夜明け前
第一部上
島崎藤村
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)木曾路《きそじ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)木曾十一|宿《しゅく》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「木+鑞のつくり」、10−17]
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序の章
一
木曾路《きそじ》はすべて山の中である。あるところは岨《そば》づたいに行く崖《がけ》の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道《かいどう》はこの深い森林地帯を貫いていた。
東ざかいの桜沢から、西の十曲峠《じっきょくとうげ》まで、木曾十一|宿《しゅく》はこの街道に添うて、二十二里余にわたる長い谿谷《けいこく》の間に散在していた。道路の位置も幾たびか改まったもので、古道はいつのまにか深い山間《やまあい》に埋《うず》もれた。名高い桟《かけはし》も、蔦《つた》のかずらを頼みにしたような危《あぶな》い場処ではなくなって、徳川時代の末にはすでに渡ることのできる橋であった。新規に新規にとできた道はだんだん谷の下の方の位置へと降《くだ》って来た。道の狭いところには、木を伐《き》って並べ、藤《ふじ》づるでからめ、それで街道の狭いのを補った。長い間にこの木曾路に起こって来た変化は、いくらかずつでも嶮岨《けんそ》な山坂の多いところを歩きよくした。そのかわり、大雨ごとにやって来る河水の氾濫《はんらん》が旅行を困難にする。そのたびに旅人は最寄《もよ》り最寄りの宿場に逗留《とうりゅう》して、道路の開通を待つこともめずらしくない。
この街道の変遷は幾世紀にわたる封建時代の発達をも、その制度組織の用心深さをも語っていた。鉄砲を改め女を改めるほど旅行者の取り締まりを厳重にした時代に、これほどよい要害の地勢もないからである。この谿谷《けいこく》の最も深いところには木曾福島《きそふくしま》の関所も隠れていた。
東山道《とうさんどう》とも言い、木曾街道六十九|次《つぎ》とも言った駅路の一部がここだ。この道は東は板橋《いたばし》を経て江戸に続き、西は大津《おおつ》を経て京都にまで続いて行っている。東海道方面を回らないほどの旅人は、否《いや》でも応《おう》でもこの道を踏まねばならぬ。一里ごとに塚《つか》を築き、榎《えのき》を植えて、里程を知るたよりとした昔は、旅人はいずれも道中記をふところにして、宿場から宿場へとかかりながら、この街道筋を往来した。
馬籠《まごめ》は木曾十一宿の一つで、この長い谿谷の尽きたところにある。西よりする木曾路の最初の入り口にあたる。そこは美濃境《みのざかい》にも近い。美濃方面から十曲峠に添うて、曲がりくねった山坂をよじ登って来るものは、高い峠の上の位置にこの宿《しゅく》を見つける。街道の両側には一段ずつ石垣《いしがき》を築いてその上に民家を建てたようなところで、風雪をしのぐための石を載せた板屋根がその左右に並んでいる。宿場らしい高札《こうさつ》の立つところを中心に、本陣《ほんじん》、問屋《といや》、年寄《としより》、伝馬役《てんまやく》、定歩行役《じょうほこうやく》、水役《みずやく》、七里役《しちりやく》(飛脚)などより成る百軒ばかりの家々が主《おも》な部分で、まだそのほかに宿内の控えとなっている小名《こな》の家数を加えると六十軒ばかりの民家を数える。荒町《あらまち》、みつや、横手《よこて》、中のかや、岩田《いわた》、峠《とうげ》などの部落がそれだ。そこの宿はずれでは狸《たぬき》の膏薬《こうやく》を売る。名物|栗《くり》こわめしの看板を軒に掛けて、往来の客を待つ御休処《おやすみどころ》もある。山の中とは言いながら、広い空は恵那山《えなさん》のふもとの方にひらけて、美濃の平野を望むことのできるような位置にもある。なんとなく西の空気も通《かよ》って来るようなところだ。
