へ急いだ。山里に住むものは、すこし変わったことでも見たり聞いたりすると、すぐそれを何かの暗示に結びつけた。
 三日がかりで村じゅうのものが引き合った伊勢木を落合川の方へ流したあとになっても、まだ御利生《ごりしょう》は見えなかった。峠のものは熊野《くまの》大権現《だいごんげん》に、荒町のものは愛宕山《あたごやま》に、いずれも百八の松明《たいまつ》をとぼして、思い思いの祈願をこめる。宿内では二組に分かれてのお日待《ひまち》も始まる。雨乞いの祈祷《きとう》、それに水の拝借と言って、村からは諏訪《すわ》大社《たいしゃ》へ二人の代参までも送った。神前へのお初穂料《はつほりょう》として金百|疋《ぴき》、道中の路用として一人《ひとり》につき一|分《ぶ》二|朱《しゅ》ずつ、百六十軒の村じゅうのものが十九文ずつ出し合ってそれを分担した。
 東海道|浦賀《うらが》の宿《しゅく》、久里《くり》が浜《はま》の沖合いに、黒船のおびただしく現われたといううわさが伝わって来たのも、村ではこの雨乞いの最中である。
 問屋の九太夫がまずそれを彦根《ひこね》の早飛脚《はやびきゃく》から聞きつけて、吉左衛門にも告げ、金兵衛にも告げた。その黒船の現われたため、にわかに彦根の藩主は幕府から現場の詰役《つめやく》を命ぜられたとのこと。
 嘉永《かえい》六年六月十日の晩で、ちょうど諏訪大社からの二人の代参が村をさして大急ぎに帰って来たころは、その乾《かわ》ききった夜の空気の中を彦根の使者が西へ急いだ。江戸からの便《たよ》りは中仙道《なかせんどう》を経て、この山の中へ届くまでに、早飛脚でも相応日数はかかる。黒船とか、唐人船《とうじんぶね》とかがおびただしくあの沖合いにあらわれたということ以外に、くわしいことはだれにもわからない。ましてアメリカの水師提督ペリイが四|艘《そう》の軍艦を率いて、初めて日本に到着したなぞとは、知りようもない。
「江戸は大変だということですよ。」
 金兵衛はただそれだけを吉左衛門の耳にささやいた。
[#改丁]

     第一章

       一

 七月にはいって、吉左衛門《きちざえもん》は木曾福島《きそふくしま》の用事を済まして出張先から引き取って来た。その用向きは、前の年の秋に、福島の勘定所から依頼のあった仕法立《しほうだ》ての件で、馬籠《まごめ》の宿《しゅく》としては金百両の調達を引き請け、暮れに五十両の無尽《むじん》を取り立ててその金は福島の方へ回し、二番口も敷金にして、首尾よく無尽も終会になったところで、都合全部の上納を終わったことを届けて置いてあった。今度、福島からその挨拶《あいさつ》があったのだ。
 金兵衛《きんべえ》は待ち兼ね顔に、無事で帰って来たこの吉左衛門を自分の家の店座敷《みせざしき》に迎えた。金兵衛の家は伏見屋《ふしみや》と言って、造り酒屋をしている。街道に添うた軒先に杉《すぎ》の葉の円《まる》く束《たば》にしたのを掛け、それを清酒の看板に代えてあるようなところだ。店座敷も広い。その時、吉左衛門は福島から受け取って来たものを風呂敷《ふろしき》包《づつ》みの中から取り出して、
「さあ、これだ。」
 と金兵衛の前に置いた。村の宿役人仲間へ料紙一束ずつ、無尽の加入者一同への酒肴料《しゅこうりょう》、まだそのほかに、二巾《ふたはば》の縮緬《ちりめん》の風呂敷が二枚あった。それは金兵衛と桝田屋《ますだや》の儀助《ぎすけ》の二人《ふたり》が特に多くの金高を引き受けたというので、その挨拶の意味のものだ。
 吉左衛門の報告はそれだけにとどまらなかった。最後に、一通の書付《かきつけ》もそこへ取り出して見せた。

