来る半蔵の結婚の日のことは、すでにしばしば吉左衛門夫婦の話に上るころであった。隣宿|妻籠《つまご》の本陣、青山|寿平次《じゅへいじ》の妹、お民《たみ》という娘が半蔵の未来の妻に選ばれた。この忰《せがれ》の結婚には、吉左衛門も多くの望みをかけていた。早くも青年時代にやって来たような濃い憂鬱《ゆううつ》が半蔵を苦しめたことを想《おも》って見て、もっと生活を変えさせたいと考えることは、その一つであった。六十六歳の隠居半六から家督を譲り受けたように、吉左衛門自身もまた勤められるだけ本陣の当主を勤めて、あとから来るものに代《よ》を譲って行きたいと考えることも、その一つであった。半蔵の結婚は、やがて馬籠の本陣と、妻籠の本陣とを新たに結びつけることになる。二軒の本陣はもともと同姓を名乗るばかりでなく、遠い昔は相州三浦の方から来て、まず妻籠に落ち着いた、青山|監物《けんもつ》を父祖とする兄弟関係の間柄でもある、と言い伝えられている。二人《ふたり》の兄弟は二里ばかりの谷間をへだてて分かれ住んだ。兄は妻籠に。弟は馬籠に。何百年来のこの古い関係をもう一度新しくして、末《すえ》頼もしい寿平次を半蔵の義理ある兄弟と考えて見ることも、その一つであった。
 この縁談には吉左衛門は最初からその話を金兵衛の耳に入れて、相談相手になってもらった。吉左衛門が半蔵を同道して、親子二人づれで妻籠の本陣を訪《たず》ねに行って来た時のことも、まずその報告をもたらすのは金兵衛のもとであった。ある日、二人は一緒になって、秋の祭礼までには間に合わせたいという舞台普請の話などから、若い人たちのうわさに移って行った。
「吉左衛門さん、妻籠の御本陣の娘さんはおいくつにおなりでしたっけ。」
「十七さ。」
 その時、金兵衛は指を折って数えて見て、
「して見ると、半蔵さんとは六つ違いでおいでなさる。」
 よい一対の若夫婦ができ上がるであろうというふうにそれを吉左衛門に言って見せた。そういう金兵衛にしても、吉左衛門にしても、二十三歳と十七歳とで結びつく若夫婦をそれほど早いとは考えなかった。早婚は一般にあたりまえの事と思われ、むしろよい風習とさえ見なされていた。当時の木曾谷には、新郎十六歳、新婦は十五歳で行なわれるような早い結婚もあって、それすら人は別に怪しみもしなかった。
「しかし、金兵衛さん、あの半蔵のやつがもう祝言《しゅうげん》だなんて、早いものですね。わたしもこれで、平素《ふだん》はそれほどにも思いませんが、こんな話が持ち上がると、自分でも年を取ったかと思いますよ。」
「なにしろ、吉左衛門さんもお大抵じゃない。あなたのところのお嫁取りなんて、御本陣と御本陣の御婚礼ですからねえ。」


「半蔵さま――お前さまのところへは、妻籠の御本陣からお嫁さまが来《こ》さっせるそうだなし。お前さまも大きくならっせいたものだ。」
 半蔵のところへは、こんなことを言いに寄る出入りのおふき婆《ばあ》さんもある。おふきは乳母《うば》として、幼い時分の半蔵の世話をした女だ。まだちいさかったころの半蔵を抱き、その背中に載せて、歩いたりしたのもこの女だ。半蔵の縁談がまとまったことは、本陣へ出入りの百姓のだれにもまして、この婆さんをよろこばせた。
 おふきはまた、今の本陣の「姉《あね》さま」(おまん)のいないところで、半蔵のそばへ来て歯のかけた声で言った。
「半蔵さま、お前さまは何も知らっせまいが、おれはお前さまのお母《っか》様をよく覚えている。お袖《そで》さま――美しい人だったぞなし。あれほどの容色《きりょう》は江戸にもないと言って、通る旅の衆が評判したくらいの人だったぞなし。あのお袖さまが煩《わずら》って亡《な》くなったのは、あれはお前さまを生んでから二十日《はつか》ばかり過ぎだったずら。おれはお前さまを抱いて、お母《っか》さまの枕《まくら》もとへ連れて行ったことがある。あれがお別れだった。三十二の歳《とし》の惜しい盛りよなし。それから、お前さまはまた、間もなく黄疸《おうだん》を病《や》まっせる。あの時は助かるまいと言われたくらいよなし。大旦那《おおだんな》(吉左衛門)の御苦労も一通りじゃあらすか。あのお母《っか》さまが今まで達者《たっしゃ》でいて、今度のお嫁取りの話なぞを聞かっせいたら、どんなだずら――」