本陣の当主|吉左衛門《きちざえもん》と、年寄役の金兵衛《きんべえ》とはこの村に生まれた。吉左衛門は青山の家をつぎ、金兵衛は、小竹の家をついだ。この人たちが宿役人として、駅路一切の世話に慣れたころは、二人《ふたり》ともすでに五十の坂を越していた。吉左衛門五十五歳、金兵衛の方は五十七歳にもなった。これは当時としてめずらしいことでもない。吉左衛門の父にあたる先代の半六などは六十六歳まで宿役人を勤めた。それから家督を譲って、ようやく隠居したくらいの人だ。吉左衛門にはすでに半蔵《はんぞう》という跡継ぎがある。しかし家督を譲って隠居しようなぞとは考えていない。福島の役所からでもその沙汰《さた》があって、いよいよ引退の時期が来るまでは、まだまだ勤められるだけ勤めようとしている。金兵衛とても、この人に負けてはいなかった。
二
山里へは春の来ることもおそい。毎年旧暦の三月に、恵那《えな》山脈の雪も溶けはじめるころになると、にわかに人の往来も多い。中津川《なかつがわ》の商人は奥筋《おくすじ》(三留野《みどの》、上松《あげまつ》、福島から奈良井《ならい》辺までをさす)への諸|勘定《かんじょう》を兼ねて、ぽつぽつ隣の国から登って来る。伊那《いな》の谷の方からは飯田《いいだ》の在のものが祭礼の衣裳《いしょう》なぞを借りにやって来る。太神楽《だいかぐら》もはいり込む。伊勢《いせ》へ、津島へ、金毘羅《こんぴら》へ、あるいは善光寺への参詣《さんけい》もそのころから始まって、それらの団体をつくって通る旅人の群れの動きがこの街道に活気をそそぎ入れる。
西の領地よりする参覲交代《さんきんこうたい》の大小の諸大名、日光への例幣使《れいへいし》、大坂の奉行《ぶぎょう》や御加番衆《おかばんしゅう》などはここを通行した。吉左衛門なり金兵衛なりは他の宿役人を誘い合わせ、羽織《はおり》に無刀、扇子《せんす》をさして、西の宿境《しゅくざかい》までそれらの一行をうやうやしく出迎える。そして東は陣場《じんば》か、峠の上まで見送る。宿から宿への継立《つぎた》てと言えば、人足《にんそく》や馬の世話から荷物の扱いまで、一通行あるごとに宿役人としての心づかいもかなり多い。多人数の宿泊、もしくはお小休《こやす》みの用意も忘れてはならなかった。水戸《みと》の御茶壺《おちゃつぼ》、公儀の御鷹方《おたかかた》をも、こんなふうにして迎える。しかしそれらは普通の場合である。村方の財政や山林田地のことなぞに干渉されないで済む通行である。福島勘定所の奉行を迎えるとか、木曾山一帯を支配する尾張藩《おわりはん》の材木方を迎えるとかいう日になると、ただの送り迎えや継立てだけではなかなか済まされなかった。
多感な光景が街道にひらけることもある。文政九年の十二月に、黒川村の百姓が牢舎《ろうや》御免ということで、美濃境まで追放を命ぜられたことがある。二十二人の人数が宿籠《しゅくかご》で、朝の五つ時《どき》に馬籠《まごめ》へ着いた。師走《しわす》ももう年の暮れに近い冬の日だ。その時も、吉左衛門は金兵衛と一緒に雪の中を奔走して、村の二軒の旅籠屋《はたごや》で昼じたくをさせるから国境《くにざかい》へ見送るまでの世話をした。もっとも、福島からは四人の足軽《あしがる》が付き添って来たが、二十二人ともに残らず腰繩《こしなわ》手錠であった。
五十余年の生涯《しょうがい》の中で、この吉左衛門らが記憶に残る大通行と言えば、尾張藩主の遺骸《いがい》がこの街道を通った時のことにとどめをさす。藩主は江戸で亡《な》くなって、その領地にあたる木曾谷を輿《こし》で運ばれて行った。福島の代官、山村氏から言えば、木曾谷中の行政上の支配権だけをこの名古屋の大領主から託されているわけだ。吉左衛門らは二人《ふたり》の主人をいただいていることになるので、名古屋城の藩主を尾州《びしゅう》の殿と呼び、その配下にある山村氏を福島の旦那《だんな》様と呼んで、「殿様」と「旦那様」で区別していた。
