われるようになった。彼は貧困を征服しようとした親惣右衛門の心を飽くまでも持ちつづけた。誇るべき伝統もなく、そうかと言って煩《わずら》わされやすい過去もなかった。腕一本で、無造作に進んだ。
天明《てんめい》六年は二代目惣右衛門が五十三歳を迎えたころである。そのころの彼は、大きな造り酒屋の店にすわって、自分の子に酒の一番火入れなどをさせながら、初代在世のころからの八十年にわたる過去を思い出すような人であった。彼は親先祖から譲られた家督財産その他一切のものを天からの預かり物と考えよと自分の子に誨《おし》えた。彼は金銭を日本の宝の一つと考えよと誨《おし》えた。それをみだりにわが物と心得て、私用に費やそうものなら、いつか「天道《てんどう》」に泄《も》れ聞こえる時が来るとも誨えた。彼は先代惣右衛門の出発点を忘れそうな子孫の末を心配しながら死んだ。
伏見屋の金兵衛は、この惣右衛門親子の衣鉢《いはつ》を継いだのである。そういう金兵衛もまた持ち前の快活さで、家では造り酒屋のほかに質屋を兼ね、馬も持ち、田も造り、時には米の売買にもたずさわり、美濃の久々里《くくり》あたりの旗本にまで金を貸した。
二人《ふたり》の隣人――吉左衛門と金兵衛とをよく比べて言う人に、中津川の宮川寛斎がある。この学問のある田舎《いなか》医者に言わせると、馬籠は国境《くにざかい》だ、おそらく町人|気質《かたぎ》の金兵衛にも、あの惣右衛門親子にも、商才に富む美濃人の血が混《まじ》り合っているのだろう、そこへ行くと吉左衛門は多分に信濃《しなの》の百姓であると。
吉左衛門が青山の家は馬籠の裏山にある本陣林のように古い。木曾谷の西のはずれに初めて馬籠の村を開拓したのも、相州三浦《そうしゅうみうら》の方から移って来た青山|監物《けんもつ》の第二子であった。ここに一宇を建立《こんりゅう》して、万福寺《まんぷくじ》と名づけたのも、これまた同じ人であった。万福寺殿昌屋常久禅定門《まんぷくじでんしょうおくじょうきゅうぜんじょうもん》、俗名青山次郎左衛門、隠居しての名を道斎《どうさい》と呼んだ人が、自分で建立した寺の墓地に眠ったのは、天正《てんしょう》十二年の昔にあたる。
「金兵衛さんの家と、おれの家とは違う。」
と吉左衛門が自分の忰《せがれ》に言って見せるのも、その家族の歴史をさす。そういう吉左衛門が青山の家を継いだころは、十六代も連なり続いて来た木曾谷での最も古い家族の一つであった。
遠い馬籠の昔はくわしく知るよしもない。青山家の先祖が木曾にはいったのは、木曾|義昌《よしまさ》の時代で、おそらく福島の山村氏よりも古い。その後この地方の郷士《ごうし》として馬籠その他数か村の代官を勤めたらしい。慶長年代のころ、石田《いしだ》三成《みつなり》が西国の諸侯をかたらって濃州関ヶ原へ出陣のおり、徳川台徳院は中仙道《なかせんどう》を登って関ヶ原の方へ向かった。その時の御先立《おさきだち》には、山村|甚兵衛《じんべえ》、馬場《ばば》半左衛門《はんざえもん》、千村《ちむら》平右衛門《へいえもん》などの諸士を数える。馬籠の青山|庄三郎《しょうざぶろう》、またの名|重長《しげなが》(青山二代目)もまた、徳川|方《がた》に味方し、馬籠の砦《とりで》にこもって、犬山勢《いぬやまぜい》を防いだ。当時犬山城の石川備前は木曾へ討手《うって》を差し向けたが、木曾の郷士らが皆徳川方の味方をすると聞いて、激しくも戦わないで引き退いた。その後、青山の家では帰農して、代々本陣、庄屋、問屋の三役を兼ねるようになったのも、当時の戦功によるものであるという。
青山家の古い屋敷は、もと石屋の坂をおりた辺にあった。由緒《ゆいしょ》のある武具馬具なぞは、寛永年代の馬籠の大火に焼けて、二本の鎗《やり》だけが残った。その屋敷跡には代官屋敷の地名も残ったが、尾張藩への遠慮から、享保《きょうほう》九年の検地の時以来、代官屋敷の字《あざ》を石屋に改めたともいう。その辺は岩石の間で、付近に大きな岩があったからで。
