すこしの怠りでもあると、木曾谷中三十三か村の庄屋《しょうや》は上松《あげまつ》の陣屋へ呼び出される。吉左衛門の家は代々本陣庄屋問屋の三役を兼ねたから、そのたびに庄屋として、背伐《せぎ》りの厳禁を犯した村民のため言い開きをしなければならなかった。どうして檜木《ひのき》一本でもばかにならない。陣屋の役人の目には、どうかすると人間の生命《いのち》よりも重かった。
「昔はこの木曾山の木一本伐ると、首一つなかったものだぞ。」
陣屋の役人の威《おど》し文句だ。
この役人が吟味のために村へはいり込むといううわさでも伝わると、猪《いのしし》や鹿《しか》どころの騒ぎでなかった。あわてて不用の材木を焼き捨てるものがある。囲って置いた檜板《ひのきいた》を他《よそ》へ移すものがある。多分の木を盗んで置いて、板にへいだり、売りさばいたりした村の人などはことに狼狽《ろうばい》する。背伐《せぎ》りの吟味と言えば、村じゅう家探《やさが》しの評判が立つほど厳重をきわめたものだ。
目証《めあかし》の弥平《やへい》はもう長いこと村に滞在して、幕府時代の卑《ひく》い「おかっぴき」の役目をつとめていた。弥平の案内で、福島の役所からの役人を迎えた日のことは、一生忘れられない出来事の一つとして、まだ吉左衛門の記憶には新しくてある。その吟味は本陣の家の門内で行なわれた。のみならず、そんなにたくさんな怪我人《けがにん》を出したことも、村の歴史としてかつて聞かなかったことだ。前庭の上段には、福島から来た役人の年寄、用人、書役《かきやく》などが居並んで、そのわきには足軽が四人も控えた。それから村じゅうのものが呼び出された。その科《とが》によって腰繩《こしなわ》手錠で宿役人の中へ預けられることになった。もっとも、老年で七十歳以上のものは手錠を免ぜられ、すでに死亡したものは「お叱《しか》り」というだけにとどめて特別な憐憫《れんびん》を加えられた。
この光景をのぞき見ようとして、庭のすみの梨《なし》の木のかげに隠れていたものもある。その中に吉左衛門が忰《せがれ》の半蔵もいる。当時十八歳の半蔵は、目を据えて、役人のすることや、腰繩につながれた村の人たちのさまを見ている。それに吉左衛門は気がついて、
「さあ、行った、行った――ここはお前たちなぞの立ってるところじゃない。」
としかった。
六十一人もの村民が宿役人へ預けられることになったのも、その時だ。その中の十人は金兵衛が預かった。馬籠《まごめ》の宿役人や組頭《くみがしら》としてこれが見ていられるものでもない。福島の役人たちが湯舟沢村の方へ引き揚げて行った後で、「お叱り」のものの赦免せられるようにと、不幸な村民のために一同お日待《ひまち》をつとめた。その時のお札は一枚ずつ村じゅうへ配当した。
この出来事があってから二十日《はつか》ばかり過ぎに、「お叱り」のものの残らず手錠を免ぜられる日がようやく来た。福島からは三人の役人が出張してそれを伝えた。
手錠を解かれた小前《こまえ》のものの一人《ひとり》は、役人の前に進み出て、おずおずとした調子で言った。
「畏《おそ》れながら申し上げます。木曾は御承知のとおりな山の中でございます。こんな田畑もすくないような土地でございます。お役人様の前ですが、山の林にでもすがるよりほかに、わたくしどもの立つ瀬はございません。」
四
新茶屋に、馬籠の宿の一番西のはずれのところに、その路傍《みちばた》に芭蕉《ばしょう》の句塚《くづか》の建てられたころは、なんと言っても徳川の代《よ》はまだ平和であった。
木曾路の入り口に新しい名所を一つ造る、信濃《しなの》と美濃《みの》の国境《くにざかい》にあたる一里|塚《づか》に近い位置をえらんで街道を往来する旅人の目にもよくつくような緩慢《なだらか》な丘のすそに翁塚《おきなづか》を建てる、山石や躑躅《つつじ》や蘭《らん》などを運んで行って周囲に休息の思いを与える、土を盛りあげた塚の上に翁の句碑を置く――その楽しい考えが、日ごろ俳諧《はいかい》なぞに遊ぶと聞いたこともない金兵衛の胸に浮かんだということは、それだけでも吉左衛門を驚かした。そういう吉左衛門はいくらか風雅の道に嗜《たしな》みもあって、本陣や庄屋の仕事のかたわら、美濃派の俳諧の流れをくんだ句作にふけることもあったからで。
