窮の恩に報いることを念とし、楠公《なんこう》父子ですら果たそうとして果たし得なかった武将の夢を実現しようとしているものが、今の攘夷を旗じるしにする討幕運動である。もとより攘夷は非常手段である。そんな非常手段に訴えても、真木和泉《まきいずみ》らの志士が起こした一派の運動は行くところまで行かずに置かないような勢いを示して来た。
この国ははたしてどうなるだろう。明日は。明後日は。そこまで考え続けて行くと、半蔵は本居大人がのこした教えを一層尊いものに思った。同時代に満足しなかったところから、過去に探求の目を向けた先人はもとより多い。その中でも、最も遠い古代に着眼した宣長のような国学者が、最も新しい道を発見して、その方向をあとから歩いて出て行くものにさし示してくれたことをありがたく思った。
「勝重さん、風引くといけないよ。床にはいって、ほんとうにお休み。」
半蔵は行燈《あんどん》のかげにうたた寝している少年を起こして、床につかせ、それからさらに『静の岩屋』を繰って見た。この先師ののこした著述は、だれにでもわかるように、また、ひろく読まれるように、その用意からごく平易な言葉で門人に話しかけた講本の一つである。その中に、半蔵は異国について語る平田大人を見た。先師は天保十四年に没した故人のことで、もとより嘉永六年の夏に相州浦賀に着いたアメリカ船の騒ぎを知らず、まして十一隻からのイギリス艦隊が横浜に入港するまでの社会の動揺を知りようもない。しかし平田大人のような人の目に映るヨーロッパから、その見方、その考え方を教えられることは半蔵にとって実にうれしくめずらしかった。
『静の岩屋』にいわく、
「さて又、近ごろ西の極《はて》なるオランダといふ国よりして、一種の学風おこりて、今の世に蘭学と称するもの、則《すなわ》ちそれでござる。元来その国柄と見えて、物の理《ことわり》を考へ究《きわ》むること甚《はなは》だ賢く、仍《よっ》ては発明の説も少なからず。天文地理の学は言ふに及ばず、器械の巧みなること人の目を驚かし、医薬|製煉《せいれん》の道|殊《こと》にくはしく、その書《ふみ》どももつぎつぎと渡り来《きた》りて世に弘《ひろ》まりそめたるは、即《すなわ》ち神の御心であらうでござる。然《しか》るに、その渡り来る薬品どもの中には効能の勝《すぐ》れたるもあり、又は製煉を尽して至つて猛烈なる類《たぐい》もありて、良医これを用ひて病症に応ずればいちじるき効験《しるし》をあらはすもあれど、もとその薬性を知らず、又はその薬性を知りてもその用ふべきところを知らず、もしその病症に応ぜざれば大害を生じて、忽《たちま》ち人命をうしなふに至る。これは、譬《たと》へば、猿《さる》に利刀を持たせ、馬鹿《ばか》に鉄砲を放たしむるやうなもので、まことに危いことの甚《はなはだ》しいでござる。さて、その究理のくはしきは、悪《あ》しきことにはあらざれども、彼《か》の紅夷《あかえみし》ら、世には真《まこと》の神あるを知らず。人の智《ち》は限りあるを、限りなき万《よろ》づの物の理《ことわり》を考へ究《きわ》めんとするにつけては、強《し》ひたる説多く、元よりさかしらなる国風《くにぶり》なる故《ゆえ》に、現在の小理にかかはつて、かへつて幽神の大義を悟らず。それゆへにその説至つて究屈にして、我が古道の妨げとなることも多いでござる。さりながら、世間《せけん》の有様を考ふるに、今は物ごと新奇を好む風俗なれば、この学風も儒仏の道の栄えたるごとく、だんだんと弘《ひろ》まり行くことであらうと思はれる。しからんには、世のため、人のためとも成るべきことも多からうなれども、又、害となることも少なかるまいと思はれるでござる。是《これ》こそは彼《か》の吉事《よきこと》に是《こ》の凶事《まがごと》のいつぐべき世の中の道なるをもつて、さやうには推し量り知られることでござる。そもそもかく外国々《とつくにぐに》より万づの事物の我が大御国《おおみくに》に参り来ることは、皇神《すめらみかみ》たちの大御心にて、その御神徳の広大なる故《ゆえ》に、善《よ》き悪《あ》しきの選みなく、森羅万象《しんらばんしょう》ことごとく皇国《すめらみくに》に御引寄せあそばさるる趣きを能《よ》く考へ弁《わきま》へて、外国《とつくに》より来る事物はよく選み採りて用ふべきことで、申すも畏《かしこ》きことなれども、是《これ》すなはち大神等《おおみかみたち》の御心掟《みこころおきて》と思ひ奉られるでござる。」
