る》く簡素な※[#「くさかんむり/稾」、336−11]蒲団《わらぶとん》の上にすわることもできた。
 あたりは静かだ。社殿の外にある高い岩の間から落ちる清水《しみず》の音よりほかに耳に入るものもない。ちょうど半蔵がすわったところからよく見える壁の上には、二つの大きな天狗《てんぐ》の面が額にして掛けてある。その周囲には、嘉永《かえい》年代から、あるいはもっとずっと古くからの講社や信徒の名を連ねた種々《さまざま》な額が奉納してあって、中にはこの社殿を今見る形に改めた造営者であり木曾福島の名君としても知られた山村|蘇門《そもん》の寄進にかかる記念の額なぞの宗教的な気分を濃厚ならしめるのもあるが、ことにその二つの天狗の面が半蔵の注意をひいた。耳のあたりまで裂けて牙歯《きば》のある口は獣のものに近く、隆《たか》い鼻は鳥のものに近く、黄金の色に光った目は神のものに近い。高山の間に住む剛健な獣の野性と、翼を持つ鳥の自由と、深秘《しんぴ》を体得した神人の霊性とを兼ねそなえたようなのがその天狗だ。製作者はまたその面に男女両性を与え、山嶽《さんがく》的な風貌《ふうぼう》をも付け添えてある。たとえば、杉《すぎ》の葉の長くたれ下がったような粗《あら》い髪、延び放題に延びた草のような髯《ひげ》。あだかも暗い中世はそんなところにも残って、半蔵の目の前に光っているかのように見える。
 いつのまにか彼の心はその額の方へ行った。ここは全く金胎《こんたい》両部の霊場である。山嶽を道場とする「行《ぎょう》の世界」である。神と仏とのまじり合った深秘な異教の支配するところである。中世以来の人の心をとらえたものは、こんな両部を教えとして発達して来ている。父の病を祷《いの》りに来た彼は、現世に超越した異教の神よりも、もっと人格のある大己貴《おおなむち》、少彦名《すくなびこな》の二神の方へ自分を持って行きたかった。
 白膠木《ぬるで》の皮の燃える香気と共に、護摩《ごま》の儀式が、やがてこの霊場を荘厳にした。本殿の奥の厨子《ずし》の中には、大日如来《だいにちにょらい》の仏像でも安置してあると見えて、参籠者はかわるがわる行ってその前にひざまずいたり、珠数をつまぐる音をさせたりした。御簾《みす》のかげでは心経《しんぎょう》も読まれた。
「これが神の住居《すまい》か。」
 と半蔵は考えた。
 彼が目に触れ耳にきくものの多くは、父のために祷《いの》ることを妨げさせた。彼の心は和宮様御降嫁のころに福島の役所から問い合わせのあった神葬祭の一条の方へ行ったり、国学者仲間にやかましい敬神の問題の方へ行ったりした。もっとも、多くの門弟を引きつれて来て峻嶮《しゅんけん》を平らげ、山道を拓《ひら》き、各国に信徒を募ったり、講中を組織したりして、この山のために心血をささげた覚明、普寛、一心、一山なぞの行者らの気魄《きはく》と努力とには、彼とても頭が下がったが。


 終日|静座《せいざ》。
 いつのまにか半蔵の心は、しばらく離れるつもりで来た馬籠の宿場の方へも行った。高札場がある。二軒の問屋場がある。伏見屋の伊之助、問屋の九郎兵衛、その他の宿役人の顔も見える。街道の継立《つぎた》ても困難になって来た。現に彼が馬籠を離れて来る前に、仙台侯《せんだいこう》が京都の方面から下って来た通行の場合がそれだ。あの時の仙台の同勢は中津川泊まりで、中通しの人足二百八十人、馬百八十|疋《ぴき》という触れ込みだった。継立ての混雑、請け負いのものの心配なぞは言葉にも尽くせなかった。八つ時過ぎまで四、五十|駄《だ》の継立てもなく、人足や牛でようやくそれを付け送ったことがある。
 こんなことを思い浮かべると、街道における輸送の困難も、仙台侯の帰東も、なんとなく切迫して来た関東や京都の事情と関係のないものはない。時ならぬ鐘の音が馬籠の万福寺からあの街道へがんがん聞こえて来ている。この際、人心を善導し、天下の泰平を祷《いの》り、あわせて上洛《じょうらく》中の将軍のためにもその無事を祈れとの意味で、公儀から沙汰《さた》のあった大般若《だいはんにゃ》の荘厳《おごそか》な儀式があの万福寺で催されているのだ。手兼村《てがのむら》の松源寺、妻籠《つまご》の光徳寺、湯舟沢の天徳寺、三留野《みどの》の等覚寺、そのほか山口村や田立村の寺々まで、都合六か寺の住職が大般若に集まって来ているのだ。
