賀辺を騒がしたアメリカの船をも、長崎から大坂の方面にたびたび押し寄せたというオロシャの船をも、さては仙洞御所《せんとうごしょ》の出火までも引き合いに出して、この異変を何かの前兆に結びつけるものもある。夜一夜、だれもまんじりとしなかった。半蔵もその仲間に加わって、産後の妻の身を案じたり、竹藪《たけやぶ》や背戸田《せどた》に野宿する人たちのことを思ったりして、太陽の登るのを待ち明かした。
 翌日は雪になったが、揺り返しはなかなかやまなかった。問屋、伏見屋の前には二組に分れた若者たちが動いたり集まったりして、美濃の大井や中津川辺は馬籠《まごめ》よりも大地震だとか、隣宿の妻籠《つまご》も同様だとか、どこから聞いて来るともなくいろいろなうわさを持っては帰って来た。恵那山《えなさん》、川上山《かおれやま》、鎌沢山《かまざわやま》のかなたには大崩《おおくず》れができて、それが根の上あたりから望まれることを知らせに来るのも若い連中だ。その時になると、まれに見るにぎわいだったと言われた祭りの日のよろこびも、狂言の評判も、すべて地震の騒ぎの中に浚《さら》われたようになった。


 揺り返し、揺り返しで、不安な日がそれから六日も続いた。宿《しゅく》では十八人ずつの夜番が交替に出て、街道から裏道までを警戒した。祈祷《きとう》のためと言って村の代参を名古屋の熱田《あつた》神社へも送った。そのうちに諸方からの通知がぽつぽつ集まって来て、今度の大地震が関西地方にことに劇《はげ》しかったこともわかった。東海道|岡崎宿《おかざきじゅく》あたりへは海嘯《つなみ》がやって来て、新井《あらい》の番所なぞは海嘯《つなみ》のために浚《さら》われたこともわかって来た。
 熱田からの代参の飛脚が村をさして帰って来たころには、怪しい空の雲行きもおさまり、そこいらもだいぶ穏やかになった。吉左衛門は会所の定使《じょうづかい》に言いつけて、熱田神社祈祷の札を村じゅう軒別に配らせていると、そこへ金兵衛の訪《たず》ねて来るのにあった。
「吉左衛門さん、もうわたしは大丈夫と見ました。時に、あすは十一月の十日にもなりますし、仏事をしたいと思って、お茶湯《ちゃとう》のしたくに取りかかりましたよ。御都合がよかったら、あなたにも出席していただきたい。」
「お茶湯とは君もよいところへ気がついた。こんな時の仏事は、さぞ身にしみるだろうねえ。」
 その時、金兵衛は一通の手紙を取り出して吉左衛門に見せた。舌代《ぜつだい》として、病中の松雲|和尚《おしょう》から金兵衛にあてたものだ。それには、伏見屋の仏事にも弟子《でし》を代理として差し出すという詫《わ》びからはじめて、こんな非常時には自分のようなものでも村の役に立ちたいと思い、行脚《あんぎゃ》の旅にあるころからそのことを心がけて帰って来たが、あいにくと病に臥《ふ》していてそれのできないのが残念だという意味を書いてある。寺でも経堂その他の壁は落ち、土蔵にもエミ(亀裂《きれつ》)を生じたが、おかげで一人《ひとり》の怪我《けが》もなくて済んだと書いてある。本陣の主人へもよろしくと書いてある。
「いや、和尚さまもお堅い、お堅い。」
「なにしろ六年も行脚に出ていた人ですから、旅の疲れぐらいは出ましょうよ。」
 それが吉左衛門の返事だった。
「お宅では。」
「まだみんな裏の竹藪《たけやぶ》です。ちょっと、おまんにもあってやってください。」
 そう言って吉左衛門が金兵衛を誘って行ったところは、おそろしげに壁土の落ちた土蔵のそばだ。木小屋を裏へ通りぬけると、暗いほど茂った竹藪がある。その辺に仮小屋を造りつけ、戸板で囲って、たいせつな品だけは母屋《もや》の方から運んで来てある。そこにおまんや、お民なぞが避難していた。
「わたしはお民さんがお気の毒でならない。」と金兵衛は言った。「妻籠《つまご》からお嫁にいらしって、翌年にはこの大地震なんて全くやり切れませんねえ。」
 おまんはその話を引き取って、「お宅でも、皆さんお変わりもありませんか。」
