はいつのことですか。まあ、王滝川の音をよく聞いて行くんですね。」
半蔵はそばにいる勝重に墨を磨《す》らせた。禰宜から求めらるるままに、自作の歌の一つを短冊に書きつけた。
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梅の花|匂《にお》はざりせば降る雨にぬるる旅路《たびじ》は行きがてましを[#地から6字上げ]半蔵
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そろそろ半蔵には馬籠の家の方のことが気にかかって来た。一月《ひとつき》からして陽気の遅れた王滝とも違い、彼が御嶽の話を持って父吉左衛門をよろこばしうる日は、あの木曾路の西の端はもはや若葉の世界であろうかと思いやった。将軍|上洛《じょうらく》中の京都へと飛び込んで行った友人香蔵からの便《たよ》りは、どんな報告をもたらして、そこに自分を待つだろうかとも思いやった。万事不安のうちに、むなしく春の行くことも惜しまれた。
「そうだ、われわれはどこまでも下から行こう。庄屋には庄屋の道があろう。」
と彼は思い直した。水垢離《みずごり》と、極度の節食と、時には滝にまで打たれに行った山籠《やまごも》りの新しい経験をもって、もう一度彼は馬籠の駅長としての勤めに当たろうとした。
御嶽のすそを下ろうとして、半蔵が周囲を見回した時は、黒船のもたらす影響はこの辺鄙《へんぴ》な木曾谷の中にまで深刻に入り込んで来ていた。ヨーロッパの新しい刺激を受けるたびに、今まで眠っていたものは目をさまし、一切がその価値を転倒し始めていた。急激に時世遅れになって行く古い武器がある。眼前に潰《つい》えて行く旧《ふる》くからの制度がある。下民百姓は言うに及ばず、上御一人《かみごいちにん》ですら、この驚くべき分解の作用をよそに、平静に暮らさるるとは思われないようになって来た。中世以来の異国の殻《から》もまだ脱ぎ切らないうちに、今また新しい黒船と戦わねばならない。半蔵は『静の岩屋』の中にのこった先師の言葉を繰り返して、測りがたい神の心を畏《おそ》れた。
底本:「夜明け前 第一部(上)」岩波文庫、岩波書店
1969(昭和44)年1月16日第1刷発行
底本の親本:「改版本『夜明け前』」新潮社
1936(昭和11)年7月発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※「ポルトガル」は、第二部ではすべて「ホルトガル」と表記されているので、「ポルトガル[#「ポルトガル」はママ]」としました。
入力:菅野朋子、小林繁雄
校正:高橋真也
2001年5月24日公開
2009年11月20日修正
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