子供の時分の半蔵を前にすわらせて置いて、吉左衛門はよくこんな古い話をして聞かせた。彼はまた、酒の上のきげんのよい心持ちなぞから、表玄関の長押《なげし》の上に掛けてある古い二本の鎗の下へ小忰《こせがれ》を連れて行って、
「御覧、御先祖さまが見ているぞ。いたずらするとこわいぞ。」
と戯れた。
隣家の伏見屋なぞにない古い伝統が年若《としわか》な半蔵の頭に深く刻みつけられたのは、幼いころから聞いたこの父の炬燵話《こたつばなし》からで。自分の忰に先祖のことでも語り聞かせるとなると、吉左衛門の目はまた特別に輝いたものだ。
「代官造りという言葉は、地名で残っている。吾家《うち》の先祖が代官を勤めた時分に、田地を手造りにした場所だというので、それで代官造りさ。今の町田《まちだ》がそれさ。その時分には、毎年五月に村じゅうの百姓を残らず集めて植え付けをした。その日に吾家《うち》から酒を一斗出した。酔って田圃《たんぼ》の中に倒れるものがあれば、その年は豊年としたものだそうだ。」
この話もよく出た。
吉左衛門の代になって、本陣へ出入りの百姓の家は十三軒ほどある。その多くは主従の関係に近い。吉左衛門が隣家の金兵衛とも違って、村じゅうの百姓をほとんど自分の子のように考えているのも、由来する源は遠かった。
二
「また、黒船ですぞ。」
七月の二十六日には、江戸からの御隠使《ごおんし》が十二代将軍徳川|家慶《いえよし》の薨去《こうきょ》を伝えた。道中奉行《どうちゅうぶぎょう》から、普請鳴り物類一切停止の触れも出た。この街道筋では中津川の祭礼のあるころに当たったが、狂言もけいこぎりで、舞台の興行なしに謹慎の意を表することになった。問屋九太夫の「また、黒船ですぞ」が、吉左衛門をも金兵衛をも驚かしたのは、それからわずかに三日過ぎのことであった。
「いったい、きょうは幾日です。七月の二十九日じゃありませんか。公儀の御隠使《ごおんし》が見えてから、まだ三日にしかならない。」
と言って吉左衛門は金兵衛と顔を見合わせた。長崎へ着いたというその唐人船《とうじんぶね》が、アメリカの船ではなくて、ほかの異国の船だといううわさもあるが、それさえこの山の中では判然《はっきり》しなかった。多くの人は、先に相州浦賀の沖合いへあらわれたと同じ唐人船だとした。
「長崎の方がまた大変な騒動だそうですよ。」
と金兵衛は言ったが、にわかに長崎奉行の通行があるというだけで、先荷物《さきにもつ》を運んで来る人たちの話はまちまちであった。奉行は通行を急いでいるとのことで、道割もいろいろに変わって来るので、宿場宿場で継立《つぎた》てに難渋した。八月の一日には、この街道では栗色《くりいろ》なめしの鎗《やり》を立てて江戸方面から進んで来る新任の長崎奉行、幕府内でも有数の人材に数えらるる水野《みずの》筑後《ちくご》の一行を迎えた。
ちょうど、吉左衛門が羽織を着かえに、大急ぎで自分の家へ帰った時のことだ。妻のおまんは刀に脇差《わきざし》なぞをそこへ取り出して来て勧めた。
「いや、馬籠の駅長で、おれはたくさんだ。」
と吉左衛門は言って、晴れて差せる大小も身に着けようとしなかった。今までどおりの丸腰で、着慣れた羽織だけに満足して、やがて奉行の送り迎えに出た。
諸公役が通過の時の慣例のように、吉左衛門は長崎奉行の駕籠《かご》の近く挨拶《あいさつ》に行った。旅を急ぐ奉行は乗り物からも降りなかった。本陣の前に駕籠を停《と》めさせてのほんのお小休みであった。料紙を載せた三宝《さんぽう》なぞがそこへ持ち運ばれた。その時、吉左衛門は、駕籠のそばにひざまずいて、言葉も簡単に、
「当宿本陣の吉左衛門でございます。お目通りを願います。」
と声をかけた。
「おゝ、馬籠の本陣か。」
奉行の砕けた挨拶だ。
水野|筑後《ちくご》は二千石の知行《ちぎょう》ということであるが、特にその旅は十万石の格式で、重大な任務を帯びながら遠く西へと通り過ぎた。
