替えになった。その冬の布告によると、将軍上洛の導従が東海道を通行するものが多いから、十二月九日以後は旅人は皆東山道を通行せよとある。
「半蔵さま、来年は街道もごたごたしますぞ。」
「さあ、おれもその覚悟だ。」
清助と半蔵とはこんな言葉をかわした。
年も暮れて行った。明ければ文久三年だ。その時になって見ると、東へ、東へと向かっていた多くの人の足は、全く反対な方角に向かうようになった。時局の中心はもはや江戸を去って、京都に移りつつあるやに見えて来た。それを半蔵は自分が奔走する街道の上に読んだ。彼も責任のあるからだとなってから、一層注意深い目を旅人の動きに向けるようになった。
本馬《ほんま》六十三文、軽尻《からじり》四十文、人足四十二文、これは馬籠から隣宿|美濃《みの》の落合《おちあい》までの駄賃《だちん》として、半蔵が毎日のように問屋場の前で聞く声である。将軍|上洛《じょうらく》の日も近いと聞く新しい年の二月には、彼は京都行きの新撰組《しんせんぐみ》の一隊をこの街道に迎えた。一番隊から七番隊までの列をつくった人たちが雪の道を踏んで馬籠に着いた。いずれも江戸の方で浪士《ろうし》の募集に応じ、尽忠報国をまっこうに振りかざし、京都の市中を騒がす攘夷《じょうい》党の志士浪人に対抗して、幕府のために粉骨砕身しようという剣客ぞろいだ。一道の達人、諸国の脱藩者、それから無頼《ぶらい》な放浪者なぞから成る二百四十人からの群れの腕が馬籠の問屋場の前で鳴った。
二月も末になって、半蔵のところへは一人《ひとり》の訪問者があった。宵《よい》の口を過ぎたころで、道に迷った旅人なぞの泊めてくれという時刻でもなかった。街道もひっそりしていた。
「旦那《だんな》、大草仙蔵《おおぐさせんぞう》というかたが見えています。」
囲炉裏《いろり》ばたで※[#「くさかんむり/稾」、295−11]造《わらづく》りをしていた下男の佐吉がそれを半蔵のところへ知らせに来た。
「大草仙蔵?」
「旦那にお目にかかればわかると言って、囲炉裏ばたの入り口の方においでたぞなし。」
不思議に思って半蔵は出て見た。京都方面で奔走していると聞いた平田同門の一人が、着流しに雪駄《せった》ばきで、入り口の土間のところに立っていた。大草仙蔵とは変名で、実は先輩の暮田正香《くれたまさか》であった。
「青山君、君にお願いがあって来ました。」
と客は言ったが、周囲に気を兼ねてすぐに切り出そうともしない。この先輩は歩き疲れたというふうで、上がり端《はな》のところに腰をおろした。ちょうど囲炉裏の方には人もいないのを見すまし、土間の壁の上に高く造りつけてある鶏の鳥屋《とや》まで見上げて、それから切り出した。
「実は、今、中津川から歩いて来たところです。君のお友だちの浅見(景蔵)君はお留守ですが、ゆうべはあそこの家に泊めてもらいました。青山君、こんなにおそく上がって御迷惑かもしれませんが、今夜一晩|御厄介《ごやっかい》になれますまいか。青山君はまだわたしたちのことを何もお聞きになりますまい。」
「しばらく景蔵さんからも便《たよ》りがありませんから。」
「わたしはこれから伊那《いな》の方へ行って身を隠すつもりです。」
客の言葉は短い。事情もよく半蔵にはわからない。しかし変名で夜おそく訪《たず》ねて来るくらいだ。それに様子もただではない。
「この先輩は幕府方の探偵《たんてい》にでもつけられているんだ。」その考えがひらめくように半蔵の頭へ来た。
「暮田《くれた》さん、まあこっちへおいでください。しばらく待っていてください。くわしいことはあとで伺いましょう。」
半蔵は土間にある草履《ぞうり》を突ッかけながら、勝手口から裏の方へ通う木戸をあけた。その戸の外に正香《まさか》を隠した。
