助郷《すけごう》の数もおびただしく、その弊害は覿面《てきめん》に飲酒|賭博《とばく》の流行にあらわれて来た。庄屋《しょうや》としての吉左衛門が宿役人らの賛成を得て、賭博厳禁ということを言い出し、それを村民一同に言い渡したのも、その年の馬市が木曾福島の方で始まろうとするころにあたる。
「あの時分はよかった。」
年寄役の金兵衛が吉左衛門の顔を見るたびに、よくそこへ持ち出すのも、「あの時分」だ。同じ駅路の記憶につながれている二人の隣人は、まだまだ徳川の代が平和であった時分のことを忘れかねている。新茶屋に建てた翁塚《おきなづか》、伏見屋の二階に催した供養の俳諧《はいかい》、蓬莱屋《ほうらいや》の奥座敷でうんと食ったアトリ三十羽に茶漬《ちゃづ》け三杯――「あの時分」を思い出させるようなものは何かにつけ恋しかった。この二人には、山家が山家でなくなった。街道はいとわしいことで満たされて来た。もっとゆっくり隣村の湯舟沢や、山口や、あるいは妻籠《つまご》からの泊まり客を家に迎え、こちらからも美濃の落合の祭礼や中津川あたりの狂言を見に出かけて行って、すくなくも二日や三日は泊まりがけで親戚《しんせき》知人の家の客となって来るようでなくては、どうしても二人には山家のような気がしなかった。
その年の祭礼狂言をさかんにするということが、やがて馬籠の本陣で協議された。組頭庄兵衛もこれには賛成した。ちょうど村では金兵衛の胆煎《きもい》りで、前の年の十月あたりに新築の舞台普請をほぼ終わっていた。付近の山の中に適当な普請木《ふしんぎ》を求めることから、舞台の棟上《むなあ》げ、投げ餅《もち》の世話まで、多くは金兵衛の骨折りでできた。その舞台は万福寺の境内に近い裏山の方に造られて、もはや楽しい秋の祭りの日を待つばかりになっていた。
この地方で祭礼狂言を興行する歴史も古い。それだけ土地の人たちが歌舞伎《かぶき》そのものに寄せている興味も深かった。当時の南信から濃尾《のうび》地方へかけて、演劇の最も発達した中心地は、近くは飯田《いいだ》、遠くは名古屋であって、市川海老蔵《いちかわえびぞう》のような江戸の役者が飯田の舞台を踏んだこともめずらしくない。それを聞くたびに、この山の中に住む好劇家連は女中衆まで引き連れて、大平峠《おおだいらとうげ》を越しても見に行った。あの蘭《あららぎ》、広瀬あたりから伊那の谷の方へ出る深い森林の間も、よい芝居《しばい》を見たいと思う男や女には、それほど遠い道ではなかったのである。金兵衛もその一人だ。彼は秋の祭りの来るのを待ちかねて、その年の閏《うるう》七月にしばらく村を留守にした。伏見屋もどうしたろう、そう言って吉左衛門などがうわさをしているところへ、豊川《とよかわ》、名古屋、小牧《こまき》、御嶽《おんたけ》、大井《おおい》を経て金兵衛親子が無事に帰って来た。そのおりの土産話《みやげばなし》が芝居好きな土地の人たちをうらやましがらせた。名古屋の若宮の芝居では八代目市川団十郎が一興行を終わったところであったけれども、橘町《たちばなちょう》の方には同じ江戸の役者|三桝《みます》大五郎、関三十郎、大谷広右衛門などの一座がちょうど舞台に上るころであったという。
九月も近づいて来るころには、村の若いものは祭礼狂言のけいこに取りかかった。荒町からは十一人も出て舞台へ通う村の道を造った。かねて金兵衛が秘蔵|子息《むすこ》のために用意した狂言用の大小の刀も役に立つ時が来た。彼は鶴松《つるまつ》ばかりでなく、上の伏見屋の仙十郎《せんじゅうろう》をも舞台に立たせ、日ごろの溜飲《りゅういん》を下げようとした。好ましい鬘《かずら》を子にあてがうためには、一|分《ぶ》二|朱《しゅ》ぐらいの金は惜しいとは思わなかった。
狂言番組。式三番叟《しきさんばそう》。碁盤太平記《ごばんたいへいき》。白石噺《しらいしばなし》三の切り。小倉色紙《おぐらしきし》。最後に戻《もど》り籠《かご》。このうち式三番叟と小倉色紙に出る役と、その二役は仙十郎が引きうけ、戻り籠に出る難波治郎作《なにわじろさく》の役は鶴松がすることになった。金兵衛がはじめて稽古場《けいこば》へ見物に出かけるころには、ともかくも村の若いものでこれだけの番組を作るだけの役者がそろった。
