武力にも訴えかねまじき勢いで、幕府に開港を迫っているとのうわさすら伝わっている。全国の諸大名が江戸城に集まって、交易を許すか許すまいかの大評定《だいひょうじょう》も始まろうとしているという。半蔵はその年の正月二十五日に、尾州から江戸送りの大筒《おおづつ》の大砲や、軍用の長持が二十二|棹《さお》もこの街道に続いたことを思い出し、一人持ちの荷物だけでも二十一|荷《か》もあったことを思い出して、目の前を通る人足や荷馬の群れをながめていた。
 半蔵が家の方へ戻《もど》って行って見ると、吉左衛門はゆっくりしたもので、炉ばたで朝茶をやっていた。その時、半蔵はきいて見た。
「お父《とっ》さん、けさ着いたのはみんな尾州の荷物でしょう。」
「そうさ。」
「この荷物は幾日ぐらい続きましょう。」
「さあ、三日も続くかな。この前に唐人船《とうじんぶね》の来た時は、上のものも下のものも大あわてさ。今度は戦争にはなるまいよ。何にしても尾州の殿様も御苦労さまだ。」
 馬籠の本陣親子が尾張《おわり》藩主に特別の好意を寄せていたのは、ただあの殿様が木曾谷《きそだに》や尾張地方の大領主であるというばかりではない。吉左衛門には、時に名古屋まで出張するおりなぞには藩主のお目通りを許されるほどの親しみがあった。半蔵は半蔵で、『神祇《じんぎ》宝典』や『類聚日本紀《るいじゅうにほんぎ》』などをえらんだ源敬公以来の尾張藩主であるということが、彼の心をよろこばせたのであった。彼はあの源敬公の仕事を水戸《みと》の義公《ぎこう》に結びつけて想像し、『大日本史』の大業を成就したのもそういう義公であり、僧の契沖《けいちゅう》をして『万葉|代匠記《だいしょうき》』をえらばしめたのもこれまた同じ人であることを想像し、その想像を儒仏の道がまだこの国に渡って来ない以前のまじりけのない時代にまでよく持って行った。彼が自分の領主を思う心は、当時の水戸の青年がその領主を思う心に似ていた。
 その日、半蔵は店座敷にこもって、この深い山の中に住むさみしさの前に頭をたれた。障子の外には、塀《へい》に近い松の枝をすべる雪の音がする。それが恐ろしい響きを立てて庭の上に落ちる。街道から聞こえて来る人馬の足音も、絶えたかと思うとまた続いた。
「こんな山の中にばかり引っ込んでいると、なんだかおれは気でも違いそうだ。みんな、のんきなことを言ってるが、そんな時世じゃない。」
 と考えた。
 そこへお民が来た。お民はまだ十八の春を迎えたばかり、妻籠《つまご》本陣への里帰りを済ましたころから眉《まゆ》を剃《そ》り落としていて、いくらか顔のかたちはちがったが、動作は一層生き生きとして来た。
「あなたの好きなねぶ茶をいれて来ました。あなたはまた、何をそんなに考えておいでなさるの。」
 とお民がきいた。ねぶ茶とは山家で手造りにする飲料である。
「おれか。おれは何も考えていない。ただ、こうしてぼんやりしている。お前とおれと、二人一緒になってから百日の余にもなるが――そうだ、百日どころじゃないや、もう四か月にもなるんだ――その間、おれは何をしていたかと思うようだ。阿爺《おやじ》の好きな煙草《たばこ》の葉を刻んだことと、祖母《おばあ》さんの看病をしたことと、まあそれくらいのものだ。」
 半蔵は新婚のよろこびに酔ってばかりもいなかった。学業の怠りを嘆くようにして、それをお民に言って見せた。
「わたしはお節句のことを話そうと思うのに、あなたはそんなに考えてばかりいるんですもの。だって、もう三月は来てるじゃありませんか。この御通行が済むまでは、どうすることもできないじゃありませんか。」