「えゝ、まあおかげで。たった一人おもしろい人物がいまして、これだけは無事とは言えないかもしれません。実は吾家《うち》で使ってる源吉のやつですが、この騒ぎの中で時々どこかへいなくなってしまう。あれはすこし足りないんですよ。あれはアメリカという人相ですよ。」
「アメリカという人相はよかった。金兵衛さんの言いそうなことだ。」
 と吉左衛門もかたわらにいて笑った。
 こんな話をしているところへ、生家《さと》の親たちを見に来る上の伏見屋のお喜佐、半蔵夫婦を見に来る乳母《うば》のおふき婆《ばあ》さん、いずれも立ち退《の》き先からそこへ一緒になった。主従の関係もひどくやかましかった封建時代に、下男や下女までそこへ膝《ひざ》を突き合わせて、目上目下の区別もなく、互いに食うものを分け、互いに着るものを心配し合う光景は、こんな非常時でなければ見られなかった図だ。
 村民一同が各自の家に帰って寝るようになったのは、ようやく十一月の十三日であった。はじめて地震が来た日から数えて実に十日目に当たる。夜番に、見回りに、ごく困窮な村民の救恤《きゅうじゅつ》に、その間、半蔵もよく働いた。彼は伏見屋から大坂[#「大坂」は底本では「大阪」]地震の絵図なぞを借りて来て、それを父と一緒に見たが、震災の実際はうわさよりも大きかった。大地震の区域は伊勢《いせ》の山田辺から志州《ししゅう》の鳥羽《とば》にまで及んだ。東海道の諸宿でも、出火、潰《つぶ》れ家《や》など数えきれないほどで、宮《みや》の宿《しゅく》から吉原《よしわら》の宿までの間に無難なところはわずかに二宿しかなかった。
 やがて、その年初めての寒さも山の上へやって来るようになった。一切を沈黙させるような大雪までが十六日の暮れ方から降り出した。その翌日は風も立ち、すこし天気のよい時もあったが、夜はまた大雪で、およそ二尺五寸も積もった。石を載せた山家の板屋根は皆さびしい雪の中に埋《うず》もれて行った。


「九太夫さん、どうもわたしは年回りがよくないと思う。」
「どうでしょう、馬籠でも年を祭り替えることにしては。」
「そいつはおもしろい考えだ。」
「この街道筋でも祭り替えるようなうわさで、村によってはもう松を立てたところもあるそうです。」
「早速《さっそく》、年寄仲間や組頭の連中を呼んで、相談して見ますか。」
 本陣の吉左衛門と問屋の九太夫とがこの言葉をかわしたのは、村へ大地震の来た翌年安政二年の三月である。
 流言。流言には相違ないが、その三月は実に不吉な月で、悪病が流行するか、大風が吹くか、大雨が降るかないし大饑饉《だいききん》が来るか、いずれ天地の間に恐ろしい事が起こる。もし年を祭り替えるなら、その災難からのがれることができる。こんなうわさがどこの国からともなくこの街道に伝わって来た。九太夫が言い出したこともこのうわさからで。
 やがて宿役人らが相談の結果は村じゅうへ触れ出された。三月節句の日を期して年を祭り替えること。その日およびその前日は、農事その他一切の業務を休むこと。こうなると、流言の影響も大きかった。村では時ならぬ年越しのしたくで、暮れのような餅搗《もちつ》きの音が聞こえて来る。松を立てた家もちらほら見える。「そえご」と組み合わせた門松の大きなのは本陣の前にも立てられて、日ごろ出入りの小前《こまえ》のものは勝手の違った顔つきでやって来る。その中の一人は、百姓らしい手をもみもみ吉左衛門にたずねた。
「大旦那《おおだんな》、ちょっくら物を伺いますが、正月を二度すると言えば、年を二つ取ることだずら。村の衆の中にはそんなことを言って、たまげてるものもあるわなし。おれの家じゃ、お前さま、去年の暮れに女の子が生まれて、まだ数え歳《どし》二つにしかならない。あれも三つと勘定したものかなし。」
「待ってくれ。」
 この百姓の言うようにすると、吉左衛門自身は五十七、五十八と一時に年を二つも取ってしまう。伏見屋の金兵衛なぞは、一足飛びに六十歳を迎える勘定になる。
「ばかなことを言うな。正月のやり直しと考えたらいいじゃないか。」
