、今ひと奮発です。ひょっとすると伊勢《いせ》の国の方へ出かけることになるかもしれません。」
 無尽加入のことを頼んで置いて、やがて寛斎は馬籠の本陣を辞して行った。あとには半蔵が上がり端《はな》のところに立って、客を見送りに出たお民や彼女が抱いて来た三番目の男の子の顔をながめたまま、しばらくそこに立ち尽くした。「気の毒な先生だ。数奇《すうき》な生涯《しょうがい》だ。」と半蔵は妻に言った。「国学というものに初めておれの目をあけてくれたのも、あの先生だ。あの年になって、奥さんに死に別れたことを考えてごらんな。」
「中津川の香蔵さんの姉さんが、お亡《な》くなりになった奥さんなんですか。よほど年の違う姉弟《きょうだい》と見えますね。」
「先生には娘さんがたった一人《ひとり》ある。この人がまた怜悧《りこう》な人で、中津川でも才女と言われた評判な娘さんさ。そこへ養子に来たのが、今医者をしている宮川さんだ。」
「わたしはちっとも知らなかった。」
「でも、お民、世の中は妙なものじゃないか。あの宮川先生がおれたちを捨てて行ってしまうとは思われなかったよ。いずれは旧《ふる》い弟子《でし》のところへもう一度帰って来てくださる日のあるだろうと思っていたよ。その日が来た。」

       三

 京都の方のことも心にかかりながら、半蔵は勝重《かつしげ》を連れて、王滝《おうたき》をさして出かけた。その日は須原《すはら》泊まりということにして、ちょうどその通り路《みち》にあたる隣宿|妻籠《つまご》本陣の寿平次が家へちょっと顔を出した。お民の兄であるからと言うばかりでなく、同じ街道筋の庄屋仲間として互いに心配を分けあうのも寿平次だ。
「半蔵さん、わたしも一緒にそこまで行こう。」
 と言いながら、寿平次は草履《ぞうり》をつッかけたまま半蔵らの歩いて行くあとを追って来た。
 旧暦四月はじめの旅するによい季節を迎えて、上り下りの諸|講中《こうじゅう》が通行も多い。伊勢《いせ》へ、金毘羅《こんぴら》へ、または善光寺へとこころざす参詣者《さんけいしゃ》の団体だ。奥筋へと入り込んで来る中津川の商人も見える。荷物をつけて行く馬の新しい腹掛け、赤革《あかがわ》の馬具から、首振るたびに動く麻の蠅《はえ》はらいまでが、なんとなくこの街道に活気を添える時だ。
 寿平次は半蔵らと一緒に歩きながら言った。
「御嶽《おんたけ》行きとは、それでも御苦労さまだ。山はまだ雪で、登れますまいに。」
「えゝ、三合目までもむずかしい。王滝まで行って、あそこの里で二、三日|参籠《さんろう》して来ますよ。」
「馬籠のお父《とっ》さんはまだそんなですかい。君も心配ですね。そう言えば、半蔵さん、江戸の方の様子は君もお聞きでしたろう。」
「こんなことになるんじゃないかと思って、わたしは心配していました。」
「それさ。イギリスの軍艦が来て江戸は大騒ぎだそうですね。来月の八日とかが返答の期限だと言うじゃありませんか。これは結局、償金を払わせられることになりましょうね。むやみと攘夷《じょうい》なんてことを煽《あお》り立てるものがあるから、こんな目にあう。そりゃ攘夷党だって、国を憂えるところから動いているには相違ないでしょうが、しかしわたしにはあのお仲間の気が知れない。いったい、外交の問題と国内の政事をこんなに混同してしまってもいいものでしょうかね。」
「さあねえ。」
「半蔵さん、これでわたしが庄屋の家に生まれなかったら、今ごろは京都の方へでも飛んで行って、鎖港攘夷だなんて押し歩いているかもしれませんよ。街道がどうなろうと、みんながどう難儀をしようと、そんなことにおかまいなしでいられるくらいなら、もともと何も心配することはなかったんです。」