とにかく、厄介な人が舞い込んで来た。村には目証《めあかし》も滞在している。狭い土地で人の口もうるさい。どうしたら半蔵はこの夜道に疲れて来た先輩を救って、同志も多く安全な伊那の谷の方へ落としてやることができようと考えた。家には、と見ると、父は正月以来裏の二階へ泊まりに行っている。お民は奥で子供らを寝かしつけている。通いで来る清助はもう自宅の方へ帰って行っている。弟子《でし》の勝重はまだ若し、佐吉や下女たちでは用が足りない。
「これはお母《っか》さんに相談するにかぎる。」
その考えから、半蔵はありのままな事情を打ち明けて、客をかくまってもらうために継母のおまんを探《さが》した。
「平田先生の御門人か。一晩ぐらいのことなら、土蔵の中でもよろしかろう。」
おまんは引き受け顔に答えた。
暮田正香は半蔵と同国の人であるが、かつて江戸に出て水戸藩士|藤田東湖《ふじたとうこ》の塾《じゅく》に学んだことがあり、東湖没後に水戸の学問から離れて平田派の古学に目を見開いたという閲歴を持っている。信州北伊那郡小野村の倉沢義髄《くらさわよしゆき》を平田|鉄胤《かねたね》の講筵《こうえん》に導いたのも、この正香である。後に義髄は北伊那における平田派の先駆をなしたという関係から、南信地方に多い平田門人で正香の名を知らないものはない。
この人を裏の土蔵の方へ導こうとして、おまんは提灯《ちょうちん》を手にしながら先に立って行った。半蔵も蓙《ござ》や座蒲団《ざぶとん》なぞを用意してそのあとについた。
「足もとにお気をつけくださいよ。石段を降りるところなぞがございますよ。」
とおまんは客に言って、やがて土蔵の中に用でもあるように、大きな鍵《かぎ》で錠前をねじあけ、それを静かに抜き取った。金網の張ってある重い戸があくと、そこは半蔵夫婦が火災後しばらく仮住居《かりずまい》にもあてたところだ。蓙《ござ》でも敷けば、客のいるところぐらい設けられないこともなかった。
「お客さんはお腹《なか》がおすきでしたろうね。」
それとなくおまんが半蔵にきくと、正香はやや安心したというふうで、
「いや、したくは途中でして来ました。なにしろ、京都を出る時は、二昼夜歩き通しに歩いて、まるで足が棒のようでした。それから昼は隠れ、夜は歩くというようにして、ようやくここまでたどり着きました。」
おまんは提灯の灯《ひ》を片すみの壁に掛け、その土蔵の中に二人《ふたり》のものを置いて立ち去った。
「半蔵、お客さんの夜具はあとから運ばせますよ。」
との言葉をも残した。
「青山君、やりましたよ。」
二人ぎりになった時、正香はそんなことを言い出した。その調子が半蔵には、実に無造作にも、短気にも、とっぴにも、また思い詰めたようにも聞こえた。
同志九人、その多くは平田門人あるいは準門人であるが、等持院に安置してある足利尊氏《あしかがたかうじ》以下、二将軍の木像の首を抜き取って、二十三日の夜にそれを三条河原《さんじょうがわら》に晒《さら》しものにしたという。それには、今の世になってこの足利らが罪状の右に出るものがある、もし旧悪を悔いて忠節を抽《ぬき》んでることがないなら、天下の有志はこぞってその罪を糺《ただ》すであろうとの意味を記《しる》し添えたという。ところがこの事を企てた仲間のうちから、会津《あいづ》方(京都守護の任にある)の一人の探偵があらわれて、同志の中には縛に就《つ》いたものもある。正香は二昼夜兼行でその難をのがれて来たことを半蔵の前に白状したのであった。
正香に言わせると、将軍|上洛《じょうらく》の日も近い。三条河原の光景は、それに対する一つの示威である、尊王の意志の表示である、死んだ武将の木像の首を晒《さら》しものにするようなことは子供らしい戯れとも聞こえるが、しかしその道徳的な効果は大きい、自分らはそれをねらったのであると。
この先輩の大胆さには、半蔵も驚かされた。「物学びするともがら」の実行を思う心は、そこまで突き詰めて行ったかと考えさせられた。同時に、平田|大人《うし》没後の門人と一口には言っても、この先輩に水戸風な学者の影響の多分に残っていることは争えないとも考えさせられた。
「だれか君を呼ぶ声がする。」