 新婚のそもそもは、娘の昔に別れを告げたばかりのお民にとって、むしろ苦痛でさえもあった。それが新しいよろこびに変わって来たころから、とかく店座敷を離れかねている。いつのまにか半蔵の膝《ひざ》はお民の方へ向いた。彼はまるで尻餅《しりもち》でもついたように、後ろ手を畳の上に落として、それで身をささえながら、妻籠から持って来たという記念の雛《ひな》人形の話なぞをするお民の方をながめた。手織り縞《じま》でこそあれ、当時の風俗のように割合に長くひいた裾《すそ》の着物は彼女に似合って見える。剃《そ》り落とした眉《まゆ》のあとも、青々として女らしい。半蔵の心をよろこばせたのは、ことにお民の手だ。この雪に燃えているようなその娘らしい手だ。彼は妻と二人ぎりでいて、その手に見入るのを楽しみに思った。
 実に突然に、お民は夫のそばですすり泣きを始めた。
「ほら、あなたはよくそう言うじゃありませんか。わたしに学問の話なぞをしても、ちっともわけがわからんなんて。そりゃ、あのお母《っか》さん(姑《しゅうとめ》、おまん)のまねはわたしにはできない。今まで、妻籠の方で、だれもわたしに教えてくれる人はなかったんですもの。」
「お前は機《はた》でも織っていてくれれば、それでいいよ。」
 お民は容易にすすり泣きをやめなかった。半蔵は思いがけない涙を聞きつけたというふうに、そばへ寄って妻をいたわろうとすると、
「教えて。」
 と言いながら、しばらくお民は夫の膝《ひざ》に顔をうずめていた。
 ちょうど本陣では隠居が病みついているころであった。あの婆《ばあ》さんももう老衰の極度にあった。
「おい、お民、お前は祖母《おばあ》さんをよく看《み》てくれよ。」
 と言って、やがて半蔵は隠居の臥《ね》ている部屋《へや》の方へお民を送り、自分でも気を取り直した。
 いつでも半蔵が心のさみしいおりには、日ごろ慕っている平田|篤胤《あつたね》の著書を取り出して見るのを癖のようにしていた。『霊《たま》の真柱《まはしら》』、『玉だすき』、それから講本の『古道大意』なぞは読んでも読んでも飽きるということを知らなかった。大判の薄藍色《うすあいいろ》の表紙から、必ず古紫の糸で綴《と》じてある本の装幀《そうてい》までが、彼には好ましく思われた。『静《しず》の岩屋《いわや》』、『西籍概論《さいせきがいろん》』の筆記録から、三百部を限りとして絶版になった『毀誉《きよ》相半ばする書』のような気吹《いぶき》の舎《や》の深い消息までも、不便な山の中で手に入れているほどの熱心さだ。平田篤胤は天保《てんぽう》十四年に没している故人で、この黒船騒ぎなぞをもとより知りようもない。あれほどの強さに自国の学問と言語の独立を主張した人が、嘉永《かえい》安政の代に生きるとしたら――すくなくもあの先輩はどうするだろうとは、半蔵のような青年の思いを潜めなければならないことであった。
 新しい機運は動きつつあった。全く気質を相異《あいこと》にし、全く傾向を相異にするようなものが、ほとんど同時に踏み出そうとしていた。長州《ちょうしゅう》萩《はぎ》の人、吉田松陰《よしだしょういん》は当時の厳禁たる異国への密航を企てて失敗し、信州|松代《まつしろ》の人、佐久間象山《さくましょうざん》はその件に連座して獄に下ったとのうわさすらある。美濃の大垣《おおがき》あたりに生まれた青年で、異国の学問に志し、遠く長崎の方へ出発したという人の話なぞも、決してめずらしいことではなくなった。
「黒船。」
 雪で明るい部屋《へや》の障子に近く行って、半蔵はその言葉を繰り返して見た。遠い江戸湾のかなたには、実に八、九|艘《そう》もの黒船が来てあの沖合いに掛かっていることを胸に描いて見た。その心から、彼は尾張藩主の出府も容易でないと思った。


 木曾《きそ》寄せの人足七百三十人、伊那《いな》の助郷《すけごう》千七百七十人、この人数合わせて二千五百人を動かすほどの大通行が、三月四日に馬籠の宿を経て江戸表へ下ることになった。宿場に集まった馬の群れだけでも百八十匹、馬方百八十人にも上った。
 松雲和尚は万福寺の方にいて、長いこと留守にした方丈にもろくろく落ちつかないうちに、三月四日を迎えた。前の晩に来たはげしい雷鳴もおさまり、夜中ごろから空も晴れて、人馬の継ぎ立てはその日の明け方から始まった。