 妻籠の宿はずれのところまでついて来た寿平次とも別れて、さらに半蔵らは奥筋へと街道を進んだ。翌日は早く須原をたち、道を急いで、昼ごろには桟《かけはし》まで行った。雪解《ゆきげ》の水をあつめた木曾川は、渦《うず》を巻いて、無数の岩石の間に流れて来ている。休むにいい茶屋もある。鶯《うぐいす》も鳴く。王滝口への山道はその対岸にあった。御嶽登山をこころざすものはその道を取っても、越立《こしだち》、下条《しもじょう》、黒田なぞの山村を経て、常磐《ときわ》の渡しの付近に達することができた。
 間もなく半蔵らは街道を離れて、山間《やまあい》に深い林をつくる谷に分け入った。檜《ひのき》、欅《けやき》にまじる雑木も芽吹きの時で、さわやかな緑が行く先によみがえっていた。王滝川はこの谷間を流れる木曾川の支流である。登り一里という沢渡峠《さわどとうげ》まで行くと、遙拝所《ようはいじょ》がその上にあって、麻利支天《まりしてん》から奥の院までの御嶽全山が遠く高く容《かたち》をあらわしていた。
「勝重さん、御嶽だよ。山はまだ雪だね。」
 と半蔵は連れの少年に言って見せた。層々相重なる幾つかの三角形から成り立つような山々は、それぞれの角度をもって、剣ヶ峰を絶頂とする一大|巌頭《がんとう》にまで盛り上がっている。隠れたところにあるその孤立。その静寂。人はそこに、常なく定めなき流転《るてん》の力に対抗する偉大な山嶽《さんがく》の相貌《そうぼう》を仰ぎ見ることができる。覚明行者《かくみょうぎょうじゃ》のような早い登山者が自ら骨を埋《うず》めたと言い伝えらるるのもその頂上にある谿谷《けいこく》のほとりだ。
「お師匠さま、早く行きましょう。」
 と言い出すのは勝重ばかりでなかった。そう言われる半蔵も、自然のおごそかさに打たれて、長くはそこに立っていられなかった。早く王滝の方へ急ぎたかった。


 御嶽山のふもとにあたる傾斜の地勢に倚《よ》り、王滝川に臨み、里宮の神職と行者の宿とを兼ねたような禰宜《ねぎ》の古い家が、この半蔵らを待っていた。川には橋もない。山から伐《き》って来た材木を並べ、筏《いかだ》に組んで、村の人たちや登山者の通行に備えてある。半蔵は三沢《みさわ》というところでその渡しを渡って、日の暮れるころに禰宜《ねぎ》の宮下の家に着いた。
「皆さんは馬籠の方から。それはよくお出かけくださいました。馬籠の御本陣ということはわたしもよく聞いております。」
 と言って半蔵を迎えるのは宮下の主人だ。この禰宜《ねぎ》は言葉をついで、
「いかがです。お宅の方じゃもう花もおそいでしょうか。」
「さあ、山桜が三分ぐらいは残っていましたよ。」と半蔵が答える。
「それですもの。同じ木曾でも陽気は違いますね。南の方の花の便《たよ》りを聞きましてから、この王滝辺のものが花を見るまでには、一月《ひとつき》もかかりますよ。」
「ね、お師匠さま。わたしたちの来る途中には、紫色の山つつじがたくさん咲いていましたっけね。」
 と勝重も言葉を添えて、若々しい目つきをしながら周囲を見回した。
 半蔵らは夕日の満ちた深い谷を望むことのできるような部屋《へや》に来ていた。障子の外へは川鶺鴒《かわせきれい》も来る。部屋の床の間には御嶽山|蔵王大権現《ざおうだいごんげん》と筆太に書いた軸が掛けてあり、壁の上には注連繩《しめなわ》なぞも飾ってある。
「勝重さん、来てごらん、これが両部神道というものだよ。」
 と半蔵は言って、二人してその掛け物の前に立った。全く神仏を混淆《こんこう》してしまったような床の間の飾り付けが、まず半蔵をまごつかせた。
 しかし、気の置けない宿だ。ここにはくたぶれて来た旅人や参詣者《さんけいしゃ》なぞを親切にもてなす家族が住む。当主の禰宜《ねぎ》で十七、八代にもなるような古い家族の住むところでもある。髯《ひげ》の白いお爺《じい》さん、そのまたお婆《ばあ》さん、幾人《いくたり》の古い人たちがこの屋根の下に生きながらえているとも知れない。主人の宮下はちょいちょい半蔵を見に来て、風呂《ふろ》も山家での馳走《ちそう》の一つと言って勧めてくれる。七月下旬の山開きの日を待たなければ講中も入り込んで来ない、今は谷もさびしい、それでも正月十五日より二月十五日に至る大寒の季節をしのいでの寒詣《かんもう》でに続いて、ぽつぽつ祈願をこめに来る参詣者が絶えない、と言って見せるのも主人だ。行者や中座《なかざ》に引率されて来る諸国の講中が、吹き立てる法螺《ほら》の貝の音と共に、この谷間に活気をそそぎ入れる夏季の光景は見せたいようだ、と言って見せるのもまた主人だ。
 夕飯後に、主人はまた半蔵を見に来て言った。
「それじゃ、御参籠《ごさんろう》はあすからとなさいますか。ここに来ている間、塩断《しおだ》ちをなさるかたがあり、五穀をお断ちになるかたがあり、精進潔斎《しょうじんけっさい》もいろいろです。火の気を一切おつかいにならないで、水でといた蕎麦粉《そばこ》に、果実《くだもの》ぐらいで済ませ、木食《もくじき》の行《ぎょう》をなさるかたもあります。まあ、三度の食は一度ぐらいになすって、なるべく六根《ろっこん》を清浄にして、雑念を防ぎさえすれば、それでいいわけですね。」


