仙十郎《せんじゅうろう》(上の伏見屋の以前の養子)の間にできた子供のことで。今一度は古い地所のことで。半蔵は覚えがあろう、あの地所のことでは金兵衛さんが大変な立腹で、いったい青山の欲心からこんなことが起こる、末長く御懇意に願いたいと思っているのに今からこんな問題が起こるようでは孫子の代が案じられるなんて、そう言っておれを攻撃したそうだ。おれはあとになって人からその話を聞いた。何にしろあの時は金兵衛さんが顔色を変えて、おれの家へ古い書付なぞを見せに持ち込んで来た。あれはおれの覚えちがいだったかもしれんが、あんなに金兵衛さんも言わなくても済むことさ。いくらよい友だちでも、やっぱりあの人と、おれとは違う。今になって見ると、よく二人はここまで一緒に歩いて来られたものだという気もするね。おれはお前、このとおりな人間だし、金兵衛さんと来たら、あの人はなかなか細かいからね。土蔵の前の梨《なし》の木に紙袋《かんぶくろ》をかぶせて置いて、大風に落ちた三つの梨のうちで、一番大きい梨の目方が百三匁、ほかの二つは目方が六十五匁あったと、そう言うような人なんだからね。」
過ぐる年の大火に、馬籠本陣の古い書類も多く焼失した。かろうじて持ち出したもの、土蔵の方へ運んであったものは残った。例の相州三浦にある本家から贈られた光琳《こうりん》の軸、それに火災前から表玄関の壁の上に掛けてあった古い二本の鎗《やり》だけは遠い先祖を記念するものとして残った。その時、吉左衛門は『青山氏系図』としてあるものまで取り出して半蔵の前に置いた。
「半蔵、お前も知ってるように、吾家《うち》には出入りをする十三人の百姓がある。中には美濃《みの》の方から吾家《うち》へ嫁に来た人に随《つ》いて馬籠に移住した関係のものもある。正月と言えば吾家《うち》へ餅《もち》をつきに来たり、松を立てたりしに来るのも、先祖以来の関係からさ。あの百姓たちには目をかけてやれよ。それから、お前に断わって置くが、いよいよおれも隠居する日が来たら、何事もお前の量見一つでやってくれ――おれは一切、口を出すまいから。」
父はこの調子だ。半蔵の方でもう村方のことから街道の一切の世話まで引き受けてしまったような口ぶりだ。
その日、半蔵は父のいる部屋《へや》から店座敷の方へ引きさがって来た。こういう日の来ることは彼も予期していた。長い歴史のある青山の家を引き継ぎ、それを営むということが、もとより彼の心をよろこばせないではない。しかし、実際に彼がこの家を背負《しょ》って立とうとなると、これがはたして自分の行くべき道かと考える。国学者としての多くの同志――ことに友人の景蔵なぞが寝食を忘れて国事に奔走している中で、父は病み、実の兄弟《きょうだい》はなし、ただ一人《ひとり》お喜佐のような異腹《はらちがい》の妹に婿養子の祝次郎はあっても、この人は新宅の方にいて彼とはあまり話も合わなかった。
秋らしい日が来ていた。店座敷の障子には、裏の竹林の方からでも飛んで来たかと思われるようなきりぎりすがいて、細長い肢《あし》を伸ばしながら静かに障子の骨の上をはっている。半蔵の目はそのすずしそうな青い羽をながめるともなくながめて、しばらく虫の動きを追っていた。
お民は店座敷へ来て言った。
「あなた、顔色が青いじゃありませんか。」
「そりゃ、お前、生きてる人間だもの。」
これにはお民も二の句が継げなかった。そこへ継母のおまんが一人の男を連れてはいって来た。
「半蔵、清助さんがこれから吾家《うち》へ手伝いに通《かよ》って来てくれますよ。」
和田屋の清助という人だ。半蔵の家のものとは遠縁にあたる。本陣問屋庄屋の雑務を何くれとなく手伝ってもらうには、持って来いという人だ。清助は吉左衛門が見立てた人物だけあって、青々と剃《そ》り立てた髯《ひげ》の跡の濃い腮《あご》をなでて、また福島の役所の方から代替《だいがわ》り本役の沙汰《さた》もないうちから、新主人半蔵のために祝い振舞《ぶるまい》の時のしたくなぞを始めた。客は宿役人の仲間の衆。それに組頭《くみがしら》一同。当日はわざと粗酒一|献《こん》。そんな相談をおまんにするのも、この清助だ。