 半蔵も生みの母を想像する年ごろに達していた。また、一人《ひとり》で両親を兼ねたような父吉左衛門が養育の辛苦を想像する年ごろにも達していた。しかしこのおふき婆さんを見るたびに、多く思い出すのは少年の日のことであった。子供の時分の彼が、あれが好きだったとか、これが好きだったとか、そんな食物のことをよく覚えていて、木曾の焼き米の青いにおい、蕎麦粉《そばこ》と里芋《さといも》の子で造る芋焼餅《いもやきもち》なぞを数えて見せるのも、この婆さんであるから。
 山地としての馬籠は森林と岩石との間であるばかりでなく、村の子供らの教育のことなぞにかけては耕されない土も同然であった。この山の中に生まれて、周囲には名を書くことも知らないようなものの多い村民の間に、半蔵は学問好きな少年としての自分を見つけたものである。村にはろくな寺小屋もなかった。人を化かす狐《きつね》や狸《たぬき》、その他|種々《さまざま》な迷信はあたりに暗く跋扈《ばっこ》していた。そういう中で、半蔵が人の子を教えることを思い立ったのは、まだ彼が未熟な十六歳のころからである。ちょうど今の隣家の鶴松《つるまつ》が桝田屋《ますだや》の子息《むすこ》などと連れだって通《かよ》って来るように、多い年には十六、七人からの子供が彼のもとへ読書習字珠算などのけいこに集まって来た。峠からも、荒町《あらまち》からも、中のかやからも。時には隣村の湯舟沢、山口からも。年若な半蔵は自分を育てようとするばかりでなく、同時に無学な村の子供を教えることから始めたのであった。
 山里にいて学問することも、この半蔵には容易でなかった。良師のないのが第一の困難であった。信州|上田《うえだ》の人で児玉《こだま》政雄《まさお》という医者がひところ馬籠に来て住んでいたことがある。その人に『詩経《しきょう》』の句読《くとう》を受けたのは、半蔵が十一歳の時にあたる。小雅《しょうが》の一章になって、児玉は村を去ってしまって、もはや就《つ》いて学ぶべき師もなかった。馬籠の万福寺には桑園和尚《そうえんおしょう》のような禅僧もあったが、教えて倦《う》まない人ではなかった。十三歳のころ、父吉左衛門について『古文真宝《こぶんしんぽう》』の句読を受けた。当時の半蔵はまだそれほど勉強する心があるでもなく、ただ父のそばにいて習字をしたり写本をしたりしたに過ぎない。そのうちに自ら奮って『四書《ししょ》』の集註《しゅうちゅう》を読み、十五歳には『易書《えきしょ》』や『春秋《しゅんじゅう》』の類《たぐい》にも通じるようになった。寒さ、暑さをいとわなかった独学の苦心が、それから十六、七歳のころまで続いた。父吉左衛門は和算を伊那《いな》の小野《おの》村の小野|甫邦《ほほう》に学んだ人で、その術には達していたから、半蔵も算術のことは父から習得した。村には、やれ魚|釣《つ》りだ碁将棋だと言って時を送る若者の多かった中で、半蔵ひとりはそんな方に目もくれず、また話相手の友だちもなくて、読書をそれらの遊戯に代えた。幸い一人の学友を美濃の中津川の方に見いだしたのはそのころからである。蜂谷《はちや》香蔵《こうぞう》と言って、もっと学ぶことを半蔵に説き勧めてくれたのも、この香蔵だ。二人の青年の早い友情が結ばれはじめてからは、馬籠と中津川との三里あまりの間を遠しとしなかった。ちょうど中津川には宮川寛斎がある。寛斎は香蔵が姉の夫にあたる。医者ではあるが、漢学に達していて、また国学にもくわしかった。馬籠の半蔵、中津川の香蔵――二蔵は互いに競い合って寛斎の指導を受けた。
「自分は独学で、そして固陋《ころう》だ。もとよりこんな山の中にいて見聞も寡《すくな》い。どうかして自分のようなものでも、もっと学びたい。」