 ようやく。そうだ、ようやく半蔵は騒ぎやすい心をおちつけるにいいような山里の中の山里とも言うべきところに身を置くことができた。王滝はことに夜の感じが深い。暗い谷底の方に燈火《あかり》のもれる民家、川の流れを中心にわき立つ夜の靄《もや》、すべてがひっそりとしていた。旧暦四月のおぼろ月のあるころに、この静かな森林地帯へやって来たことも、半蔵をよろこばせた。
 半蔵が連れて来た勝重は、美濃落合の稲葉屋から内弟子《うちでし》として預かってからもはや三年になる。短い袴《はかま》に、前髪をとって、せっせと本を読んでいた勝重も、いつのまにか浅黄色の襦袢《じゅばん》の襟《えり》のよく似合うような若衆姿になって来た。彼は綿密な性質で、服装《なりふり》なぞにあまりかまわない方の勉強家であるが、持って生まれた美しさは宿の人の目をひいた。かわるがわるこの少年をのぞきに来る若い娘たちのけはいはしても、そればかりは半蔵もどうすることもできなかった。
「勝重さん、君は、くたぶれたら横にでもなるさ。」
「お師匠さま、勝手にやりますよ。どうもお師匠さまの足の速いには、わたしも驚きましたよ。須原《すはら》から王滝まで、きょうの山道はかなり歩きでがありました。」
 間もなく勝重は高いびきだ。半蔵はひとり行燈《あんどん》の灯《ひ》を見つめて、長いこと机の前にすわっていた。大判の薄藍色《うすあいいろ》の表紙から、古代紫の糸で綴《と》じてある装幀《そうてい》まで、彼が好ましく思う意匠の本がその机の上にひろげてある。それは門人らの筆記になる平田篤胤の講本だ。王滝の宿であけて見たいと思って、馬籠を出る時に風呂敷包《ふろしきづつ》みの中に入れて来た上下二冊の『静の岩屋』だ。
 さびしく聞こえて来る夜の河《かわ》の音は、この半蔵の心を日ごろ精神の支柱と頼む先師平田|大人《うし》の方へと誘った。もしあの先師が、この潮流の急な文久三年度に生きるとしたら、どう時代の暗礁《あんしょう》を乗り切って行かれるだろうかと思いやった。
 攘夷――戦争をもあえて辞しないようなあの殺気を帯びた声はどうだ。半蔵はこのひっそりとした深山幽谷の間へ来て、敬慕する故人の前にひとりの自分を持って行った時に、馬籠の街道であくせくと奔走する時にもまして、一層はっきりとその声を耳の底に聞いた。景蔵、香蔵の親しい友人を二人までも京都の方に見送った彼は、じっとしてはいられなかった。熱する頭をしずめ、逸《はや》る心を抑《おさ》えて、平田門人としての立場に思いを潜めねばならなかった。その時になると、同じ勤王に志すとは言っても、その中には二つの大きな潮流のあることが彼に見えて来た。水戸の志士藤田東湖らから流れて来たものと、本居平田諸大人に源を発するものと。この二つは元来同じものではない。名高い弘道館の碑文にもあるように、神州の道を敬い同時に儒者の教えをも崇《あが》めるのが水戸の傾向であって、国学者から見れば多分に漢意《からごころ》のまじったものである。その傾向を押し進め、国家無
前へ 次へ
全48ページ中45ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング