する有志はいずれもこれを写し伝えることができた。とりあえず幕府方は海岸の防備を厳重にすべきことを諸藩に通達し、イギリス側に向かっては返答の延期を求めた。打てば響くような京都の空気の中で、人々はいずれも伝奏《てんそう》からの触れ書を読み、所司代がお届けの結果を待った。あるものはイギリスの三か条がすでに拒絶せられたといい、あるものは仏国公使が調停に起《た》ったといい、あるものは必ず先方より兵端を開くであろうと言った。諸説は紛々《ふんぷん》として、前途のほども測りがたかった。
 四人の外人の死傷に端緒を発する生麦事件は、これほどの外交の危機に推し移った。多年の排外熱はついにこの結果を招いた。けれどもこのことは攘夷派の顧みるところとはならなかった。討幕へと急ぐ多くの志士は、むしろこの機会を見のがすまいとしたのである。当時、京都にあった松平春嶽《まつだいらしゅんがく》は、公武合体の成功もおぼつかないと断念してか、事多く志と違《たが》うというふうで、政事総裁の職を辞して帰国したといい、急を聞いて上京した島津久光もかなり苦しい立場にあって、これも国もとの海岸防禦を名目に、わずか数日の滞在で帰ってしまったという。近衛忠熙《このえただひろ》は潜み、中川宮(青蓮院《しょうれんいん》)も隠れた。

       二

 香蔵は美濃《みの》中津川の問屋《といや》に、半蔵は木曾《きそ》馬籠《まごめ》の本陣に、二人《ふたり》は同じ木曾街道筋にいて、京都の様子を案じ暮らした。二人の友人で、平田|篤胤《あつたね》没後の門人仲間なる景蔵は、当時京都の方にあって国事のために奔走していたが、その景蔵からは二人あてにした報告がよく届いた。いろいろなことがその中に報じてある。帝《みかど》には御祈願のため、すでに加茂《かも》へ行幸せられ、そのおりは家茂および一橋慶喜以下の諸有司、それに在京の諸藩士が鳳輦《ほうれん》に供奉《ぐぶ》したことが報じてあり、さらに石清水《いわしみず》へも行幸の思《おぼ》し召しがあって、攘夷の首途《かどで》として男山八幡《おとこやまはちまん》の神前で将軍に節刀を賜わるであろうとのおうわさも報じてある。これらのことは、いずれも攘夷派の志士が建白にもとづくという。のみならず、場合によっては帝の御親征をすら望んでいる人たちのあることが報じてある。この京都|便《だよ》りを手にするたびに、香蔵にしても、半蔵にしても、いずれも容易ならぬ時に直面したことを感じた。
 四月のはじめには、とうとう香蔵も景蔵のあとを追って、京都の方へ出かけて行った。三人の友だちの中で、半蔵一人だけが馬籠の本陣に残った。
「どうも心が騒いでしかたがない。」
 半蔵はひとり言って見た。
 その時になると、彼は中津川の問屋の仕事を家のものに任せて置いて京都の方へ出かけて行くことのできる香蔵の境涯《きょうがい》をうらやましく思った。友だちが京都を見うるの日は、師と頼む平田|鉄胤《かねたね》と行動を共にしうる日であろうかと思いやった。あの師の企図し、また企図しつつあるものこそ、まことの古代への復帰であろうと思いやった。おそらく国学者としての師は先師平田篤胤の遺志をついで、紛々としたほまれそしりのためにも惑わされず、諸藩の利害のためにも左右されず、よく大局を見て進まれるであろうとも思いやった。
 父吉左衛門は、と見ると、病後の身をいたわりながら裏二階の梯子段《はしごだん》を昇《のぼ》ったり降りたりする姿が半蔵の目に映る。馬籠の本陣庄屋問屋の三役を半蔵に譲ってからは、全く街道のことに口を出さないというのも、その人らしい。父が発病の当時には、口も言うことができない、足も起《た》つことができない、手も動かすことができない。治療に手を尽くして、ようやく半身だけなおるにはなおった。父は日ごろ清潔好きで、自分で本陣の庭や宅地をよく掃除《そうじ》したが、病が起こってからは手が萎《しお》れて箒《ほうき》を執るにも不便であった。父は能筆で、お家流をよく書き、字体も婉麗《えんれい》なものであったが、病後は小さな字を書くこともできなかった。まるで七つか八つの子供の書くような字を書いた。この父の言葉に、おかげで自分も治療の効によって半身の自由を得た、幸いに食事も便事も人手をわずらわさないで済む、しかし箒と筆とこの二つを執ることの不自由なのは実に悲しいと。この嘆息を聞くたびに、半蔵は胸を刺される思いをして、あの友の香蔵のような思い切った行動は執れなかった。
