旋《あっせん》した。
 村の人たちは皆、街道に出て見た。その中に半蔵もいた。彼は父の吉左衛門に似て背《せい》も高く、青々とした月代《さかやき》も男らしく目につく若者である。ちょうど暑さの見舞いに村へ来ていた中津川の医者と連れだって、通行の邪魔にならないところに立った。この医者が宮川《みやがわ》寛斎《かんさい》だ。半蔵の旧《ふる》い師匠だ。その時、半蔵は無言。寛斎も無言で、ただ医者らしく頭を円《まる》めた寛斎の胸のあたりに、手にした扇だけがわずかに動いていた。
「半蔵さん。」
 上の伏見屋の仙十郎もそこへ来て、考え深い目つきをしている半蔵のそばに立った。目方百十五、六貫ばかりの大筒《おおづつ》の鉄砲、この人足二十二人がかり、それに七人がかりから十人がかりまでの大筒五|挺《ちょう》、都合六挺が、やがて村の人々の目の前を動いて行った。こんなに諸藩から江戸の邸《やしき》へ向けて大砲を運ぶことも、その日までなかったことだ。
 間もなく尾張の家中衆は見えなかった。しかし、不思議な沈黙が残った。その沈黙は、何が江戸の方に起こっているか知れないような、そんな心持ちを深い山の中にいるものに起こさせた。六月以来|頻繁《ひんぱん》な諸大名の通行で、江戸へ向けてこの木曾街道を経由するものに、黒船騒ぎに関係のないものはなかったからで。あるものは江戸湾一帯の海岸の防備、あるものは江戸城下の警固のためであったからで。
 金兵衛は吉左衛門の袖《そで》を引いて言った。
「いや、お帰り早々、いろいろお骨折りで。まあ、おかげでお継立《つぎた》ても済みました。今夜は御苦労呼びというほどでもありませんが、お玉のやつにしたくさせて置きます。あとでおいでを願いましょう。そのかわり、吉左衛門さん、ごちそうは何もありませんよ。」


 酒のさかな。胡瓜《きゅうり》もみに青紫蘇《あおじそ》。枝豆。到来物の畳《たた》みいわし。それに茄子《なす》の新漬《しんづ》け。飯の時にとろろ汁《じる》。すべてお玉の手料理の物で、金兵衛は夕飯に吉左衛門を招いた。
 店座敷も暑苦しいからと、二階を明けひろげて、お玉はそこへ二人《ふたり》の席を設けた。山家風《やまがふう》な風呂《ふろ》の用意もお玉の心づくしであった。招かれて行った吉左衛門は、一風呂よばれたあとのさっぱりとした心持ちで、広い炉ばたの片すみから二階への箱梯子《はこばしご》を登った。黒光りのするほどよく拭《ふ》き込んであるその箱梯子も伏見屋らしいものだ。西向きの二階の部屋《へや》には、金兵衛が先代の遺物と見えて、美濃派の俳人らの寄せ書きが灰汁抜《あくぬ》けのした表装にして壁に掛けてある。八人のものが集まって馬籠風景の八つの眺《なが》めを思い思いの句と画の中に取り入れたものである。この俳味のある掛け物の前に行って立つことも、吉左衛門をよろこばせた。
 夕飯。お玉は膳《ぜん》を運んで来た。ほんの有り合わせの手料理ながら、青みのある新しい野菜で膳の上を涼しく見せてある。やがて酒もはじまった。
「吉左衛門さん、何もありませんが召し上がってくださいな。」とお玉が言った。「吾家《うち》の鶴松《つるまつ》も出まして、お世話さまでございます。」
「さあ、一杯やってください。」と言って、金兵衛はお玉を顧みて、「吉左衛門さんはお前、苗字《みょうじ》帯刀御免ということになったんだよ。今までの吉左衛門さんとは違うよ。」
「それはおめでとうございます。」
「いえ。」と吉左衛門は頭をかいて、「苗字帯刀もこう安売りの時世になって来ては、それほどありがたくもありません。」
「でも、悪い気持ちはしないでしょう。」と金兵衛は言った。「二本さして、青山吉左衛門で通る。どこへ出ても、大威張《おおいば》りだ。」
「まあ、そう言わないでくれたまえ。それよりか、盃《さかずき》でもいただこうじゃありませんか。」