その年の祭りの季節には、馬籠以外の村々でもめずらしいにぎわいを呈した。各村はほとんど競争の形で、神輿《みこし》を引き出そうとしていた。馬籠でさかんにやると言えば、山口でも、湯舟沢でも負けてはいないというふうで。中津川での祭礼狂言は馬籠よりも一月ほど早く催されて、そのおりは本陣のおまんも仙十郎と同行し、金兵衛はまた吉左衛門とそろって押しかけて行って来た。目にあまる街道一切の塵埃《ほこり》ッぽいことも、このにぎやかな祭りの気分には埋《うず》められそうになった。
そのうちに、名古屋の方へ頼んで置いた狂言|衣裳《いしょう》の荷物が馬で二|駄《だ》も村に届いた。舞台へ出るけいこ最中の若者らは他村に敗《ひけ》を取るまいとして、振付《ふりつけ》は飯田の梅蔵に、唄《うた》は名古屋の治兵衛《じへえ》に、三味線《しゃみせん》は中村屋|鍵蔵《かぎぞう》に、それぞれ依頼する手はずをさだめた。祭りの楽しさはそれを迎えた当日ばかりでなく、それを迎えるまでの日に深い。浄瑠璃方《じょうるりかた》がすでに村へ入り込んだとか、化粧方が名古屋へ飛んで行ったとか、そういううわさが伝わるだけでも、村の娘たちの胸にはよろこびがわいた。こうなると、金兵衛はじっとしていられない。毎日のように舞台へ詰めて、桟敷《さじき》をかける世話までした。伏見屋の方でも鶴松に初舞台を踏ませるとあって、お玉の心づかいは一通りでなかった。中津川からは親戚《しんせき》の女まで来て衣裳ごしらえを手伝った。
「きょうもよいお天気だ。」
そう言って、金兵衛が伏見屋の店先から街道の空を仰いだころは、旧暦九月の二十四日を迎えた。例年祭礼狂言の初日だ。朝早くから金兵衛は髪結いの直次を呼んで、年齢《とし》相応の髷《まげ》に結わせた。五十八歳まで年寄役を勤続して、村の宿役人仲間での年長者と言われる彼も、白い元結《もとゆい》で堅く髷の根を締めた時は、さすがにさわやかな、祭りの日らしい心持ちに返った。剃《そ》り立てた顋《あご》のあたりも青く生き生きとして、平素の金兵衛よりもかえって若々しくなった。
「鶴、うまくやっておくれよ。」
「大丈夫だよ。お父《とっ》さん、安心しておいでよ。」
伏見屋親子はこんな言葉をかわした。
そこへ仙十郎もちょっと顔を出しに来た。金兵衛はこの義理ある甥《おい》の方を見た時にも言った。
「仙十郎しっかり頼むぜ。式三番と言えば、お前、座頭《ざがしら》の勤める役だぜ。」
仙十郎は美濃の本場から来て、上の伏見屋を継いだだけに、こうした祭りの日なぞには別の人かと見えるほど快活な男を発揮した。彼はこんな山の中に惜しいと言われるほどの美貌《びぼう》で、その享楽的な気質は造り酒屋の手伝いなぞにはあまり向かなかった。
「さあ。きょうは、うんと一つあばれてやるぞ。村の舞台が抜けるほど踊りぬいてやるぞ。」
仙十郎の言い草だ。
まだ狂言の蓋《ふた》もあけないうちから、金兵衛の心は舞台の楽屋の方へも、桟敷《さじき》の方へも行った。だんだら模様の烏帽子《えぼし》をかぶり、三番叟《さんばそう》らしい寛濶《かんかつ》な狂言の衣裳をつけ、鈴を手にした甥《おい》の姿が、彼の目に見えて来た。戻《もど》り籠《かご》に出る籠かき姿の子が杖《つえ》でもついて花道にかかる時に、桟敷の方から起こる喝采《かっさい》は、必ず「伏見屋」と来る。そんな見物の掛け声まで、彼の耳の底に聞こえて来た。
「ほんとに、おれはこんなばかな男だ。」
金兵衛はそれを自分で自分に言って、束にして掛けた杉《すぎ》の葉のしるしも酒屋らしい伏見屋の門口を、出たりはいったりした。
三日続いた狂言はかなりの評判をとった。たとい村芝居でも仮借《かしゃく》はしなかったほど藩の検閲は厳重で、風俗壊乱、その他の取り締まりにと木曾福島の役所の方から来た見届け奉行《ぶぎょう》なぞも、狂言の成功を祝って引き取って行ったくらいであった。
