えられて、ようやくいくらか目がさめましたろうさ。しかし、君、世の中は妙なものじゃありませんか。あの薩州公や、越前公や、それから土州公なぞがいくらやきもきしても、名君と言われる諸大名の力だけでこの機運をどうすることもできませんね。まあ薩州公が勅使を奉じて江戸の方へ行ってる間にですよ、もう京都の形勢は一変していましたよ。この正月の二十一日には、大坂にいる幕府方の名高い医者を殺して、その片耳を中山|大納言《だいなごん》の邸《やしき》に投げ込むものがある。二十八日には千種《ちぐさ》家の臣《けらい》を殺して、その右の腕を千種家の邸に、左の腕を岩倉家の邸に投げ込むものがある。攘夷の血祭りだなんて言って、そりゃ乱脈なものさ。岩倉様なぞが恐れて隠れるはずじゃありませんか。まあ京都へ行って見たまえ、みんな勝手な気焔《きえん》を揚げていますから。中にはもう関東なんか眼中にないものもいますから。こないだもある人が、江戸のようなところから来て見ると、京都はまるで野蛮人の巣だと言って、驚いていましたよ。そのかわり活気はあります。参政|寄人《よりうど》というような新しいお公家《くげ》様の政事団体もできたし、どんな草深いところから出て来た野人でも、学習院へ行きさえすれば時事を建白することができる。見たまえ――今の京都には、なんでもある。公武合体から破約攘夷まである。そんなものが渦《うず》を巻いてる。ところでこの公武合体ですが、こいつがまた眉唾物《まゆつばもの》ですて。そこですよ、わたしたちは尊王の旗を高く揚げたい。ほんとうに機運の向かうところを示したい。足利尊氏のような武将の首を晒《さら》しものにして見せたのも、実を言えばそんなところから来ていますよ。」
「暮田《くれた》さん。」と半蔵は相手の長い話をさえぎった。「鉄胤先生は、いったいどういう意見でしょう。」
「わたしたちの今度やった事件にですか。そりゃ君、鉄胤先生にそんな相談をすれば、笑われるにきまってる。だからわたしたちは黙って実行したんです。三輪田元綱がこの事件の首唱者なんですけれど、あの晩は三輪田は同行しませんでした。」
 沈黙が続いた。


 半蔵はそう長くこの珍客を土蔵の中に隠して置くわけに行かなかった。暮れないうちに早く馬籠を立たせ、すくなくもその晩のうちに清内路《せいないじ》までは行くことを教えねばならなかった。清内路まで行けば、そこは伊那道にあたり、原|信好《のぶよし》のような同門の先輩が住む家もあったからで。
 半蔵は正香にきいた。
「暮田さんは、木曾路《きそじ》は初めてですか。」
「権兵衛《ごんべえ》街道から伊那へはいったことはありますが、こっち[#「こっち」は底本では「こつち」]の方は初めてです。」
「そんなら、こうなさるといい。これから妻籠《つまご》の方へ向かって行きますと、橋場《はしば》というところがありますよ。あの大橋を渡ると、道が二つに分かれていまして、右が伊那道です。実は母とも相談しまして、橋場まで吾家《うち》の下男に送らせてあげることにしました。」
「そうしていただけば、ありがたい。」
「あれから先はかなり深い山の中ですが、ところどころに村もありますし、馬も通います。中津川から飯田《いいだ》へ行く荷物はあの道を通るんです。蘭川《あららぎがわ》について東南へ東南へと取っておいでなさればいい。」
 おまんは着流しでやって来た客のために、脚絆《きゃはん》などを母屋《もや》の方から用意して来た。粗末ではあるが、と言って合羽《かっぱ》まで持って来て客に勧めた。佐吉も心得ていると見えて、土蔵の前には新しい草鞋《わらじ》がそろえてあった。
 正香は性急な人で、おまんや半蔵の見ている前で無造作に合羽へ手を通した。礼を述べるとすぐ草鞋をはいて、その足で土蔵の前の柿《かき》の木の下を歩き回った。
「暮田さん、わたしもそこまで御一緒にまいります。」