 八畳と三畳の二|部屋《へや》から成る味噌納屋《みそなや》の二階が吉左衛門の隠居所にあててある。そこに父は好きな美濃派の俳書や蜷川流《にながわりゅう》の将棋の本なぞをひろげ、それを朝夕の友として、わずかに病後をなぐさめている。中風患者の常として、とかくはかばかしい治療の方法がない。他目《よそめ》にももどかしいほど回復もおそかった。
「お民、おれは王滝《おうたき》まで出かけて行って来るぜ。あとのことは、清助さんにもよく頼んで置いて行く。」
 と半蔵は妻に言って、父の病を祷《いの》るために御嶽《おんたけ》神社への参籠《さんろう》を思い立った。王滝村とは御嶽山のすそにあたるところだ。木曾の総社の所在地だ。ちょうど街道も参覲交代制度変革のあとをうけ、江戸よりする諸大名が家族の通行も一段落を告げた。半蔵はそれを機会に、往復数日のわずかな閑《ひま》を見つけて、医薬の神として知られた御嶽の神の前に自分を持って行こうとした。同時に、香蔵の京都行きから深く刺激された心を抱いて、激しい動揺の渦中《かちゅう》へ飛び込んで行ったあの友だちとは反対に、しばらく寂しい奥山の方へ行こうとした。


 王滝の方へ持って行って神前にささげるための長歌もできた。半蔵は三十一字の短い形の歌ばかりでなく、時おりは長歌をも作ったので、それを陳情|祈祷《きとう》の歌と題したものに試みたのである。
「いよいよ半蔵もお出かけかい。」
 と言ってそばへ来るのは継母のおまんだ。おまんは裏の隠居所と母屋《もや》の間を往復して、吉左衛門の身のまわりのことから家事の世話まで、馬籠の本陣にはなくてならない人になっている。高遠《たかとお》藩の方に聞こえた坂本家から来た人だけに、相応な教養もあって、取って八つになる孫娘のお粂《くめ》に古今集《こきんしゅう》の中の歌なぞを諳誦《あんしょう》させているのも、このおまんだ。
「お母《っか》さん、留守をお願いしますよ。」と半蔵は言った。「わたしもそんなに長くかからないつもりです。三日も参籠《さんろう》すればすぐに引き返して来ます。」
「まあ、思い立った時に出かけて行って来るがいい。お父《とっ》さんも大層よろこんでおいでのようだよ。」
 家にはこの継母があり、妻があり、吉左衛門の退役以来手伝いに通《かよ》って来る清助がある。半蔵は往復七日ばかりの留守を家のものに頼んで置いて、王滝の方へ向かおうとした。下男の佐吉は今度も供をしたいと言い出したが、半蔵は佐吉も家に残して置いて、弟子《でし》の勝重《かつしげ》だけを連れて行くことにした。勝重も少年期から青年期に移りかける年ごろになって来て、しきりに同行を求めるからで。
 神前への供米《くまい》、『静《しず》の岩屋《いわや》』二冊、それに参籠用の清潔で白い衣裳《いしょう》なぞを用意するくらいにとどめて、半蔵は身軽にしたくした。勝重は、これも半蔵と一緒に行くことを楽しみにして、「さあ、これから山登りだ」という顔つきだ。
 本陣の囲炉裏《いろり》ばたでは、半蔵はじめ一同集まってこういう時の習慣のような茶を飲んだ。そこへ思いがけない客があった。


「半蔵さん、君はお出かけになるところですかい。」
 と言って、勝手を知った囲炉裏ばたの入り口の方からはいって来た客は、他《ほか》の人でもない、三年前に中津川を引き揚げて伊那《いな》の方へ移って行った旧《ふる》い師匠だ。宮川寛斎《みやがわかんさい》だ。