いたるところの囲炉裏《いろり》ばたでは、しばらくこの狂言の話で持ち切った。何しろ一年に一度の楽しい祭りのことで、顔だちから仕草《しぐさ》から衣裳まで三拍子そろった仙十郎が三番叟の美しかったことや、十二歳で初舞台を踏んだ鶴松が難波治郎作のいたいけであったことなぞは、村の人たちの話の種になって、そろそろ大根引きの近づくころになっても、まだそのうわさは絶えなかった。
旧暦十一月の四日は冬至《とうじ》の翌日である。多事な一年も、どうやら滞りなく定例の恵比須講《えびすこう》を過ぎて、村では冬至を祝うまでにこぎつけた。そこへ地震だ。あの家々に簾《すだれ》を掛けて年寄りから子供まで一緒になって遊んだ祭りの日から数えると、わずか四十日ばかりの後に、いつやむとも知れないようなそんな地震が村の人たちを待っていようとは。
吉左衛門の家では一同裏の竹藪《たけやぶ》へ立ち退《の》いた。おまんも、お民も、皆|足袋《たび》跣足《はだし》で、半蔵に助けられながら木小屋の裏に集まった。その時は、隠居はもはやこの世にいなかった。七十三の歳《とし》まで生きたあのおばあさんも、孫のお民が帯祝いの日にあわずじまいに、ましてお民に男の子の生まれたことも、生まれる間もなくその子の亡《な》くなったことも、そんな慶事と不幸とがほとんど[#「ほとんど」は底本では「ほんど」]同時にやって来たことも知らずじまいに、その年の四月にはすでに万福寺の墓地の方に葬られた人であった。
「あなた、遠くへ行かないでくださいよ。皆と一緒にいてくださいよ。」
とおまんが吉左衛門のことを心配するそばには、産後三十日あまりにしかならないお民が青ざめた顔をしていた。また揺れて来たと言うたびに、下男の佐吉も二人《ふたり》の下女までも、互いに顔を見合わせて目の色を変えた。
太い青竹の根を張った藪《やぶ》の中で、半蔵は帯を締め直した。父と連れだってそこいらへ見回りに出たころは、本陣の界隈《かいわい》に住むもので家の中にいるものはほとんどなかった。隣家のことも気にかかって、吉左衛門親子が見舞いに行くと、伏見屋でもお玉や鶴松なぞは舞台下の日刈小屋《ひがりごや》の方に立ち退《の》いたあとだった。さすがに金兵衛はおちついたもので、その不安の中でも下男の一人を相手に家に残って、京都から来た飛脚に駄賃《だちん》を払ったり、判取り帳をつけたりしていた。
「どうも今年《ことし》は正月の元日から、いやに陽気が暖かで、おかしいおかしいと思っていましたよ。」
それを吉左衛門が言い出すと、金兵衛も想《おも》い当たるように、
「それさ。元日に草履《ぞうり》ばきで年始が勤まったなんて、木曾《きそ》じゃ聞いたこともない。おまけに、寺道の向こうに椿《つばき》が咲き出す、若餅《わかもち》でも搗《つ》こうという時分に蓬《よもぎ》が青々としてる。あれはみんなこの地震の来る知らせでしたわい。なにしろ、吉左衛門さん、吾家《うち》じゃ仙十郎の披露《ひろう》を済ましたばかりで、まあおかげであれも組頭《くみがしら》のお仲間入りができた。わたしも先祖への顔が立った、そう思って祝いの道具を片づけているところへ、この地震でしょう。」
「申年《さるどし》の善光寺の地震が大きかったなんて言ったってとても比べものにはなりますまいよ、ほら、寅年《とらどし》六月の地震の時だって、こんなじゃなかった。」
「いや、こんな地震は前代未聞にも、なんにも。」
とりあえず宿役人としての吉左衛門や金兵衛が相談したことは、老人女子供以外の町内のものを一定の場所に集めて、火災盗難等からこの村を護《まも》ることであった。場所は問屋と伏見屋の前に決定した。そして村民一同お日待《ひまち》をつとめることに申し合わせた。天変地異に驚く山の中の人たちの間には、春以来江戸表や浦
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