 と言って、半蔵は表門から出ずに、裏の木小屋の方へ客を導いた。木戸を押すと、外に本陣の稲荷《いなり》がある。竹藪《たけやぶ》がある。石垣《いしがき》がある。小径《こみち》がある。その小径について街道を横ぎって行った。樋《とい》をつたう水の奔《はし》り流れて来ているところへ出ると、静かな村の裏道がそこに続いている。
 その時、正香はホッと息をついた。半蔵や佐吉に送られて歩きながら、
「青山君、篤胤《あつたね》先生の古史伝を伊那の有志が上木《じょうぼく》しているように聞いていますが、君もあれには御関係ですかね。」
「そうですよ。去年の八月に、ようやく第一|帙《ちつ》を出しましたよ。」
「地方の出版としては、あれは大事業ですね。秋田(篤胤の生地)でさえ企てないようなことを伊那の衆が発起してくれたと言って、鉄胤先生なぞもあれには身を入れておいででしたっけ。なにしろ、伊那の方はさかんですね。先生のお話じゃ、毎年門人がふえるというじゃありませんか。」
「ある村なぞは、全村平田の信奉者だと言ってもいいくらいでしょう。そのくせ、松沢義章《まつざわよしあき》という人が行商して歩いて、小間物《こまもの》類をあきないながら道を伝えた時分には、まだあの谷には古学というものはなかったそうですが。」
「機運やむべからずさ。本居《もとおり》、平田の学説というものは、それを正しいとするか、あるいは排斥するか、すくなくも今の時代に生きるもので無関心ではいられないものですからねえ。」
 あわただしい中にも、送られる正香と、送る半蔵との間には、こんな話が尽きなかった。
 半蔵は峠の上まで客と一緒に歩いた。別れぎわに、
「暮田さんは、宮川寛斎という医者を御存じでしょうか。」
「美濃《みの》の国学者でしょう。名前はよく聞いていますが、ついあったことはありません。」
「中津川の景蔵さん、香蔵さん、それにわたしなぞは、三人とも旧《ふる》い弟子《でし》ですよ。鉄胤先生に紹介してくだすったのも宮川先生です。あの先生も今じゃ伊那の方ですが、どうしておいででしょうか――」
「そう言えば、青山君は鉄胤先生に一度あったきりだそうですね。一度あったお弟子でも、十年そばにいるお弟子でも、あの鉄胤先生には同じようだ。君の話もよく出ますよ。」
 この人の残して置いて行った言葉も、半蔵には忘れられなかった。


 もはや、暖かい雨がやって来る。二月の末に京都を発《た》って来たという正香は尾張《おわり》や仙台《せんだい》のような大藩の主人公らまで勅命に応じて上京したことは知るまいが、ちょうどあの正香が夜道を急いで来るころに、この木曾路には二藩主の通行もあった。三千五百人からの尾張の人足が来て馬籠の宿に詰めた。あの時、二百四十匹の継立《つぎた》ての馬を残らず雇い上げなければならなかったほどだ。木曾街道筋の通行は初めてと聞く仙台藩主の場合にも、時節柄同勢やお供は減少という触れ込みでも、千六百人の一大旅行団が京都へ向けてこの宿場を通過した。しかも応接に困難な東北弁で。
「半蔵、お前のところへ来たお客さんも、無事に伊那の小野村まで落ち延びていらしったろうか。」
 こんなうわさをおまんがするころは、そこいらは桃の春だった。一橋慶喜の英断に出た参覲交代制度の変革の結果は、驚かれるほどの勢いでこの街道にあらわれて来るようになった。旧暦三月のよい季節を迎えて見ると、あの江戸の方で上巳《じょうみ》の御祝儀を申し上げるとか、御能《おのう》拝見を許されるとか、または両山の御霊屋《おたまや》へ参詣《さんけい》するとかのほかには、人質も同様に、堅固で厳重な武家屋敷のなかにこもり暮らしていたどこの簾中《れんちゅう》とかどこの若殿とかいうような人たちが、まるで手足の鎖を解き放たれたようにして、続々帰国の旅に上って来るようになった。
 越前の女中方、尾張の若殿に簾中、紀州の奥方ならびに女中方、それらの婦人や子供の一行が江戸の方から上って来て、いずれも本陣や問屋の前に駕籠《かご》を休めて行った。尾州の家中|成瀬隼人正《なるせはやとのしょう》の女中方、肥前島原の女中方、因州《いんしゅう》の女中方なぞの通行が続きに続いた。これが馬籠峠というところかの顔つきの婦人もある。ようやく山の上の空気を自由に吸うことができたと言いたげな顔つきのものもある。半蔵の家に一泊ときめて、五、六人で比丘尼寺《びくにでら》の蓮池《はすいけ》の方まで遊び回り、谷川に下帯|洗濯《せんたく》なぞをして来る女中方もある。