[#ここから1字下げ]
「其方《そのほう》儀、御勝手《おかって》御仕法立てにつき、頼母子講《たのもしこう》御世話|方《かた》格別に存じ入り、小前《こまえ》の諭《さと》し方も行き届き、その上、自身にも別段御奉公申し上げ、奇特の事に候《そうろう》。よって、一代|苗字《みょうじ》帯刀《たいとう》御免なし下され候。その心得あるべきものなり。」
  嘉永《かえい》六年|丑《うし》六月
[#地から2字上げ]三《みつ》逸作《いつさく》
[#地から2字上げ]石《いし》団之丞《だんのじょう》
[#地から2字上げ]荻《おぎ》丈左衛門《じょうざえもん》
[#地から2字上げ]白《しろ》新五左衛門《しんござえもん》
    青山吉左衛門殿
[#ここで字下げ終わり]

「ホ。苗字帯刀御免とありますね。」
「まあ、そんなことが書いてある。」
「吉左衛門さん一代限りともありますね。なんにしても、これは名誉だ。」
 と金兵衛が言うと、吉左衛門はすこし苦《にが》い顔をして、
「これが、せめて十年前だとねえ。」
 ともかくも吉左衛門は役目を果たしたが、同時に勘定所の役人たちがいやな臭気《におい》をもかいで帰って来た。苗字帯刀を勘定所のやり繰り算段に替えられることは、吉左衛門としてあまりいい心持ちはしなかった。
「金兵衛さん、君には察してもらえるでしょうが、庄屋《しょうや》のつとめも辛《つら》いものだと思って来ましたよ。」
 吉左衛門の述懐だ。
 その時、上《かみ》の伏見屋の仙十郎《せんじゅうろう》が顔を出したので、しばらく二人《ふたり》はこんな話を打ち切った。仙十郎は金兵衛の仕事を手伝わされているので、ちょっと用事の打ち合わせに来た。金兵衛を叔父《おじ》と呼び、吉左衛門を義理ある父としているこの仙十郎は伏見家から分家して、別に上の伏見屋という家を持っている。年も半蔵より三つほど上で、腰にした煙草入《たばこい》れの根付《ねつけ》にまで新しい時の流行《はやり》を見せたような若者だ。
「仙十郎、お前も茶でも飲んで行かないか。」
 と金兵衛が言ったが、仙十郎は吉左衛門の前に出ると妙に改まってしまって、茶も飲まなかった。何か気づまりな、じっとしていられないようなふうで、やがてそこを出て行った。
 吉左衛門は見送りながら、
「みんなどういう人になって行きますかさ――仙十郎にしても、半蔵にしても。」
 若者への関心にかけては、金兵衛とても吉左衛門に劣らない。アメリカのペリイ来訪以来のあわただしさはおろか、それ以前からの周囲の空気の中にあるものは、若者の目や耳から隠したいことばかりであった。殺人、盗賊、駈落《かけおち》、男女の情死、諸役人の腐敗|沙汰《ざた》なぞは、この街道でめずらしいことではなくなった。
 同宿三十年――なんと言っても吉左衛門と金兵衛とは、その同じ駅路の記憶につながっていた。この二人に言わせると、日ごろ上に立つ人たちからやかましく督促せらるることは、街道のよい整理である。言葉をかえて言えば、封建社会の「秩序」である。しかしこの「秩序」を乱そうとするものも、そういう上に立つ人たちからであった。博打《ばくち》はもってのほかだという。しかし毎年の毛付《けづ》け(馬市)を賭博場《とばくじょう》に公開して、土地の繁華を計っているのも福島の役人であった。袖《そで》の下はもってのほかだという。しかし御肴代《おさかなだい》もしくは御祝儀《ごしゅうぎ》何両かの献上金を納めさせることなしに、かつてこの街道を通行したためしのないのも日光への例幣使であった。人殺しはもってのほかだという。しかし八沢《やさわ》の長坂の路傍《みちばた》にあたるところで口論の末から土佐《とさ》の家中《かちゅう》の一人を殺害し、その仲裁にはいった一人の親指を切り落とし、この街道で刃傷《にんじょう》の手本を示したのも小池《こいけ》伊勢《いせ》の家中であった。女は手形《てがた》なしには関所をも通さないという。しかし木曾路を通るごとに女の乗り物を用意させ、見る人が見ればそれが正式な夫人のものでないのも彦根《ひこね》の殿様であった。