あれほど山里に住む心地《こころもち》を引き出されたことも、吉左衛門らにはめずらしかった。金兵衛はまた石屋に渡した仕事もほぼできたと言って、その都度《つど》句碑の工事を見に吉左衛門を誘った。二人とも山家風《やまがふう》な軽袗《かるさん》(地方により、もんぺいというもの)をはいて出かけたものだ。
「親父《おやじ》も俳諧は好きでした。自分の生きているうちに翁塚の一つも建てて置きたいと、口癖のようにそう言っていました。まあ、あの親父の供養《くよう》にと思って、わたしもこんなことを思い立ちましたよ。」
そう言って見せる金兵衛の案内で、吉左衛門も工作された石のそばに寄って見た。碑の表面には左の文字が読まれた。
送られつ送りつ果《はて》は木曾の龝《あき》 はせを
「これは達者《たっしゃ》に書いてある。」
「でも、この秋という字がわたしはすこし気に入らん。禾《のぎ》へんがくずして書いてあって、それにつくりが龜《かめ》でしょう。」
「こういう書き方もありますサ。」
「どうもこれでは木曾の蠅《はえ》としか読めない。」
こんな話の出たのも、一昔前《ひとむかしまえ》だ。
あれは天保十四年にあたる。いわゆる天保の改革の頃で、世の中建て直しということがしきりに触れ出される。村方一切の諸帳簿の取り調べが始まる。福島の役所からは公役、普請役《ふしんやく》が上って来る。尾張藩の寺社《じしゃ》奉行《ぶぎょう》、または材木方の通行も続く。馬籠の荒町《あらまち》にある村社の鳥居《とりい》のために檜木《ひのき》を背伐《せぎ》りしたと言って、その始末書を取られるような細かい干渉がやって来る。村民の使用する煙草《たばこ》入《い》れ、紙入れから、女のかんざしまで、およそ銀という銀を用いた類《たぐい》のものは、すべて引き上げられ、封印をつけられ、目方まで改められて、庄屋《しょうや》預けということになる。それほど政治はこまかくなって、句碑一つもうっかり建てられないような時世ではあったが、まだまだそれでも社会にゆとりがあった。
翁塚の供養はその年の四月のはじめに行なわれた。あいにくと曇った日で、八《や》つ半時《はんどき》より雨も降り出した。招きを受けた客は、おもに美濃の連中で、手土産《てみやげ》も田舎《いなか》らしく、扇子に羊羹《ようかん》を添えて来るもの、生椎茸《なまじいたけ》をさげて来るもの、先代の好きな菓子を仏前へと言ってわざわざ玉あられ一箱用意して来るもの、それらの人たちが金兵衛方へ集まって見た時は、国も二つ、言葉の訛《なま》りもまた二つに入れまじった。その中には、峠一つ降りたところに住む隣宿|落合《おちあい》の宗匠、崇佐坊《すさぼう》も招かれて来た。この人の世話で、美濃派の俳席らしい支考《しこう》の『三※[#「兆+頁」、第3水準1−93−89]《さんちょう》の図』なぞの壁にかけられたところで、やがて連中の付合《つけあい》があった。
主人役の金兵衛は、自分で五十韻、ないし百韻の仲間入りはできないまでも、
「これで、さぞ親父《おやじ》もよろこびましょうよ。」
と言って、弁当に酒さかななど重詰《じゅうづめ》にして出し、招いた人たちの間を斡旋《あっせん》した。
その日は新たにできた塚のもとに一同集まって、そこで吟声供養を済ますはずであった。ところが、記念の一巻を巻き終わるのに日暮れ方までかかって、吟声は金兵衛の宅で済ました。供養の式だけを新茶屋の方で行なった。
昔気質《むかしかたぎ》の金兵衛は亡父の形見《かたみ》だと言って、その日宗匠|崇佐坊《すさぼう》へ茶縞《ちゃじま》の綿入れ羽織なぞを贈るために、わざわざ自分で落合まで出かけて行く人である。
吉左衛門は金兵衛に言った。
