道中奉行所の方から来た達しのことが往来《ゆきき》していた。かねてうわさには上っていたが、いよいよ諸大名が参覲交代《さんきんこうたい》制度の変革も事実となって来た。これには幕府の諸有司の中にも反対するものが多かったというが、聰明《そうめい》で物に執着することの少ない一橋慶喜と、その相談相手なる松平春嶽とが、惜しげもなくこの英断に出た。言うまでもなく、参覲交代の制度は幕府が諸藩を統御するための重大な政策である。これが変革されるということは、深い時代の要求がなくては叶《かな》わない。この一大改革はもう長いこと上にある識者の間に考えられて来たことであろうが、しかし吉左衛門親子のように下から見上げるものにとっても、この改変を余儀なくされるほどの幕府の衰えが目についた。諸大名が実際の通行に役立つ沿道の人民の声にきいて課役を軽くしないかぎり、ただ徳川政府の威光というだけでは、多くの百姓ももはや動かなくなって来た。
 本陣の門を出る時、吉左衛門はそのことを半蔵にきいた。
「お前は今度のお達しをよく読んで見たかい。参覲交代が全廃というわけではないんだね。」
「お父《とっ》さん、全廃じゃありません。諸大名は三年目ごとに一度、御三家や溜詰《たまりづめ》は一月《ひとつき》ずつ江戸におれとありますがね、奥方や若様は帰国してもいいと言うんですから、まあほとんど骨抜きに近いようなものでしょう。」
 夕方になるととかく疲れが出て引きこもりがちな吉左衛門が、その晩のように上の伏見屋まで歩こうと言い出したことは、病後初めての事と言ってもよかった。この父は久しぶりで家を出て見るというふうで、しばらく門前にたたずんで、まだ暮れ切らない街道の空をながめた。
「半蔵、この街道はどうなろう。」
「参覲交代がなくなったあとにですか。」
「そりゃ、お前、参覲交代はなくなっても、まるきり街道がなくなりもしまいがね。まあ、金兵衛さんにもあって、話して見るわい。」
 心配してついて行く半蔵に助けられながら、吉左衛門は坂になった馬籠の町を非常に静かに歩いた。右に問屋、蓬莱屋《ほうらいや》、左に伏見屋、桝田屋《ますだや》なぞの前後して新築のできた家々が両側に続いている。その間の宿場らしい道を登って行くと、親子|二人《ふたり》のものはある石垣《いしがき》のそばで向こうからやって来る小前《こまえ》の百姓にあった。
 百姓は吉左衛門の姿を見ると、いきなり自分の頬《ほお》かぶりしている手ぬぐいを取って、走り寄った。
「大旦那《おおだんな》、どちらへ、半蔵さまも御一緒かなし。お前さまがこんなに村を出歩かせるのも、御病気になってから初めてだらずに。」
「あい。おかげで、日に日にいい方へ向いて来たよ。」
「まあ、おれもどのくらい心配したか知れすかなし。御病気が御病気だから、井戸の水で頭を冷やすぐらいは知れたものだと思って、おれはお前さまのために恵那山《えなさん》までよく雪を取りに行って来たこともある。」
 吉左衛門から見れば、これらの小前のものはみんな自分の子供だった。
 そこまで行くと、上の伏見屋も近い。ちょうど金兵衛は山口村の祭礼狂言を見に二日泊まりで出かけて行って、その日の午後に帰って来たというところだった。
「おゝ、吉左衛門さんか。これはおめずらしい。」
 と言って、金兵衛は後添《のちぞ》いのお玉と共によろこび迎えた。
 金兵衛も吉左衛門と同じように、もはや退役の日の近いことを知っていた。新築した伏見屋は養子伊之助に譲り、火災後ずっと上の伏見屋の方に残っていて、晩年のしたくに余念もない。六十六歳の声を聞いてから、中新田《なかしんでん》へ杉苗《すぎなえ》四百本、青野へ杉苗百本の植え付けなぞを思い立つ人だ。
