないようなものだった。どれほどの米穀を貯《たくわ》え、どれほどの御家人旗本を養うためにあるかと見えるような御蔵《おくら》の位置はもとより、両岸にある形勝の地のほとんど大部分も武家のお下屋敷で占められている。おそらく百本杭《ひゃっぽんぐい》は河水の氾濫《はんらん》からこの河岸《かし》や橋梁《きょうりょう》を防ぐ工事の一つであろうが、大川橋(今の吾妻橋《あずまばし》)の方からやって来る隅田川の水はあだかも二百何十年の歴史を語るかのように、その百本杭の側に最も急な水勢を見せながら、両国の橋の下へと渦《うず》巻き流れて来ていた。
三人の庄屋が今度の江戸出府を機会に嘆願を持ち出したのは、理由のないことでもない。早い話が参覲交代制度の廃止は上から余儀なくされたばかりでなく、下からも余儀なくされたものである。たといその制度の復活が幕府の頽勢《たいせい》を挽回《ばんかい》する上からも、またこの深刻な不景気から江戸を救う上からも幕府の急務と考えられて来たにもせよ、繁文縟礼《はんぶんじょくれい》が旧のままであったら、そのために苦しむものは地方の人民であったからで。
しかし、道中奉行の協議中、協議中で、庄屋側からの願いの筋も容易にはかどらなかった。半蔵らは江戸の町々に山王社《さんのうしゃ》の祭礼の来るころまで待ち、月を越えて将軍が天璋院《てんしょういん》や和宮様《かずのみやさま》と共に新たに土木の落成した江戸城西丸へ田安御殿《たやすごてん》の方から移るころまで待った。
七月の二十日ごろまで待つうちに、さらに半蔵らの旅を困難にすることが起こった。
「長州様がいよいよ御謀反《ごむほん》だそうな。」
そのうわさは人の口から口へと伝わって行くようになった。早乗りの駕籠《かご》は毎日|幾立《いくたて》となく町へ急いで来て、京都の方は大変だと知らせ、十九日の昼時に大筒《おおづつ》鉄砲から移った火で洛中《らくちゅう》の町家の大半は焼け失《う》せたとのうわさをすら伝えた。半蔵が十一屋まで行って幸兵
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