半蔵は深いため息をついた。それは、自分の浅学と固陋《ころう》とばか正直とを嘆息する声だ。先師と言えば、外国よりはいって来るものを異端邪説として蛇蝎《だかつ》のように憎みきらった人のように普通に思われているが、『静の岩屋』なぞをあけて見ると、近くは朝鮮、シナ、インド、遠くはオランダまで、外国の事物が日本に集まって来るのは、すなわち神の心であるというような、こんな広い見方がしてある。先師は異国の借り物をかなぐり捨てて本然《ほんねん》の日本に帰れと教える人ではあっても、むやみにそれを排斥せよとは教えてない。
この『静の岩屋』の中には、「夷《えびす》」という古言まで引き合いに出して、その言葉の意味が平常目に慣れ耳に触れるとは異なった事物をさしていうに過ぎないことも教えてある。たとえば、ありゃこりゃに人の前にすえた膳《ぜん》は「えびす膳」、四角であるべきところを四角でなく裁ち合わせた紙は「えびす紙」、元来外用の薬種とされた芍薬《しゃくやく》が内服しても病のなおるというところから「えびす薬」(芍薬の和名)というふうに。黒くてあるべき髪の毛が紅《あか》く、黒くてあるべき瞳《ひとみ》が青ければこそ、その人は「えびす」である、とも教えてある。
半蔵はひとり言って見た。
「師匠はやっぱり大きい。」
半蔵の心に描く平田篤胤とは、あの本居宣長を想《おも》い見るたびに想像せらるるような美丈夫という側の人ではなかった。彼はある人の所蔵にかかる先師の画像というものを見たことがある。広い角額《かくびたい》、大きな耳、遠いところを見ているような目、彼がその画像から受けた感じは割合に面長《おもなが》で、やせぎすな、どこか角張《かくば》ったところのある容貌《ようぼう》の人だ。四十台か、せいぜい五十に手の届く年ごろの面影《おもかげ》と見えて、まだ黒々とした髪も男のさかりらしく、それを天保《てんぽう》時代の風俗のような髻《たぶさ》に束ねてあった。それは見台をわきにした座像《ざぞう》で、三蓋菱《さんがいびし》の羽織《はおり》の紋や、簡素な線があらわした着物の襞※[#「ころもへん+責」、第3水準1−91−87]《ひだ》にも特色があったが、ことに、その左の手を寛《くつろ》いだ形に置き、右の手で白扇をついた膝《ひざ》こそは先師のものだ、と思って、心をとめて見た覚えがある。見台の上に、先師|畢生《ひっせい》の大きな著述とも言うべき『古史伝』稿本の一つが描いてあったことも、半蔵には忘れられなかった。あだかも、先師はあの画像から膝《ひざ》を乗り出して、彼の前にいて、「一切は神の心であろうでござる」とでも言っているように彼には思われて来た。
四
いよいよ参籠《さんろう》の朝も近いと思うと、半蔵はよく眠られなかった。夜の明け方には、勝重のそばで目をさました。山の端《は》に月のあるのを幸いに、水垢離《みずごり》を執って来て、からだを浄《きよ》め終わると、温《あたた》かくすがすがしい。着物も白、袴《はかま》も白の行衣《ぎょうい》に着かえただけでも、なんとなく彼は厳粛な心を起こした。
まだあたりは薄暗い。早く山を発《た》つ二、三の人もある。遠い国からでも祈願をこめに来た参詣者《さんけいしゃ》かと見えて、月を踏んで帰途につこうとしている人たちらしい。旅の笠《かさ》、金剛杖《こんごうづえ》、白い着物に白い風呂敷包みが、その薄暗い空気の中で半蔵の目の前に動いた。
「どうも、お粗末さまでございました。」
と言って見送る宿の人の声もする。