 そう吉左衛門は至極《しごく》まじめに答えた。
 一年のうちに正月が二度もやって来ることになった。まるでうそのように。気の早い連中は、屠蘇《とそ》を祝え、雑煮《ぞうに》を祝えと言って、節句の前日から正月のような気分になった。当日は村民一同夜のひきあけに氏神|諏訪社《すわしゃ》への参詣《さんけい》を済まして来て、まず吉例として本陣の門口に集まった。その朝も、吉左衛門は麻の※[#「ころもへん+上」、第4水準2−88−9]※[#「ころもへん+下」、第4水準2−88−10]《かみしも》着用で、にこにこした目、大きな鼻、静かな口に、馬籠の駅長らしい表情を見せながら、一同の年賀を受けた。
「へい、大旦那《おおだんな》、明けましておめでとうございます。」
「あい、めでたいのい。」
 これも一時の気休めであった。
 その年、安政二年の十月七日には江戸の大地震を伝えた。この山の中のものは彦根《ひこね》の早飛脚からそれを知った。江戸表は七分通りつぶれ、おまけに大火を引き起こして、大部分焼失したという。震災後一年に近い地方の人たちにとって、この報知《しらせ》は全く他事《ひとごと》ではなかった。もっとも、馬籠のような山地でもかなりの強震を感じて、最初にどしんと来た時は皆|屋外《そと》へ飛び出したほどであった。それからの昼夜幾回とない微弱な揺り返しは、八十余里を隔てた江戸方面からの余波とわかった。
 江戸大地震の影響は避難者の通行となって、次第にこの街道にもあらわれて来た。村では遠く江戸から焼け出されて来た人たちに物を与えるものもあり、またそれを見物するものもある。月も末になるころには、吉左衛門は家のものを集めて、江戸から届いた震災の絵図をひろげて見た。一鶯斎国周《いちおうさいくにちか》画、あるいは芳綱《よしつな》画として、浮世絵師の筆になった悲惨な光景がこの世ながらの地獄《じごく》のようにそこに描き出されている。下谷広小路《したやひろこうじ》から金龍山《きんりゅうさん》の塔までを遠見にして、町の空には六か所からも火の手が揚がっている。右に左にと逃げ惑う群衆は、京橋|四方蔵《しほうぐら》から竹河岸《たけがし》あたりに続いている。深川《ふかがわ》方面を描いたものは武家、町家いちめんの火で、煙につつまれた火見櫓《ひのみやぐら》も物すごい。目もくらむばかりだ。
 半蔵が日ごろその人たちのことを想望していた水戸の藤田東湖《ふじたとうこ》、戸田蓬軒《とだほうけん》なぞも、この大地震の中に巻き込まれた。おそらく水戸ほど当時の青年少年の心を動かしたところはなかったろう。彰考館《しょうこうかん》の修史、弘道館《こうどうかん》の学問は言うまでもなく、義公、武公、烈公のような人たちが相続いてその家に生まれた点で。御三家《ごさんけ》の一つと言われるほどの親藩でありながら、大義名分を明らかにした点で。『常陸帯《ひたちおび》』を書き『回天詩史《かいてんしし》』を書いた藤田東湖はこの水戸をささえる主要な人物の一人《ひとり》として、少年時代の半蔵の目にも映じたのである。あの『正気《せいき》の歌』なぞを諳誦《あんしょう》した時の心は変わらずにある。そういう藤田東湖は、水戸内部の動揺がようやくしげくなろうとするころに、開港か攘夷《じょうい》かの舞台の序幕の中で、倒れて行った。
「東湖先生か。せめてあの人だけは生かして[#「生かして」は底本では「生かし」]置きたかった。」
 と半蔵は考えて、あの藤田東湖の死が水戸にとっても大きな損失であろうことを想《おも》って見た。
 やがて村へは庚申講《こうしんこう》の季節がやって来る。半蔵はそのめっきり冬らしくなった空をながめながら、自分の二十五という歳《とし》もむなしく暮れて行くことを思い、街道の片すみに立ちつくす時も多かった。

       四

 安政三年は馬籠《まごめ》の万福寺で、松雲|和尚《おしょう
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