街道は暮れて行った。会所に集まった金兵衛はじめ、その他の宿役人もそれぞれ家の方へ帰って行った。隣宿落合まで荷をつけて行った馬方なぞも、長崎奉行の一行を見送ったあとで、ぽつぽつ馬を引いて戻って来るころだ。
子供らは街道に集まっていた。夕空に飛びかう蝙蝠《こうもり》の群れを追い回しながら、遊び戯れているのもその子供らだ。山の中のことで、夜鷹《よたか》もなき出す。往来一つ隔てて本陣とむかい合った梅屋の門口には、夜番の軒行燈《のきあんどん》の燈火《あかり》もついた。
一日の勤めを終わった吉左衛門は、しばらく自分の家の外に出て、山の空気を吸っていた。やがておまんが二人の下女《げじょ》を相手に働いている炉ばたの方へ引き返して行った。
「半蔵は。」
と吉左衛門はおまんにたずねた。
「今、今、仙十郎さんと二人でここに話していましたよ。あなた、異人の船がまたやって来たというじゃありませんか。半蔵はだれに聞いて来たんですか、オロシャの船だと言う。仙十郎さんはアメリカの船だと言う。オロシャだ、いやアメリカだ、そんなことを言い合って、また二人で屋外《そと》へ出て行きましたよ。」
「長崎あたりのことは、てんで様子がわからない――なにしろ、きょうはおれもくたぶれた。」
山家らしい風呂《ふろ》と、質素な夕飯とが、この吉左衛門を待っていた。ちょうど、その八月|朔日《ついたち》は吉左衛門が生まれた日にも当たっていた。だれしもその日となるといろいろ思い出すことが多いように、吉左衛門もまた長い駅路の経験を胸に浮かべた。雨にも風にもこの交通の要路を引き受け、旅人の安全を第一に心がけて、馬方《うまかた》、牛方《うしかた》、人足の世話から、道路の修繕、助郷《すけごう》の掛合《かけあい》まで、街道一切のめんどうを見て来たその心づかいは言葉にも尽くせないものがあった。
吉左衛門は炉ばたにいて、妻のおまんが温《あたた》めて出した一本の銚子と、到来物の鮎《あゆ》の塩焼きとで、自分の五十五歳を祝おうとした。彼はおまんに言った。
「きょうの長崎奉行にはおれも感心したねえ。水野|筑後《ちくご》の守《かみ》――あの人は二千石の知行《ちぎょう》取りだそうだが、きょうの御通行は十万石の格式だぜ。非常に破格な待遇さね。一足飛びに十万石の格式なんて、今まで聞いたこともない。それだけでも、徳川様の代《よ》は変わって来たような気がする。そりゃ泰平無事な日なら、いくら無能のものでも上に立つお武家様でいばっていられる。いったん、事ある場合に際会してごらん――」
「なにしろあなた、この唐人船の騒ぎですもの。」
「こういう時世になって来たのかなあ。」
寛《くつろ》ぎの間《ま》と名づけてあるのは、一方はこの炉ばたにつづき、一方は広い仲《なか》の間《ま》につづいている。吉左衛門が自分の部屋《へや》として臥起《ねお》きをしているのもその寛ぎの間だ。そこへも行って周囲を見回しながら、
「しかし、御苦労、御苦労。」
と吉左衛門は繰りかえした。おまんはそれを聞きとがめて、
「あなたはだれに言っていらっしゃるの。」
「おれか。だれも御苦労とも言ってくれるものがないから、おれは自分で自分に言ってるところさ。」
おまんは苦笑いした。吉左衛門は言葉をついで、
「でも、世の中は妙なものじゃないか。名古屋の殿様のために、お勝手向きのお世話でもしてあげれば、苗字《みょうじ》帯刀御免ということになる。三十年この街道の世話をしても、だれも御苦労とも言い手がない。このおれにとっては、目に見えない街道の世話の方がどれほど骨が折れたか知れないがなあ。」
そこまで行くと、それから先には言葉がなかった。
馬籠の駅長としての吉左衛門は、これまでにどれほどの人を送ったり迎えたりしたか知れない。彼も殺風景な仕事にあくせくとして来たが、すこしは風雅の道を心得ていた。この街道を通るほどのものは、どんな人でも彼の目には旅人であった。
遠からず
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