「やっぱり君はわたしのよい友だちだ。」
五
暑い夏が来た。旧暦五月の日のあたった街道を踏んで、伊那《いな》の方面まで繭買いにと出かける中津川の商人も通る。その草いきれのするあつい空気の中で、上り下りの諸大名の通行もある。月の末には毎年福島の方に立つ毛付《けづ》け(馬市)も近づき、各村の駒改《こまあらた》めということも新たに開始された。当時幕府に勢力のある彦根《ひこね》の藩主(井伊《いい》掃部頭《かもんのかみ》)も、久しぶりの帰国と見え、須原宿《すはらじゅく》泊まり、妻籠宿《つまごしゅく》昼食《ちゅうじき》、馬籠はお小休《こやす》みで、木曾路を通った。
六月にはいって見ると、うち続いた快晴で、日に増し照りも強く、村じゅうで雨乞《あまご》いでも始めなければならないほどの激しい暑気になった。荒町の部落ではすでにそれを始めた。
ちょうど、峠の上の方から馬をひいて街道を降りて来る村の小前《こまえ》のものがある。福島の馬市からの戻《もど》りと見えて、青毛の親馬のほかに、当歳らしい一匹の子馬をもそのあとに連れている。気の短い問屋の九太夫《くだゆう》がそれを見つけて、どなった。
「おい、どこへ行っていたんだい。」
「馬買いよなし。」
「この旱《ひで》りを知らんのか。お前の留守に、田圃《たんぼ》は乾《かわ》いてしまう。荒町あたりじゃ梵天山《ぼんでんやま》へ登って、雨乞いを始めている。氏神《うじがみ》さまへ行ってごらん、お千度《せんど》参《まい》りの騒ぎだ。」
「そう言われると、一言《いちごん》もない。」
「さあ、このお天気続きでは、伊勢木《いせぎ》を出さずに済むまいぞ。」
伊勢木とは、伊勢太神宮へ祈願をこめるための神木《しんぼく》をさす。こうした深い山の中に古くから行なわれる雨乞いの習慣である。よくよくの年でなければこの伊勢木を引き出すということもなかった。
六月の六日、村民一同は鎌止《かまど》めを申し合わせ、荒町にある氏神の境内に集まった。本陣、問屋をはじめ、宿役人から組頭《くみがしら》まで残らずそこに参集して、氏神境内の宮林《みやばやし》から樅《もみ》の木一本を元伐《もとぎ》りにする相談をした。
「一本じゃ、伊勢木も足りまい。」
と吉左衛門が言い出すと、金兵衛はすかさず答えた。
「や、そいつはわたしに寄付させてもらいましょう。ちょうどよい樅《もみ》が一本、吾家《うち》の林にもありますから。」
元伐《もとぎ》りにした二本の樅には注連《しめ》なぞが掛けられて、その前で禰宜《ねぎ》の祈祷《きとう》があった。この清浄な神木が日暮れ方になってようやく鳥居の前に引き出されると、左右に分かれた村民は声を揚げ、太い綱でそれを引き合いはじめた。
「よいよ。よいよ。」
互いに競い合う村の人たちの声は、荒町のはずれから馬籠の中央にある高札場《こうさつば》あたりまで響けた。こうなると、庄屋としての吉左衛門も骨が折れる。金兵衛は自分から進んで神木の樅を寄付した関係もあり、夕飯のしたくもそこそこにまた馬籠の町内のものを引き連れて行って見ると、伊勢木はずっと新茶屋の方まで荒町の百姓の力に引かれて行く。それを取り戻そうとして、三《み》つや表《おもて》から畳石《たたみいし》の辺で双方のもみ合いが始まる。とうとうその晩は伊勢木を荒町に止めて置いて、一同疲れて家に帰ったころは一番|鶏《どり》が鳴いた。
「どうもことしは年回りがよくない。」
「そう言えば、正月のはじめから不思議なこともありましたよ。正月の三日の晩です、この山の東の方から光ったものが出て、それが西南《にしみなみ》の方角へ飛んだといいます。見たものは皆驚いたそうですよ。馬籠《まごめ》ばかりじゃない、妻籠《つまご》でも、山口でも、中津川でも見たものがある。」
吉左衛門と金兵衛とは二人《ふたり》でこんな話をして、伊勢木の始末をするために、村民の集まっているところ
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