青山、小竹両家で待たれる福島の役所からの剪紙《きりがみ》(召喚状)が届いたのは、それから間もなかった。それには青山吉左衛門|忰《せがれ》、年寄役小竹金兵衛忰、両人にて役所へまかりいでよとある。付添役二人、宿方|惣代《そうだい》二人同道の上ともある。かねて願って置いた吉左衛門らの退役と隠居がきき届けられ、跡役は二人の忰《せがれ》たちに命ずると書いてないまでも、その剪紙《きりがみ》の意味はだれにでも読めた。
半蔵も心を決した。彼は隣家の伊之助を誘って、福島をさして出かけた。木曾路に多い栗《くり》の林にぱらぱら時雨《しぐれ》の音の来るころには、やがて馬籠から行った惣代の一人、桝田屋《ますだや》の相続人小左衛門、それに下男の佐吉なぞと共に、一同連れだって福島からの帰路につく人たちであった。彼が奥筋から妻籠まで引き返して来ると、そこの本陣に寿平次が待ち受けていて、一緒に馬籠まで行こうという。
「寿平次さん、とうとうわたしも君たちのお仲間入りをしちまいましたよ。」
「みんなで寄ってたかって、半蔵さんを庄屋にしないじゃ置かないんです。お父《とっ》さんも、さぞお喜びでしょう。」
寿平次も笑ったり、祝ったりした。
宮様御降嫁の当時、公武一和の説を抱いて供奉《ぐぶ》の列の中にあった岩倉、千種《ちぐさ》、富小路《とみのこうじ》の三人の公卿《くげ》が近く差し控えを命ぜられ、つづいて蟄居《ちっきょ》を命ぜられ、すでに落飾《らくしょく》の境涯《きょうがい》にあるというほど一変した京都の方の様子も深く心にかかりながら、半蔵は妻籠本陣に一晩泊まったあとで、また連れと一緒に街道を踏んで行った。妻籠からは、彼は自分を待ち受けてくれる人たちにと思って、念のために帰宅を報じて置いた。
寿平次を加えてからの帰路は、一層半蔵に別な心持ちを起こさせた。大橋を渡り、橋場というところを過ぎて、下《くだ》り谷《だに》にかかった。歩けば歩くほど新生活のかどでにあるような、ある意識が彼の内部《なか》にさめて行った。
「寿平次さん、君の方へは何か最近に来た便《たよ》りがありますか――江戸からでも。」
「さあ、最近に驚かされたと言えば、生麦《なまむぎ》事件ぐらいのものです。」
「あの報知《しらせ》はわたしの方へも早く来ました。ほら、横須賀《よこすか》の旅に、あの辺は君と二人で歩いて通ったところなんですがね。」
武州の生麦と言えば、勅使に随行した島津久光の一行、その帰国を急ぐ途中での八月二十一日あたりの出来事は江戸の方から知れて来ていた。あの英人の殺傷事件を想像しながら、木曾の尾垂《おたる》の沢深い山間《やまあい》を歩いて行くのは薄気味悪くもあるほど、まだそのうわさは半蔵らの記憶になまなましい。
「寿平次さん、わたしはそれよりも、あの薩摩《さつま》の同勢の急いで帰ったというのが気になりますよ。あれほどの事件が途中で起こったというのに、それをうっちゃらかして置いて行くくらいですからね。京都の方はどうでしょう。それほど雲行きが変わって来たんじゃありませんかね。」
「さあねえ。」
「寿平次さんは岩倉様の蟄居《ちっきょ》を命ぜられたことはお聞きでしたかい。」
「そいつは初耳です。」
「どうもいろいろなことをまとめて考えて見ると、何か京都の方には起こっている――」
「半蔵さんのお仲間からは何か言って来ますか。今じゃ平田先生の御門人で、京都に集まってる人もずいぶんあるんでしょう。」
「しばらく景蔵さんからも便《たよ》りがありません。」
「なにしろ世の中は多事だ。これからの庄屋の三年は、お父《とっ》さん時代の人たちの二十年に当たるかもしれませんね。」
二人は話し話し歩いた。
一石栃《いちこくとち》まで帰って行くと、そこは妻籠と馬籠の宿境にも近い。歩き遅れた半蔵らは連れの伊之助や小左衛門なぞに追いついて、峠の峰まで帰って行った。
