の徘徊《はいかい》に、決死の覚悟をもってする種々《さまざま》な建白に、王室回復の志を抱《いだ》く公卿たちの策動に、洛中の風物がそれほど薄暗い空気に包まれていたことは、実際に京都の土を踏んで見た関東方の想像以上であったと言わるる。ちょうど水戸藩主も前後して入洛《じゅらく》したが、将軍家の入洛はそれと比べものにならないほどのひそやかさで、道路に拝観するものもまれであった。そればかりではない。近臣のものは家茂《いえもち》の身を案じて、なんとかして将軍を護《まも》らねばならないと考えるほどの恐怖と疑心とにさえ駆られたという。将軍はまだ二十歳にも達しない、宮中にはいってはいかに思われても武士の随《したが》い行くべきところでない、それには鋭い懐剣を用意して置いて参内の時にひそかに差し上げようというのが近臣のものの計画であったという。さすがに家茂はそんなものを懐《ふところ》にする人ではなかった。それを見るとたちまち顔色を変えて、その剣を座上に投げ捨てた。その時の家茂の言葉に、朝廷を尊崇して参内する身に危害を加えようとするもののあるべき道理がない、もしこんな懐剣を隠し持つとしたら、それこそ朝廷を疑い奉るにもひとしい、はなはだもって無礼ではないかと。それにはかたわらに伺候していた老中|板倉伊賀守《いたくらいがのかみ》も返す言葉がなくて、その懐剣をしりぞけてしまったという。その時、将軍はすでに朝服を着けていた。参内するばかりにしたくができた。麻※[#「ころもへん+上」、第4水準2−88−9]※[#「ころもへん+下」、第4水準2−88−10]《あさがみしも》を着けた五十人あまりの侍衆《さむらいしゅう》がその先を払って、いずれも恐れ入った態度を取って、ひそやかに二条城を出たのは三月七日の朝のことだ。台徳公の面影《おもかげ》のあると言わるる年若な将軍は、小御所《こごしょ》の方でも粛然と威儀正しく静座《せいざ》せられたというが、すべてこれらのことは当時の容易ならぬ形勢を語っていた。
この将軍の上洛は、最初長州侯の建議にもとづくという。しかし京都にはこれを機会に、うんと関東方の膏《あぶら》を絞ろうという人たちが待っていた。もともと真木和泉《まきいずみ》らを急先鋒《きゅうせんぽう》とする一派の志士が、天下変革の兆《きざし》もあらわれたとし、王室の回復も遠くないとして、攘夷をもってひそかに討幕の手段とする運動を起こしたのは、すでに弘化《こうか》安政のころからである。あの京都寺田屋の事変などはこの運動のあらわれであった。これは次第に王室回復の志を抱《いだ》く公卿たちと結びつき、歴史的にも幕府と相いれない長州藩の支持を得るようになって、一層組織のあるものとなった。尊王攘夷は実にこの討幕運動の旗じるしだ。これは王室の衰微を嘆き幕府の専横を憤る烈《はげ》しい反抗心から生まれたもので、その出発点においてまじりけのあったものではない。その計画としては攘夷と討幕との一致結合を謀《はか》り、攘夷の名によって幕府の破壊に突進しようとするものである。あの水戸藩士、藤田東湖《ふじたとうこ》、戸田蓬軒《とだほうけん》らの率先して唱え初めた尊王攘夷は、幾多の屈折を経て、とうとうこの実行運動にまで来た。
排外の声も高い。もとより開港の方針で進んで来た幕府当局でも、海岸の防備をおろそかにしていいとは考えなかったのである。参覲交代《さんきんこうたい》のような幕府にとって最も重大な政策が惜しげもなく投げ出されたというのも、その一面は諸大名の江戸出府に要する無益な費用を省いて、兵力を充実し、武備を完全にするためであった。いかんせん、徳川幕府としては諸藩を統一してヨーロッパよりする勢力に対抗しうるだけの信用をも実力をも持たなかった。それでも京都方を安心させるため、宮様御降嫁の当時から外夷《がいい》の防禦《ぼうぎょ》を誓い、諸外国と取り結んだ条約を引き戻《もど》すか、無法な侵入者を征伐するか、いずれかを選んで叡慮《えいりょ》を安んずるであろうとの言質《げんち》が与えてある。この一時の気休めが京都方を満足させるはずもない。