「あれは天保《てんぽう》十年のことでした。全く、あの時の御通行は前代未聞《ぜんだいみもん》でしたわい。」
この金兵衛の話が出るたびに、吉左衛門は日ごろから「本陣鼻」と言われるほど大きく肉厚《にくあつ》な鼻の先へしわをよせる。そして、「また金兵衛さんの前代未聞が出た」と言わないばかりに、年齢《とし》の割合にはつやつやとした色の白い相手の顔をながめる。しかし金兵衛の言うとおり、あの時の大通行は全く文字どおり前代未聞の事と言ってよかった。同勢およそ千六百七十人ほどの人数がこの宿にあふれた。問屋の九太夫《くだゆう》、年寄役の儀助《ぎすけ》、同役の新七、同じく与次衛門《よじえもん》、これらの宿役人仲間から組頭《くみがしら》のものはおろか、ほとんど村じゅう総がかりで事に当たった。木曾谷中から寄せた七百三十人の人足だけでは、まだそれでも手が足りなくて、千人あまりもの伊那の助郷《すけごう》が出たのもあの時だ。諸方から集めた馬の数は二百二十匹にも上った。吉左衛門の家は村でも一番大きい本陣のことだから言うまでもないが、金兵衛の住居《すまい》にすら二人の御用人《ごようにん》のほかに上下合わせて八十人の人数を泊め、馬も二匹引き受けた。
木曾は谷の中が狭くて、田畑もすくない。限りのある米でこの多人数の通行をどうすることもできない。伊那の谷からの通路にあたる権兵衛《ごんべえ》街道の方には、馬の振る鈴音に調子を合わせるような馬子唄《まごうた》が起こって、米をつけた馬匹《ばひつ》の群れがこの木曾街道に続くのも、そういう時だ。
三
山の中の深さを思わせるようなものが、この村の周囲には数知れずあった。林には鹿《しか》も住んでいた。あの用心深い獣は村の東南を流れる細い下坂川《おりさかがわ》について、よくそこへ水を飲みに降りて来た。
古い歴史のある御坂越《みさかごえ》をも、ここから恵那《えな》山脈の方に望むことができる。大宝《たいほう》の昔に初めて開かれた木曾路とは、実はその御坂を越えたものであるという。その御坂越から幾つかの谷を隔てた恵那山のすその方には、霧が原の高原もひらけていて、そこにはまた古代の牧場の跡が遠くかすかに光っている。
この山の中だ。時には荒くれた猪《いのしし》が人家の並ぶ街道にまで飛び出す。塩沢というところから出て来た猪は、宿《しゅく》はずれの陣場から薬師堂《やくしどう》の前を通り、それから村の舞台の方をあばれ回って、馬場へ突進したことがある。それ猪だと言って、皆々鉄砲などを持ち出して騒いだが、日暮れになってその行くえもわからなかった。この勢いのいい獣に比べると、向山《むこうやま》から鹿の飛び出した時は、石屋の坂の方へ行き、七回りの藪《やぶ》へはいった。おおぜいの村の人が集まって、とうとう一矢《ひとや》でその鹿を射とめた。ところが隣村の湯舟沢《ゆぶねざわ》の方から抗議が出て、しまいには口論にまでなったことがある。
「鹿よりも、けんかの方がよっぽどおもしろかった。」
と吉左衛門は金兵衛に言って見せて笑った。何かというと二人《ふたり》は村のことに引っぱり出されるが、そんなけんかは取り合わなかった。
檜木《ひのき》、椹《さわら》、明檜《あすひ》、高野槇《こうやまき》、※[#「木+鑞のつくり」、10−17]《ねずこ》――これを木曾では五木《ごぼく》という。そういう樹木の生長する森林の方はことに山も深い。この地方には巣山《すやま》、留山《とめやま》、明山《あきやま》の区別があって、巣山と留山とは絶対に村民の立ち入ることを許されない森林地帯であり、明山のみが自由林とされていた。その明山でも、五木ばかりは許可なしに伐採することを禁じられていた。これは森林保護の精神より出たことは明らかで、木曾山を管理する尾張藩がそれほどこの地方から生まれて来る良い材木を重く視《み》ていたのである。取り締まりはやかましい。
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