正香は戸に近づく人のけはいを聞きとがめるようにして、耳のところへ手をあてがった。半蔵も耳を澄ました。お民だ。彼女は佐吉に手伝わせて客の寝道具をそこへ持ち運んで来た。
「暮田さん、非常にお疲れのようですから、これでわたしも失礼します。お話はあす伺います。お休みください。」
そのまま半蔵は正香のそばを離れて、母屋《もや》の方へ帰って行った。どれほどの人の動き始めたとも知れないような京都の方のことを考え、そこにある友人の景蔵のことなぞを考えて、その晩は彼もよく眠られなかった。
翌日の昼過ぎに、半蔵はこっそり正香を見に行った。御膳《ごぜん》何人前、皿《さら》何人前と箱書きのしてある器物の並んだ土蔵の棚《たな》を背後《うしろ》にして、蓙《ござ》を敷いた座蒲団の上に正香がさびしそうにすわっていた。前の晩に見た先輩の近づきがたい様子とも違って、多感で正直な感じのする一人の国学者をそこに見つけた。
その時、半蔵は腰につけて持って行った瓢箪《ふくべ》を取り出した。木盃《もくはい》を正香の前に置いた。くたぶれて来た旅人をもてなすようにして、酒を勧めた。
「ほ。」と正香は目をまるくして、「君はめずらしいものをごちそうしてくれますね。」
「これは馬籠の酒です。伏見屋と桝田屋《ますだや》と、二軒で今造っています。一つ山家の酒を味わって見てください。」
「どうも瓢箪のように口の小さいものから出る酒は、音からして違いますね。コッ、コッ、コッ、コッ――か。長道中でもして来た時には、これが何よりですよ。」
まるで子供のようなよろこび方だ。この先輩が瓢箪から出る酒の音を口まねまでしてよろこぶところは、前の晩に拳《こぶし》を握り固め、五本の指を屈《かが》め、後ろから髻《たぶさ》でもつかむようにして、木像の首を引き抜く手まねをして見せながら等持院での現場の話を半蔵に聞かせたその同じ豪傑とも見えなかった。
そればかりではない。京都|麩屋町《ふやまち》の染め物屋で伊勢久《いせきゅう》と言えば理解のある義気に富んだ商人として中津川や伊那地方の国学者で知らないもののない人の名が、この正香の口から出る。平田門人、三輪田綱一郎《みわたつないちろう》、師岡正胤《もろおかまさたね》なぞのやかましい連中が集まっていたという二条|衣《ころも》の棚《たな》――それから、同門の野代広助《のしろひろすけ》、梅村真一郎、それに正香その人をも従えながら、秋田藩|物頭役《ものがしらやく》として入京していた平田鉄胤が寓居《ぐうきょ》のあるところだという錦小路《にしきこうじ》――それらの町々の名も、この人の口から出る。伊那から出て、公卿《くげ》と志士の間の連絡を取ったり、宮廷に近づいたり、鉄胤門下としてあらゆる方法で国学者の運動を助けている松尾|多勢子《たせこ》のような婦人とも正香は懇意にして、その人が帯の間にはさんでいる短刀、地味な着物に黒繻子《くろじゅす》の帯、長い笄《こうがい》、櫛巻《くしま》きにした髪の姿までを話のなかに彷彿《ほうふつ》させて見せる。日ごろ半蔵が知りたく思っている師鉄胤や同門の人たちの消息ばかりでなく、京都の方の町の空気まで一緒に持って来たようなのも、この正香だ。
「そう言えば、青山君。」と正香は手にした木盃《もくはい》を下に置いて、膝《ひざ》をかき合わせながら言った。「君は和宮《かずのみや》さまの御降嫁あたりからの京都をどう思いますか。薩摩《さつま》が来る、長州が来る、土佐が来る、今度は会津が来る。諸大名が動いたから、機運が動いて来たと思うのは大違いさ。機運が動いたからこそ、薩州公などは鎮撫《ちんぶ》に向かって来たし、長州公はまた長州公で、藩論を一変して乗り込んで来た。そりゃ、君、和宮さまの御降嫁だっても、この機運の動いてることを関東に教えたのさ。ところが関東じゃ目がさめない。勅使|下向《げこう》となって、慶喜公は将軍の後見に、越前《えちぜん》公は政事総裁にと、手を取るように言って教
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