 上の伏見屋の金兵衛は、半蔵の父と同じようにすでに隠居の身であるが、持って生まれた性分《しょうぶん》からじっとしていられなかった。きのうは因州の分家にあたる松平|隠岐守《おきのかみ》の女中方が通り、きょうは岩村の簾中方が子供衆まで連れての通行があると聞くと、そのたびに旧《ふる》い友だちを誘いに来た。
「吉左衛門さん、いくら御静養中だって、そう引っ込んでばかりいなくてもいいでしょう。まあすこし出てごらんなさい。おきれいと言っていいか、おみごとと言っていいか、わたしは拝見しているうちに涙がこぼれて来ますよ。」
 毎日のような女中方の通行だ。半蔵や伊之助は見物どころではなかった。この帰国する人たちの通行にかぎり、木曾下四宿へ五百人の新助郷《しんすけごう》が許され、特にお定めより割のよい相対雇《あいたいやと》いの賃銭まで許され、百人ばかりの伊那の百姓は馬籠へも来て詰めていた。町人四分、武家六分と言われる江戸もあとに見捨てて来た屋敷方の人々は、住み慣れた町々の方の財界の混乱を顧みるいとまもないようであった。
「国もとへ、国もとへ。」
 その声は――解放された諸大名の家族が揚げるその歓呼は――過去三世紀間の威力を誇る東照宮の覇業《はぎょう》も、内部から崩《くず》れかけて行く時がやって来たかと思わせる。中には、一団の女中方が馬籠の町のなかだけを全部|徒歩《おひろい》で、街道の両側に群がる普通の旅行者や村の人たちの間を通り過ぎるのもある。桃から山桜へと急ぐ木曾の季節のなかで、薩州の御隠居、それから女中の通行のあとには、また薩州の簾中《れんちゅう》の通行も続いた。
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     第七章

       一

 文久《ぶんきゅう》三年は当時の排外熱の絶頂に達した年である。かねてうわさのあった将軍|家茂《いえもち》の上洛《じょうらく》は、その声のさわがしいまっ最中に行なわれた。
 二月十三日に将軍は江戸を出発した。時節柄、万事質素に、という触れ込みであったが、それでもその通行筋にあたる東海道では一時旅人の通行を禁止するほどの厳重な警戒ぶりで、三月四日にはすでに京都に到着し、三千あまりの兵に護《まも》られながら二条城にはいった。この京都訪問は、三代将軍|家光《いえみつ》の時代まで怠らなかったという入朝の儀式を復活したものであり、当時の常識とも言うべき大義名分の声に聴《き》いて幕府方においてもいささか鑑《かんが》みるところのあった証拠であり、王室に対する過去の非礼を陳謝する意味のものでもあって、同時に公武合体の意をいたし、一切の政務は従前どおり関東に委任するよしの御沙汰《ごさた》を拝するためであった。宮様御降嫁以来、帝《みかど》と将軍とはすでに義理ある御兄弟《ごきょうだい》の間柄である。もしこれが一層王室と将軍家とを結びつけるなかだちとなり、政令二途に出るような危機を防ぎ止め、動揺する諸藩の人心をしずめることに役立つなら、上洛に要する莫大《ばくだい》な費用も惜しむところではないと言って、関東方がこの旅に多くの望みをかけて行ったというに不思議はない。遠く寛永《かんえい》時代における徳川将軍の上洛と言えば、さかんな関東の勢いは一代を圧したもので、時の主上ですらわざわざ二条城へ行幸《ぎょうこう》せられたという。いよいよ将軍家|参内《さんだい》のおりには、多くの公卿《くげ》衆はお供の格で、いずれも装束《しょうぞく》着用で、先に立って案内役を勤めたものであったという。二百十余年の時はこの武将の位置を変えたばかりでなく、その周囲をも変えた。三条河原に残る示威のうわさに、志士浪人
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