「へえ、旦那《だんな》、おめでとうございます。」
半蔵はその峰の上で、そこに自分を待ち受けている峠村の組頭、その他二、三の村のものの声を聞いた。
清水というところまで帰って行った。馬籠の町内にある五人組の重立ったものが半蔵を出迎えた。陣場まで帰って行った。問屋の九郎兵衛、馬籠の組頭で百姓総代の庄助、本陣新宅の祝次郎、その他半蔵が内弟子《うちでし》の勝重《かつしげ》から手習い子供まで、それに荒町《あらまち》からのものなぞを入れると、十六、七人ばかりの人たちが彼を出迎えた。上町《かみまち》まで帰って行くと、問屋九太夫をはじめ、桝田屋《ますだや》、蓬莱屋《ほうらいや》、梅屋、いずれももう髪の白いそれらの村の長老たちが改まった顔つきで、馬籠の新しい駅長をそこに待ち受けていた。
五
「あなたは勤王家ですか。」
「勤王家かとはなんだい。」
「その方のお味方ですかッて、きいているんですよ。」
「お民、どうしてお前はそんなことをおれにきくんだい。」
半蔵は本陣の奥の上段の間にいた。そこは諸大名が宿泊する部屋《へや》にあててあるところで、平素はめったに家のものもはいらない。お民は仲の間の方から、そこに片づけものをしている夫《おっと》を見に来た時だ。
「どうしてということもありませんけれど、」とお民は言った。「お母《っか》さんがそんなことを言ってましたから。」
半蔵は妻の顔をながめながら、「おれは勤王なんてことをめったに口にしたこともない。今日、自分で勤王家だなんて言う人の顔を見ると、おれはふき出したくなる。そういう人は勤王を売る人だよ。ごらんな――ほんとうに勤王に志してるものなら、かるがるしくそんなことの言えるはずもない。」
「わたしはちょっときいて見たんですよ――お母《っか》さんがそんなことを言っていましたからね。」
「だからさ、お前もそんなことを口にするんじゃないよ。」
お民は周囲を見回した。そこは北向きで、広い床の間から白地に雲形を織り出した高麗縁《こうらいべり》の畳の上まで、茶室のような静かさ厳粛さがある。厚い壁を隔てて、街道の方の騒がしい物音もしない。部屋から見える坪庭には、山一つ隔てた妻籠《つまご》より温暖《あたたか》な冬が来ている。
「そう言えば、これは別の話ですけれど、こないだ兄さん(寿平次)が来た時に、わたしにそう言っていましたよ――平田先生の御門人は、幕府方から目をつけられているようだから、気をおつけッて。」
「へえ、寿平次さんはそんなことを言っていたかい。」
将軍|上洛《じょうらく》の前触れと共に、京都の方へ先行してその準備をしようとする一橋慶喜《ひとつばしよしのぶ》の通行筋はやはりこの木曾街道で、旧暦十月八日に江戸|発駕《はつが》という日取りの通知まで来ているころだった。道橋の見分に、宿割《しゅくわり》に、その方の役人はすでに何回となく馬籠へも入り込んで来た。半蔵はこの山家に一橋公を迎える日のあるかと想《おも》って見て、上段の間を歩き回っていた。
「どれ、お大根でも干して。」
お民は出て行った。山家では沢庵漬《たくあんづ》けの用意なぞにいそがしかった。いずれももう冬じたくだ。野菜を貯《たくわ》えたり、赤蕪《あかかぶ》を漬《つ》けたりすることは、半蔵の家でも年中行事の一つのようになっていた。その時、半蔵は妻を見送ったあとで、彼女のそこに残して置いて行った言葉を考えて見た。深い窓にのみこもり暮らしているような継母のおまんが、しかも「わたしはもうお婆《ばあ》さんだ」を口癖にしている五十四歳の婦人で、いつのまに彼の志を看破《みやぶ》ったろうとも考えて見た。その心持ちから、彼は一層あの賢い継母を畏《おそ》れた。
数日の後、半蔵は江戸の道中奉行所《どうちゅうぶぎょうしょ》から来た通知を受け取って見て、一橋慶喜の上京がにわかに東海道経由となったことを知った。道普請まで命ぜられた木曾路の通行は何かの都合で模様
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