 吉左衛門も酒はいける口であり、それに勧め上手《じょうず》なお玉のお酌《しゃく》で、金兵衛とさしむかいに盃を重ねた。その二階は、かつて翁塚《おきなづか》の供養のあったおりに、落合の宗匠|崇佐坊《すさぼう》まで集まって、金兵衛が先代の記念のために俳席を開いたところだ。そう言えば、吉左衛門や金兵衛の旧《むかし》なじみでもはやこの世にいない人も多い。馬籠の生まれで水墨の山水や花果などを得意にした画家の蘭渓《らんけい》もその一人《ひとり》だ。あの蘭渓も、黒船騒ぎなぞは知らずに亡《な》くなった。
「お玉さんの前ですが。」と吉左衛門は言った。「こうして御酒《ごしゅ》でもいただくと、実に一切を忘れますよ。わたしはよく思い出す。金兵衛さん、ほら、あのアトリ(※[#「けものへん+臈のつくり」、第3水準1−87−81]子鳥)三十羽に、茶漬《ちゃづ》け三杯――」
「それさ。」と金兵衛も思い出したように、「わたしも今それを言おうと思っていたところさ。」
 アトリ三十羽に茶漬け三杯。あれは嘉永《かえい》二年にあたる。山里では小鳥のおびただしく捕《と》れた年で、ことに大平村《おおだいらむら》の方では毎日三千羽ずつものアトリが驚くほど鳥網にかかると言われ、この馬籠の宿までたびたび売りに来るものがあった。小鳥の名所として土地のものが誇る木曾の山の中でも、あんな年はめったにあるものでなかった。仲間のものが集まって、一興を催すことにしたのもその時だ。そのアトリ三十羽に、茶漬け三杯食えば、褒美《ほうび》として別に三十羽もらえる。もしまた、その三十羽と茶漬け三杯食えなかった時は、あべこべに六十羽差し出さなければならないという約束だ。場処は蓬莱屋《ほうらいや》。時刻は七つ時《どき》。食い手は吉左衛門と金兵衛の二人。食わせる方のものは組頭《くみがしら》笹屋《ささや》の庄兵衛《しょうべえ》と小笹屋《こざさや》の勝七。それには勝負を見届けるものもなくてはならぬ。蓬莱屋の新七がその審判官を引き受けた。さて、食った。約束のとおり、一人で三十羽、茶漬け三杯、残らず食い終わって、褒美の三十羽ずつは吉左衛門と金兵衛とでもらった。アトリは形もちいさく、骨も柔らかく、鶫《つぐみ》のような小鳥とはわけが違う。それでもなかなか食いではあったが、二人とも腹もはらないで、その足で会所の店座敷へ押し掛けてたくさん茶を飲んだ。その時の二人の年齢もまた忘れられずにある。吉左衛門は五十一歳、金兵衛は五十三歳を迎えたことであった。二人はそれほど盛んな食欲を競い合ったものだ。
「あんなおもしろいことはなかった。」
「いや、大笑いにも、なんにも。あんなおもしろいことは前代|未聞《みもん》さ。」
「出ましたね、金兵衛さんの前代未聞が――」
 こんな話も酒の上を楽しくした。隣人同志でもあり、宿役人同志でもある二人の友だちは、しばらく街道から離れる思いで、尽きない夜咄《よばなし》に、とろろ汁に、夏の夜のふけやすいことも忘れていた。
 馬籠《まごめ》の宿《しゅく》で初めて酒を造ったのは、伏見屋でなくて、桝田屋《ますだや》であった。そこの初代と二代目の主人、惣右衛門《そうえもん》親子のものであった。桝田屋の親子が協力して水の量目を計ったところ、下坂川《おりさかがわ》で四百六十目、桝田屋の井戸で四百八十目、伏見屋の井戸で四百九十目あったという。その中で下坂川の水をくんで、惣右衛門親子は初めて造り酒の試みに成功した。馬籠の水でも良い酒のできることを実際に示したのも親子二人のものであった。それまで馬籠には造り酒屋というものはなかった。
 この惣右衛門親子は、村の百姓の中から身を起こして無遠慮に頭を持ち上げた人たちであるばかりでなく、後の金兵衛らのためにも好《よ》かれ悪《あ》しかれ一つの進路を切り開いた最初の人たちである。桝田屋の初代が伏見屋から一軒置いて上隣りの街道に添うた位置に大きな家を新築したのは、宝暦七年の昔で、そのころに初代が六十五歳、二代目が二十五歳であった。親代々からの百姓であった初代惣右衛門が本家の梅屋から分かれて、別に自分の道を踏み出したのは、それよりさらに四十年も以前のことにあたる。