周囲の事情はもはやあいまいな態度を許さなかった。将軍の上洛に先だってその準備のために京都に滞在していた一橋慶喜《ひとつばしよしのぶ》ですら、三条実美《さんじょうさねとみ》、阿野公誠《あのきんみ》を正使とし、滋野井実在《しげのいさねあり》、正親町公董《おおぎまちきんただ》、姉小路公知《あねのこうじきんとも》を副使とする公卿たちから、将軍|入洛《じゅらく》以前にすでに攘夷期限を迫られていたほどの時である。今度の京都訪問を機会に、家茂《いえもち》の名によってこの容易ならぬ問題に確答を与えないかぎり、たとい帝御自身の年若な将軍に寄せらるる御同情があり、百方その間を周旋する慶喜の尽力があるにしても、将軍家としてはわずか十日ばかりの滞在の予定で京都を辞し去ることはできない状態にあった。
しかし、その年の二月から、遠く横浜の港の方には、十一隻から成るイギリス艦隊の碇泊《ていはく》していたことを見のがしてはならない。それらの艦隊がややもすれば自由行動をも執りかねまじき態度を示していたことを見のがしてはならない。それにはいわゆる生麦《なまむぎ》事件なるものを知る必要がある。
横浜開港以来、足掛け五年にもなる。排外を意味する横浜襲撃が諸浪士によって企てられているとのうわさは幾回となく伝わったばかりでなく、江戸|高輪《たかなわ》東禅寺《とうぜんじ》にある英国公使館は襲われ、外人に対する迫害|沙汰《ざた》も頻々《ひんぴん》として起こった。下田《しもだ》以来の最初の書記として米国公使館に在勤していたヒュウスケンなぞもその犠牲者の一人《ひとり》だ。彼は日米外交のそもそもからハリスと共にその局に当たった人で、日本の国情に対する理解も同情も深かったと言わるるが、江戸|三田《みた》古川橋《ふるかわばし》のほとりで殺害された。これらの外人を保護するため幕府方で外国御用の出役《しゅつやく》を設置し、三百余人の番衆の子弟をしてそれに当たらせるなぞのことがあればあるほど、多くの人の反感はますます高まるばかりであった。そこへ生麦事件だ。
生麦事件とは何か。これは意外に大きな外国関係のつまずきを引き起こした東海道筋での出来事である。時は前年八月二十一日、ところは川崎駅に近い生麦村、香港《ホンコン》在留の英国商人リチャアドソン、同じ香港《ホンコン》より来た商人の妻ボロオデル、横浜在留の英国商人マアシャル、およびクラアク、この四人のものが横浜から川崎方面に馬を駆って、おりから江戸より帰西の途にある薩摩《さつま》の島津久光《しまづひさみつ》が一行に行きあった。勅使|大原左衛門督《おおはらさえもんのかみ》に随行して来た島津氏の供衆も数多くあって帰りの途中も混雑するであろうから、ことに外国の事情に慣れないものが多くて自然行き違いを生ずべき懸念《けねん》もあるから、当日は神奈川《かながわ》辺の街道筋を出歩くなとは、かねて神奈川奉行から各国領事を通じて横浜居留の外国人へ通達してあったというが、その意味がよく徹底しなかったのであろう。馬上の英国人らは行列の中へ乗り入れようとしたのでもなかった。言語の不通よりか、習慣の相違よりか、薩摩のお手先衆から声がかかったのをよく解しなかったらしい。歩行の自由を有する道路を通るにさしつかえはあるまいというふうで、なおも下りの方へ行き過ぎようとしたから、たまらない。五、六百人の同勢に護《まも》られながら久光の駕籠《かご》も次第に近づいて来る時で、二人《ふたり》の武士の抜いた白刃がたちまち英国人らの腰の辺にひらめいた。それに驚いて、上りの方へ走るものがあり、馬を止めてまた走り去るものがあり、残り一人のリチャアドソンは松原というところで落馬して、その馬だけが走り去った。薩摩方の武士は落馬した異人の深手《ふかで》に苦しむのを見て、六人ほどでその異人の手を取り、畑中へ引き込んだという。傷つきのがれた三人のうち、あるものは左の肩を斬《き》られ、あるものは頭部へ斬りつけられ、一番無事な婦人も帽子と髪の毛の一部を斬られながら居留地までたどり着いた。この変報と共に、イギリス、フランスの兵士、その他の外国人は現場に急行して、神奈川奉行支配取締りなどと立ち会いの上、リチャアドソンの死体を担架に載せて引き取った。翌日は横浜在留の外人はすべて業を休んだ。荘厳な行列によって葬儀が営まれた。そればかりでなく、外人は集会して強い態度を執ることを申し合わせた。神奈川奉行を通じて、凶行者の逮捕せられるまでは島津氏の西上を差し止められたいとの抗議を持ち出したが、薩摩の一行はそれを顧みないで西に帰ってしまった。