「あゝ。」と吉左衛門は嘆息して、「世の中はどうなって行くかと思うようだ。あの御勘定所のお役人なぞがお殿様からのお言葉だなんて、献金の世話を頼みに出張して来て、吾家《うち》の床柱の前にでもすわり込まれると、わたしはまたかと思う。しかし、金兵衛さん、そのお役人の行ってしまったあとでは、わたしはどんな無理なことでも聞かなくちゃならないような気がする……」
 東海道浦賀の方に黒船の着いたといううわさを耳にした時、最初吉左衛門や金兵衛はそれほどにも思わなかった。江戸は大変だということであっても、そんな騒ぎは今にやむだろうぐらいに二人とも考えていた。江戸から八十三里の余も隔たった木曾の山の中に住んで、鎖国以来の長い眠りを眠りつづけて来たものは、アメリカのような異国の存在すら初めて知るくらいの時だ。
 この街道に伝わるうわさの多くは、諺《ことわざ》にもあるようにころがるたびに大きな塊《かたまり》になる雪達磨《ゆきだるま》に似ている。六月十日の晩に、彦根の早飛脚が残して置いて行ったうわさもそれで、十四日には黒船八十六|艘《そう》もの信じがたいような大きな話になって伝わって来た。寛永《かんえい》十年以来、日本国の一切の船は海の外に出ることを禁じられ、五百石以上の大船を造ることも禁じられ、オランダ、シナ、朝鮮をのぞくほかは外国船の来航をも堅く禁じてある。その国のおきてを無視して、故意にもそれを破ろうとするものがまっしぐらにあの江戸湾を望んで直進して来た。当時幕府が船改めの番所は下田《しもだ》の港から浦賀の方に移してある。そんな番所の所在地まで知って、あの唐人船《とうじんぶね》がやって来たことすら、すでに不思議の一つであると言われた。
 様々な流言が伝わって来た。宿役人としての吉左衛門らはそんな流言からも村民をまもらねばならなかった。やがて通行の前触れだ。間もなくこの街道では江戸出府の尾張《おわり》の家中を迎えた。尾張藩主(徳川|慶勝《よしかつ》)の名代《みょうだい》、成瀬《なるせ》隼人之正《はやとのしょう》、その家中のおびただしい通行のあとには、かねて待ち受けていた彦根の家中も追い追いやって来る。公儀の御茶壺《おちゃつぼ》同様にとの特別扱いのお触れがあって、名古屋城からの具足《ぐそく》長持《ながもち》が十棹《とさお》もそのあとから続いた。それらの警護の武士が美濃路《みのじ》から借りて連れて来た人足だけでも、百五十人に上った。継立《つぎた》ても難渋であった。馬籠の宿場としては、山口村からの二十人の加勢しか得られなかった。例の黒船はやがて残らず帰って行ったとやらで、江戸表へ出張の人たちは途中から引き返して来るものがある。ある朝|馬籠《まごめ》から送り出した長持は隣宿の妻籠《つまご》で行き止まり、翌朝中津川から来た長持は馬籠の本陣の前で立ち往生する。荷物はそれぞれ問屋預けということになったが、人馬継立ての見分《けんぶん》として奉行《ぶぎょう》まで出張して来るほど街道はごたごたした。
 狼狽《ろうばい》そのもののようなこの混雑が静まったのは、半月ほど前にあたる。浦賀へ押し寄せて来た唐人船も行くえ知れずになって、まずまず恐悦《きょうえつ》だ。そんな報知《しらせ》が、江戸方面からは追い追いと伝わって来たころだ。
 吉左衛門は金兵衛を相手に、伏見屋の店座敷で話し込んでいると、ちょうどそこへ警護の武士を先に立てた尾張の家中の一隊が西から街道を進んで来た。吉左衛門と金兵衛とは談話《はなし》半ばに伏見屋を出て、この一隊を迎えるためにほかの宿役人らとも一緒になった。尾張の家中は江戸の方へ大筒《おおづつ》の鉄砲を運ぶ途中で、馬籠の宿の片側に来て足を休めて行くところであった。本陣や問屋の前あたりは檜木笠《ひのきがさ》や六尺棒なぞで埋《うず》められた。騎馬から降りて休息する武士もあった。肌《はだ》脱ぎになって背中に流れる汗をふく人足たちもあった。よくあの重いものをかつぎ上げて、美濃境《みのざかい》の十曲峠《じっきょくとうげ》を越えることができたと、人々はその話で持ちきった。吉左衛門はじめ、金兵衛らはこの労苦をねぎらい、問屋の九太夫はまた桝田屋《ますだや》の儀助らと共にその間を奔《はし》り回って、隣宿妻籠までの継立てのことを斡
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