 物々しいこの空気を思い出しているうちに、半蔵の胸には一つの悲劇が浮かんで来た。峠村の牛行司《うしぎょうじ》で利三郎と言えば、彼には忘れられない男の名だ。かつて牛方事件の張本人として、中津川の旧問屋|角屋《かどや》十兵衛を相手に血戦を開いたことのある男だ。それほど腰骨《こしぼね》の強い、黙って下の方に働いているような男が、街道に横行する雲助《くもすけ》仲間と衝突したのは、彼として決して偶然な出来事とも思われなかった。ちょうど利三郎は、尾州の用材を牛につけて、清水谷下《しみずだにした》というところにかかった時であったという。三人の雲助がそこへ現われて、竹の杖《つえ》で利三郎を打擲《ちょうちゃく》した。二、三か所も打たれた天窓《あたま》の大疵《おおきず》からは血が流れ出て、さすがの牛行司も半死半生の目にあわされた。村のものは急を聞いて現場へ駆けつけた。この事が宿方へも注進のあった時は、二人《ふたり》の宿役人が目証《めあかし》の弥平《やへえ》を連れて見届けに出かけたが、不幸な利三郎はもはや起《た》てない人であろうという。一事が万事だ。すべてこれらのことは、参覲交代《さんきんこうたい》制度の変革以来に起こって来た現象だ。
「憐《あわれ》むべき街道の犠牲。」
 と半蔵は考えつづけた。上は浪人から、下は雲助まで、世襲過重の時代が生んだ特殊な風俗と形態とが目につくだけでも、なんとなく彼は社会変革の思いを誘われた。庄屋《しょうや》としての彼は、いろいろな意味から、下層にあるものを護《まも》らねばならなかった……
 ふとわれに返ると、静かな読経《どきょう》の声が半蔵の耳にはいった。にわかに明るい日の光は、屋外《そと》にある杉《すぎ》の木立ちを通して、社殿に満ちて来た。彼は、単純な信仰に一切を忘れているような他の参籠者を目の前にながめながら、雑念の多い自己《おのれ》の身を恥じた。その夕方には、禰宜《ねぎ》が彼のそばへ来て、塩握飯《しおむすび》を一つ置いて行った。


 四日目には半蔵はどうやら心願を果たし、神前に終わりの祷《いの》りをささげる人であった。たとい自己《おのれ》の寿命を一年縮めてもそれを父の健康に代えたい、一年で足りなくば二年三年たりともいとわないというふうに。
 社殿を出るころは、雨が山へ来ていた。勝重は傘《かさ》を持って、禰宜《ねぎ》の家の方から半蔵を迎えに来た。乾燥した草木をうるおす雨は、参籠後の半蔵を活《い》き返るようにさせた。
「勝重さん、君はどうしました。」
 社殿の外にある高い岩壁の下で、半蔵がそれを言い出した。彼も三日続いた沈黙をその時に破る思いだ。
「お師匠さま、お疲れですか。わたしは一日だけお籠《こも》りして、あとはちょいちょいお師匠さまを見に来ました。きのうはこのお宮のまわりをひとりで歩き回りました。いろいろなめずらしい草を集めましたよ――じじばば(春蘭《しゅんらん》)だの、しょうじょうばかまだの、姫龍胆《ひめりんどう》だの。」
「やっぱり君と一緒に来てよかった。ひとりでいる時でも、君が来ていると思うと、安心してすわっていられた。」
 二人が帰って行く道は、その路傍《みちばた》に石燈籠《いしどうろう》や石造の高麗犬《こまいぬ》なぞの見いださるるところだ。三|面《めん》六|臂《ぴ》を有し猪《いのしし》の上に踊る三宝荒神のように、まぎれもなく異国伝来の系統を示す神の祠《ほこら》もある。十二|権現《ごんげん》とか、神山霊神とか、あるいは金剛道神とかの石碑は、不動尊の銅像や三十三度供養塔なぞにまじって、両部の信仰のいかなるものであるかを語っている。あるものは飛騨《ひだ》、あるものは武州、あるものは上州、越後《えちご》の講中の名がそれらの石碑や祠《ほこら》に記《しる》しつけてある。ここは名のみの木曾の総社であって、その実、御嶽大権現である。これが二柱の神の住居《すまい》かと考えながら歩いて行く半蔵は、行く先でまごついた。