 尾張藩主が出府と聞いて、寺では徒弟僧《とていそう》も寺男もじっとしていない。大領主のさかんな通行を見ようとして裏山越しに近在から入り込んで来る人たちは、門前の石段の下に小径《こみち》の続いている墓地の間を急ぎ足に通る。
「お前たちも行って殿様をお迎えするがいい。」
 と松雲は二人の弟子《でし》にも寺男にも言った。
 旅にある日の松雲はかなりわびしい思いをして来た。京都の宿で患《わずら》いついた時は、書きにくい手紙を伏見屋の金兵衛にあてて、余分な路銀の心配までかけたこともある。もし無事に行脚《あんぎゃ》の修業を終わる日が来たら、村のためにも役に立とう、貧しい百姓の子供をも教えよう、そう考えて旅から帰って来た。周囲にある空気のあわただしさ。この動揺の中に僧侶《そうりょ》の身をうけて、どうして彼は村の幼く貧しいものを育てて行こうかとさえ思った。
「和尚さま。」
 と声をかけて裏口からはいって来たのは、日ごろ、寺へ出入りの洗濯婆《せんたくばあ》さんだ。腰に鎌《かま》をさし、※[#「くさかんむり/稾」、78−4]草履《わらぞうり》をはいて、男のような頑丈《がんじょう》な手をしている山家の女だ。
「お前さまはお留守居かなし。」
「そうさ。」
「おれは今まで畠《はたけ》にいたが、餅草《もちぐさ》どころじゃあらすか。きょうのお通りは正五《しょういつ》つ時《どき》だげな。殿様は下町の笹屋《ささや》の前まで馬に騎《の》っておいでで、それから御本陣までお歩行《ひろい》だげな。お前さまも出て見さっせれや。」
「まあ、わたしはお留守居だ。」
「こんな日にお寺に引っ込んでいるなんて、そんなお前さまのような人があらすか。」
「そう言うものじゃないよ。用事がなければ、親類へも行かない。それが出家の身なんだもの。わたしはお寺の番人だ。それでたくさんだ。」
 婆さんは鉄漿《おはぐろ》のはげかかった半分黒い歯を見せて笑い出した。庭の土間での立ち話もそこそこにして、また裏口から出て行った。
 やがて正五つ時も近づくころになると、寺の門前を急ぐ人の足音も絶えた。物音一つしなかった。何もかも鳴りをひそめて、静まりかえったようになった。ちょうど例年より早くめずらしい陽気は谷間に多い花の蕾《つぼみ》をふくらませている。馬に騎《の》りかえて新茶屋あたりから進んで来る尾張藩主が木曾路の山ざくらのかげに旅の身を見つけようというころだ。松雲は戸から外へ出ないまでも、街道の両側に土下座する村民の間を縫ってお先案内をうけたまわる問屋の九太夫をも、まのあたり藩主を見ることを光栄としてありがたい仕合わせだとささやき合っているような宿役人仲間をも、うやうやしく大領主を自宅に迎えようとする本陣親子をも、ありありと想像で見ることができた。
 方丈もしんかんとしていた。まるでそこいらはからっぽのようになっていた。松雲はただ一人《ひとり》黙然《もくねん》として、古い壁にかかる達磨《だるま》の画像の前にすわりつづけた。

       三

 なんとなく雲脚《くもあし》の早さを思わせるような諸大名諸公役の往来は、それからも続きに続いた。尾張藩主の通行ほど大がかりではないまでも、土州《としゅう》、雲州《うんしゅう》、讃州《さんしゅう》などの諸大名は西から。長崎奉行|永井岩之丞《ながいいわのじょう》の一行は東から。五月の半ばには、八百人の同勢を引き連れた肥後《ひご》の家老|長岡監物《ながおかけんもつ》の一行が江戸の方から上って来て、いずれも鉄砲持参で、一人ずつ腰弁当でこの街道を通った。
 仙洞御所《せんとうごしょ》の出火のうわさ、その火は西陣《にしじん》までの町通りを焼き尽くして天明年度の大火よりも大変だといううわさが、京都方面から伝わって来たのもそのころだ。
 この息苦しさの中で、年若な半蔵なぞが何物かを求めてやまないのにひきかえ、村の長老たちの願いとしていることは、結局現状の維持であった。黒船騒ぎ以来、諸大名の往来は激しく、伊那《いな》あたりから入り込んで来る
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