 馬籠は田畠《たはた》の間にすら大きくあらわれた石塊《いしころ》を見るような地方で、古くから生活も容易でないとされた山村である。初代惣右衛門はこの村に生まれて、十八歳の時から親の名跡《みょうせき》を継ぎ、岩石の間をもいとわず百姓の仕事を励んだ。本家は代々の年寄役でもあったので、若輩《じゃくはい》ながらにその役をも勤めた。旅人相手の街道に目をつけて、旅籠屋《はたごや》の新築を思い立ったのは、この初代が二十八、九のころにあたる。そのころの馬籠は、一|分《ぶ》か二分の金を借りるにも、隣宿の妻籠《つまご》か美濃の中津川まで出なければならなかった。師走《しわす》も押し詰まったころになると、中津川の備前屋《びぜんや》の親仁《おやじ》が十日あまりも馬籠へ来て泊まっていて、町中へ小貸《こが》しなどした。その金でようやく村のものが年を越したくらいの土地|柄《がら》であった。
 四人の子供を控えた初代惣右衛門夫婦の小歴史は、馬籠のような困窮な村にあって激しい生活苦とたたかった人たちの歴史である。百姓の仕事とする朝草《あさくさ》も、春先青草を見かける時分から九月十月の霜をつかむまで毎朝二度ずつは刈り、昼は人並みに会所の役を勤め、晩は宿泊の旅人を第一にして、その間に少しずつの米商いもした。かみさんはまたかみさんで、内職に豆腐屋をして、三、四人の幼いものを控えながら夜通し石臼《いしうす》をひいた。新宅の旅籠屋《はたごや》もできあがるころは、普請《ふしん》のおりに出た木の片《きれ》を燈《とぼ》して、それを油火《あぶらび》に替え、夜番の行燈《あんどん》を軒先へかかげるにも毎朝夜明け前に下掃除《したそうじ》を済まし、同じ布で戸障子《としょうじ》の敷居などを拭《ふ》いたのも、そのかみさんだ。貧しさにいる夫婦二人のものは、自分の子供らを路頭に立たせまいとの願いから、夜一夜ろくろく安気《あんき》に眠ったこともなかったほど働いた。
 そのころ、本家の梅屋では隣村湯舟沢から来る人足たちの宿をしていた。その縁故から、初代夫婦はなじみの人足に頼んで、春先の食米《くいまい》三斗ずつ内証で借りうけ、秋米《あきまい》で四斗ずつ返すことにしていた。これは田地を仕付けるにも、旅籠屋《はたごや》片手間では芝草の用意もなりかねるところから、麦で少しずつ刈り造ることに生活の方法を改めたからで。
 初代惣右衛門はこんなところから出発した。旅籠屋の営業と、そして骨の折れる耕作と。もともと馬籠にはほかによい旅籠屋もなかったから、新宅と言って泊まる旅人も多く、追い追いと常得意の客もつき、小女《こおんな》まで置き、その奉公人の給金も三分がものは翌年は一両に増してやれるほどになった。飯米《はんまい》一升買いの時代のあとには、一俵買いの時代も来、後には馬で中津川から呼ぶ時代も来た。新宅桝田屋の主人はもうただの百姓でもなかった。旅籠屋営業のほかに少しずつ商売などもする町人であった。
 二代目惣右衛門はこの夫婦の末子として生まれた。親から仕来《しきた》った百姓は百姓として、惣領《そうりょう》にはまだ家の仕事を継ぐ特権もある。次男三男からはそれも望めなかった。十三、四のころから草刈り奉公に出て、末は雲助《くもすけ》にでもなるか。末子と生まれたものが成人しても、馬追いか駕籠《かご》かきにきまったものとされたほどの時代である。そういう中で、二代目惣右衛門は親のそばにいて、物心づくころから草刈り奉公にも出されなかったというだけでも、親惣右衛門を徳とした。この二代目がまた、親の仕事を幾倍かにひろげた。
 人も知るように、当時の諸大名が農民から収めた年貢米《ねんぐまい》の多くは、大坂の方に輸送されて、金銀に替えられた。大坂は米取引の一大市場であった。次第に商法も手広くやるころの二代目惣右衛門は、大坂の米相場にも無関心ではなかった人である。彼はまた、優に千両の無尽にも応じたが、それほど実力を積み蓄えた分限者《ぶげんしゃ》は木曾谷中にも彼のほかにないと言
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