その明け方、半蔵は朝勤めする禰宜《ねぎ》について、里宮のあるところまで数町ほどの山道を歩いた。社殿にはすでに数日もこもり暮らしたような二、三の参籠者が夜の明けるのを待っていて、禰宜の打つ大太鼓が付近の山林に響き渡るのをきいていた。その時、半蔵は払暁《ふつぎょう》の参拝だけを済まして置いて、参籠のしたくやら勝重を見ることやらにいったん宿の方へ引き返した。
「お師匠さま。」
そう言って声をかける勝重は、着物も白に改めて、半蔵が山から降りて来るのを待っていた。
「勝重さん、君に相談がある。馬籠《まごめ》を出る時にわたしは清助さんに止められた。君のような若い人を一緒に参籠に連れて行かれますかッて。それでも君は来たいと言うんだから。見たまえ、ここの禰宜《ねぎ》さまだって、すこし無理でしょうッて、そう言っていますぜ。」
「どうしてですか。」
「どうしてッて、君、お宮の方へ行けば祈祷《きとう》だけしかないよ。そのほかは一切沈黙だよ。寒さ饑《ひも》じさに耐える行者の行くところだよ。それでも、君、わたしにはここへ来て果たしたいと思うことがある。君とわたしとは違うサ。」
「そんなら、お師匠さま、あなたはお父《とっ》さんのためにお祷《いの》りなさるがいいし、わたしはお師匠さまのために祷りましょう。」
「弱った。そういうことなら、君の自由に任せる。まあ、眠りたいと思う時はこの禰宜《ねぎ》さまの家へ帰って寝てくれたまえ。ここにはお山の法則があって、なかなか里の方で思ったようなものじゃない。いいかい、君、無理をしないでくれたまえよ。」
勝重はうなずいた。
神前へのお初穂《はつほ》、供米《くまい》、その他、着がえの清潔な行衣《ぎょうい》なぞを持って、半蔵は勝重と一緒に里宮の方へ歩いた。
梅の咲く禰宜《ねぎ》の家から社殿までの間は坂になった細道で、王滝口よりする御嶽参道に続いている。その細道を踏んで行くだけでも、ひとりでに参詣者の心の澄むようなところだ。山中の朝は、空に浮かぶ雲の色までだんだん白く光って来て、すがすがしい。坂道を登るにつれて、霞《かす》み渡った大きな谷間が二人《ふたり》の目の下にあるようになった。
「お師匠さま、雉子《きじ》が鳴いていますよ。」
「あの覚明《かくみょう》行者や普寛《ふかん》行者なぞが登ったころには、どんなだったろうね。わたしはあの行者たちが最初の登山をした人たちかとばかり思っていた。ここの禰宜さまの話で見ると、そうじゃないんだね。講中《こうじゅう》というものを組織して、この山へ導いて来たのがあの人たちなんだね。」
二人は話し話し登った。新しい石の大鳥居で、その前年(文久二年)に尾州公《びしゅうこう》から寄進になったというものの前まで行くと、半蔵らは向こうの山道から降りて来る一人の修行者にもあった。珠数《じゅず》を首にかけ、手に杖《つえ》をつき見るからに荒々しい姿だ。肉体を苦しめられるだけ苦しめているような人の相貌《そうぼう》だ。どこの岩窟《がんくつ》の間から出て来たか、雪のある山腹の方からでも降りて来たかというふうで、山にはこんな人が生きているのかということが、半蔵を驚かした。
間もなく半蔵らは、十六階もしくは二十階ずつから成る二町ほどの長い石段にかかった。見上げるように高い岩壁を背後《うしろ》にして、里宮の社殿がその上に建てられてある。黒々とした残雪の見られる谷間の傾斜と、小暗《おぐら》い杉《すぎ》や檜《ひのき》の木立《こだ》ちとにとりまかれたその一区域こそ、半蔵が父の病を祷《いの》るためにやって来たところだ。先師の遺著の題目そのままともいうべきところだ。文字どおりの「静《しず》の岩屋《いわや》」だ。
とうとう、半蔵は本殿の奥の霊廟《れいびょう》の前にひざまずき、かねて用意して来た自作の陳情|祈祷《きとう》の歌をささげることができた。他の無言な参籠者《さんろうしゃ》の間に身を置いて、社殿の片すみに、そこに置いてある円《ま
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