 寛斎はせっかく楽しみにして行った伊那の谷もおもしろくなく、そこにある平田門人仲間とも折り合わず、飯田《いいだ》の在に見つけた最後の「隠れ家《が》」まであとに見捨てて、もう一度中津川をさして帰って行こうとする人である。かつては横浜貿易を共にした中津川の商人|万屋安兵衛《よろずややすべえ》の依頼をうけ、二千四百両からの小判を預かり、馬荷一|駄《だ》に宰領の付き添いで帰国したその同じ街道の一部を、多くの感慨をもって踏んで来た人である。以前の伊那行きには細君も同道であったが、その人の死をも見送り、今度はひとりで馬籠まで帰って来て見ると、旧《ふる》いなじみの伏見屋金兵衛《ふしみやきんべえ》はすでに隠居し、半蔵の父も病後の身でいるありさまだ。そういう寛斎もめっきり年を取って来た。
「先生、そこはあまり端近《はしぢか》です。まあお上がりください。」
 と半蔵は言って、上がり端《はな》のところに腰掛けて話そうとする旧師を囲炉裏ばたに迎えた。寛斎は半蔵から王滝行きを思い立ったことを聞いて、あまり邪魔すまいと言ったが、さすがに長い無沙汰《ぶさた》のあとで、いろいろ話が出る。
「いや、伊那の三年は大失敗。」と寛斎は頭をかきかき言った。「今だから白状しますが、横浜貿易のことが祟《たた》ったと見えて、どこへ行っても評判が悪い。これにはわたしも弱りましたよ。あの当時、君らに相談しなかったのは、わたしが悪かった。横浜の話はもう何もしてくださるな。」
「そう先生に言っていただくとありがたい。実は、わたしはこういう日の来るのを待っていました。」
「半蔵さん、君の前ですが、伊那へ行ってわたしは自分の持ってるものまで失っちまいましたよ。おまけに、医者ははやらず、手習い子供は来ずサ。まあ三年間の土産《みやげ》と言えば、古史伝の上木《じょうぼく》を手伝って来たくらいのものです。前島|正弼《まさすけ》、岩崎長世、北原稲雄、片桐《かたぎり》春一、伊那にある平田先生の門人仲間はみんなあの仕事を熱心にやっていますよ。あの出板《しゅっぱん》は大変な評判で、津和野藩《つわのはん》あたりからも手紙が来るなんて、伊那の衆はえらい意気込みさ。そう言えば、暮田正香《くれたまさか》が京都から逃げて来る時に、君の家にもお世話になったそうですね。」
「そうでした。着流しに雪駄《せった》ばきで、吾家《うち》へお見えになった時は、わたしもびっくりしました。」
「あの先生も思い切ったことをやったもんさ。足利《あしかが》将軍の木像の首を引き抜くなんて。あの事件には師岡正胤《もろおかまさたね》なぞも関係していますから、同志を救い出せと言うんで、伊那からもわざわざ運動に京都まで出かけたものもありましたっけ。暮田正香も今じゃ日陰の身でさ。でも、あの先生のことだから、京都の同志と呼応して伊那で一旗あげるなんて、なかなか黙ってはいられない人なんですね。とにかく、わたしが出かけて行った時分と、今とじゃ、伊那も大違い。あの谷も騒がしい。」
 寛斎は尻《しり》を持ち上げたかと思うとまた落ちつけ、煙草入《たばこい》れを腰に差したかと思うとまた取り出した。そこへお民も茶を勧めに来て、夫の方を見て、
「あなた、店座敷の方へ先生を御案内したら。お母《っか》さんもお目にかかりたいと言っていますに。」
「いや、そうしちゃいられません。」と寛斎は言った。「半蔵さんもお出かけになるところだ。わたしはこんなにお邪魔するつもりじゃなかった。きょうお寄りしたのはほかでもありませんが、実は無尽《むじん》を思い立ちまして、上の伏見屋へも今寄って来ました。あの金兵衛さんにもお話しして来ました。半蔵さん、君にもぜひお骨折りを願いたい。」
「それはよろこんでいたしますよ。いずれ王滝から帰りました上で。」
「そうどころじゃない。あいにく香蔵も京都の方で、君にでもお骨折りを願うよりほかに相談相手がない。どうも男の年寄りというやつは具合の悪いもので、わたしも養子の厄介《やっかい》にはなりたくないと思うんです。これから中津川に落ちつくか、どうか、自分でも未定です。そうです
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