 と半蔵は考え考えした。古い青山のような家に生まれた半蔵は、この師に導かれて、国学に心を傾けるようになって行った。二十三歳を迎えたころの彼は、言葉の世界に見つけた学問のよろこびを通して、賀茂《かもの》真淵《まぶち》、本居《もとおり》宣長《のりなが》、平田《ひらた》篤胤《あつたね》などの諸先輩がのこして置いて行った大きな仕事を想像するような若者であった。
 黒船は、実にこの半蔵の前にあらわれて来たのである。

       三

 その年、嘉永《かえい》六年の十一月には、半蔵が早い結婚の話も妻籠《つまご》の本陣あてに結納《ゆいのう》の品を贈るほど運んだ。
 もはや恵那山《えなさん》へは雪が来た。ある日、おまんは裏の土蔵の方へ行こうとした。山家のならわしで、めぼしい器物という器物は皆土蔵の中に持ち運んである。皿《さら》何人前、膳《ぜん》何人前などと箱書きしたものを出したり入れたりするだけでも、主婦の一役《ひとやく》だ。
 ちょうど、そこへ会所の使いが福島の役所からの差紙《さしがみ》を置いて行った。馬籠《まごめ》の庄屋《しょうや》あてだ。おまんはそれを渡そうとして、夫《おっと》を探《さが》した。
「大旦那《おおだんな》は。」
 と下女にきくと、
「蔵の方へおいでだぞなし。」
 という返事だ。おまんはその足で、母屋《もや》から勝手口の横手について裏の土蔵の前まで歩いて行った。石段の上には夫の脱いだ下駄《げた》もある。戸前の錠もはずしてある。夫もやはり同じ思いで、婚礼用の器物でも調べているらしい。おまんは土蔵の二階の方にごとごと音のするのを聞きながら梯子《はしご》を登って行って見た。そこに吉左衛門がいた。
「あなた、福島からお差紙《さしがみ》ですよ。」
 吉左衛門はわずかの閑《ひま》の時を見つけて、その二階に片づけ物なぞをしていた。壁によせて幾つとなく古い本箱の類《たぐい》も積み重ねてある。日ごろ彼の愛蔵する俳書、和漢の書籍なぞもそこに置いてある。その時、彼はおまんから受け取ったものを窓に近く持って行って読んで見た。
 その差紙には、海岸警衛のため公儀の物入りも莫大《ばくだい》だとある。国恩を報ずべき時節であると言って、三都の市中はもちろん、諸国の御料所《ごりょうしょ》、在方《ざいかた》村々まで、めいめい冥加《みょうが》のため上納金を差し出せとの江戸からの達しだということが書いてある。それにはまた、浦賀表《うらがおもて》へアメリカ船四|艘《そう》、長崎表へオロシャ船四艘交易のため渡来したことが断わってあって、海岸|防禦《ぼうぎょ》のためとも書き添えてある。
「これは国恩金の上納を命じてよこしたんだ。」と吉左衛門はおまんに言って見せた。「外は風雨《しけ》だというのに、内では祝言のしたくだ――しかしこのお差紙《さしがみ》の様子では、おれも一肌《ひとはだ》脱がずばなるまいよ。」
 その時になって見ると、半蔵の祝言を一つのくぎりとして、古い青山の家にもいろいろな動きがあった。年老いた吉左衛門の養母は祝言のごたごたを避けて、土蔵に近い位置にある隠居所の二階に隠れる。新夫婦の居間にと定められた店座敷へは、畳屋も通《かよ》って来る。長いこと勤めていた下男も暇を取って行って、そのかわり佐吉という男が今度新たに奉公に来た。
 おまんが梯子《はしご》を降りて行ったあと、吉左衛門はまた土蔵の明り窓に近く行った。鉄格子《てつごうし》を通してさし入る十一月の光線もあたりを柔らかに見せている。彼はひとりで手をもんで、福島から差紙のあった国防献金のことを考えた。徳川幕府あって以来いまだかつて聞いたこともないような、公儀の御金蔵《おかねぐら》がすでにからっぽになっているという内々《ないない》の取り沙汰《ざた》なぞが、その時、胸に浮かんだ。昔|気質《かたぎ》の彼はそれらの事を思い合わせて、若者の前でもなんでもおかまいなしに何事も大げさに触れ回るような人たちを憎んだ。そこから子に対
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