この事件の起こった前月には仏国公使館付きの二人の士官が横浜|港崎町《こうざきちょう》の辺で重傷を負わせられ、同じ年の十二月の夜には品川《しながわ》御殿山《ごてんやま》の方に幕府で建造中であった外国公使館の一区域も長州人士のために焼かれた。排外の勢いはほとんど停止するところを知らない。当時の英国代理公使ニイルは、この日本人の態度を改めさせなければならないとでも考えたものか、横浜在留外人の意見を代表し、断然たる決心をもって生麦事件の責任を問うために幕府に迫って来た。海軍少将クロパアの率いる十一隻からの艦隊が本国政府の指令のもとに横浜に到着したのは、その結果だ。
このことが将軍家茂滞在中の京都の方に聞こえた。イギリス側の抗議は強硬をきわめたもので、英国臣民が罪なしに殺害せられるような惨酷《ざんこく》な所業に対し、日本政府がその当然の義務を怠るのみか、薩州侯をして下手人《げしゅにん》を出させることもできないのは、英国政府を侮辱するものであるとし、第一明らかにその罪を陳謝すべき事、償金十万ポンドを支払うべき事、もし満足な答えが得られないなら、英国水師提督は艦隊の威力によって目的を達するに必要な行動を執るであろうと言い、のみならず日本政府の力で薩摩の領分に下手人を捕えることもできないなら、英国は直接に薩州侯と交渉するであろう、それには艦隊を薩摩の港に差し向け、下手人を捕え、英国海軍士官の面前において斬首《ざんしゅ》すべき事、被害者の親戚《しんせき》および負傷者の慰藉料《いしゃりょう》として二万五千ポンドを支払うべき事をも付け添えて来た。この通牒《つうちょう》の影響は大きかった。のみならず、諸藩の有志が評定のために参集していた学習院へ達した時は、イギリス側の申し出はいくらかゆがめられた形のものとなって諸有志の間に伝えられた。それは左の三か条について返答を承りたい、とあったという。
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一、島津久光をイギリスに相渡し申さるべきや。
二、償銀として十万ポンド差し出さるべきや。
三、薩摩の国を征伐いたすべきや。
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「関東の事情切迫につき、英艦|防禦《ぼうぎょ》のため大樹《たいじゅ》(家茂のこと)帰府の儀、もっともの訳《わけ》がらに候えども、京都ならびに近海の守備警衛は大樹において自ら指揮これあるべく候《そうろう》。かつ、攘夷《じょうい》決戦のおりから、君臣一和にこれなく候ては相叶《あいかな》わざるのところ、大樹関東へ帰府せられ、東西相離れ候ては、君臣の情意相通ぜず、自然隔離の姿に相成るべく、天下の形勢救うべからざるの場合にたちいたり申すべく候。当節、大樹帰城の儀、叡慮《えいりょ》においても安んぜられず候間、滞京ありて、守衛の計略厚く相運《あいめぐ》らされ、宸襟《しんきん》を安んじ奉り候よう思《おぼ》し召され候。英艦応接の儀は浪華港《なにわみなと》へ相回し、拒絶談判これあるべく、万一兵端を開き候節は大樹自身出張、万事指揮これあり候わば、皇国の志気|挽回《ばんかい》の機会にこれあるべく思し召され候。関東防禦の儀は、しかるべき人体《にんてい》相選み申し付けられ候よう、御沙汰《ごさた》に候事。」これは小御所《こごしょ》において関白から一橋慶喜に渡されたというものである。学習院に参集
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