 禰宜《ねぎ》の家の近くまで山道を降りたところで、半蔵は山家風なかるさん姿の男にあった。傘《からかさ》をさして、そこまで迎えに来た禰宜の子息《むすこ》だ。その辺には蓑笠《みのかさ》で雨をいとわず往来《ゆきき》する村の人たちもある。重い物を背負《しょ》い慣れて、山坂の多いところに平気で働くのは、木曾山中いたるところに見る図だ。
「オヤ、お帰りでございますか。さぞお疲れでございましょう。」
 禰宜の細君は半蔵を見て声をかけた。山登りの多くの人を扱い慣れていて、いろいろ彼をいたわってくれるのもこの細君だ。
「御参籠のあとでは、皆さまが食べ物に気をつけますよ。こんな山家で何もございませんけれど、芹粥《せりがゆ》を造って置きました。落とし味噌《みそ》にして焚《た》いて見ました。これが一番さっぱりしてよいかと思いますが、召し上がって見てください。」
 こんなことを言って、芹《せり》の香のする粥《かゆ》なぞを勧めてくれるのもこの細君だ。
 温暖《あたたか》い雨はしとしと降り続いていた。その一日はせめて王滝に逗留《とうりゅう》せよ、風呂《ふろ》にでもはいってからだを休めて行けという禰宜の言葉も、半蔵にはうれしかった。
「へい。床屋でございます。御用はこちらでございますか。」
 宿の人に呼んでもらった村の髪結いが油じみた台箱をさげながら半蔵の部屋《へや》にはいって来た。ぐっすり半日ほど眠ったあとで、半蔵は参籠に乱れた髪を結い直してもらった。元結《もとゆい》に締められた頭には力が出た。気もはっきりして来た。そばにいる勝重を相手に、いろいろ将来の身の上の話なぞまで出るのも、こうした静かな禰宜の家なればこそだ。
「勝重さん、君もそう長くわたしのそばにはいられまいね。来年あたりは落合《おちあい》の方へ帰らにゃなるまいね。きっと家の方では、君の縁談が待っていましょう。」
「わたしはもっと勉強したいと思います。そんな話がありましたけれど、まだ早いからと言って断わりました。」
 勝重はそれを言うにも顔を紅《あか》らめる年ごろだ。そこへ禰宜が半蔵を見に来た。禰宜は半蔵のことを「青山さん」と呼ぶほどの親しみを見せるようになった。里宮参籠記念のお札、それに神饌《しんせん》の白米なぞを用意して来て、それを部屋の床の間に置いた。
「これは馬籠へお持ち帰りを願います。」と禰宜は言った。「それから一つお願いがあります。あの御神前へおあげになった歌は、結構に拝見しました。こんな辺鄙《へんぴ》なところで、ろくな短冊《たんざく》もありませんが、何かわたしの家へも記念に残して置いていただきたい。」
 禰宜はその時、手をたたいて家のものを呼んだ。自分の子息《むすこ》をその部屋に連れて来させた。
「青山さん、これは八つになります。おそ生まれの八つですが、手習いなぞの好きな子です。ごらんのとおりな山の中で、よいお師匠さまも見当たらないでいます。どうかこれを御縁故に、ちょくちょく王滝へもお出かけを願いたい。この子にも、本でも教えてやっていただきたい。」
 禰宜はこの調子だ。さらに言葉をついで、
「福島からここまでは五里と申しておりますが、正味四里半しかありません。青山さんは福島へはよく御出張でしょう。あの行人橋《ぎょうにんばし》から御嶽山道について常磐《ときわ》の渡しまでお歩きになれば、今度お越しになったと同じ道に落ち合います。この次ぎはぜひ、福島の方からお回りください。」
「えゝ。王滝は気に入りました。こんな仙郷《せんきょう》が木曾にあるかと思うようです。またおりを見てお邪魔にあがりますよ。わたしもこれでいそがしいからだですし、御承知の世の中ですから、この次ぎやって来られるの
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