「お玉、お風呂《ふろ》を見てあげな。」
 という金兵衛の声を聞いて、半蔵は薄暗い湯どのの方へ父を誘った。病後の吉左衛門にとって長湯は大の禁物だった。半蔵は自分でも丸はだかになって、手ばしこく父の背中を流した。その不自由な手を洗い、衰えた足をも洗った。
「お父《とっ》さん、湯ざめがするといけませんよ、またこないだのようなことがあると、大変ですよ。」
 病後の父をいたわる半蔵の心づかいも一通りではなかった。
 間もなく上の伏見屋の店座敷では、山家風な行燈《あんどん》を置いたところに主客のものが集まって、夜咄《よばなし》にくつろいだ。
「金兵衛さん、わたしも命拾いをしましたよ。」と吉左衛門は言った。「ひところは、これで明日《あした》もあるかと思いましてね、枕《まくら》についたことがよくありましたよ。」
「そう言えば、あの和宮《かずのみや》さまの御通行の時分から弱っていらしった。」と金兵衛も茶なぞを勧めながら答える。「吉左衛門さんはあんなに無理をなすって、あとでお弱りにならなければいいがって、お玉ともよくあの時分におうわさしましたよ。」
「もう大丈夫です。ただ筆を持てないのと、箒《ほうき》を持てないのには――これにはほとんど閉口です。」
「吉左衛門さんの庭|掃除《そうじ》は有名だから。」
 金兵衛は笑った。そこへ伊之助も新築した家の方からやって来る。一同の話は宿場の前途に関係の深い今度の参覲交代制度改革のことに落ちて行った。
「助郷《すけごう》にも弱りました。」と言い出すのは金兵衛だ。「宮様御通行の時は特別の場合だ、あれは当分の臨機の処置だなんて言ったって、そうは時勢が許さない。一度|増助郷《ましすけごう》の例を開いたら、もう今までどおりでは助郷が承知しなくなったそうですよ。」
「そういうことが当然起こって来ます。」と吉左衛門が言う。
「現に、」伊之助は二人の話を引き取って、「あの公家衆《くげしゅう》の御通行は四月の八日でしたから、まだこんな改革のお達しの出ない前です。あの時は大湫《おおくて》泊まりで、助郷人足六百人の備えをしろと言うんでしょう。みんな雇い銭でなけりゃ出て来やしません。」
「いくら公家衆でも、六百人の人足を出せはばかばかしい。」と半蔵は言った。
「それもそうだ。」と金兵衛は言葉をつづける。「あの公家衆の御通行には、差し引き、四両二分三朱、村方の損になったというじゃありませんか。」
「とにかく、御通行はもっと簡略にしたい。」とまた半蔵は言った。「いずれこんな改革は道中奉行へ相談のあったことでしょう。街道がどういうことになって行くか、そこまではわたしにも言えませんがね。しかし上から見ても下から見ても、参覲交代のような儀式ばった御通行がそういつまで保存のできるものでもないでしょう。繁文縟礼《はんぶんじょくれい》を省こう、その費用をもっと有益な事に充《あ》てよう、なるべく人民の負担をも軽くしよう――それがこの改革の御趣意じゃありませんかね。」
「金兵衛さん、君はこの改革をどう思います。今まで江戸の方に人質のようになっていた諸大名の奥方や若様が、お国もとへお帰りになると言いますぜ。」
 と吉左衛門が言うと、旧《ふる》い友だちも首をひねって、
「さあ、わたしにはわかりません。――ただ、驚きます。」


 その時になって見ると、江戸から報じて来る文久年度の改革には、ある悲壮な意志の歴然と動きはじめたものがあった。参覲交代のような幕府にとって最も重大な政策が惜しげもなく投げ出されたばかりでなく、大赦は行なわれる、山陵は修復される、京都の方へ返していいような旧《ふる》い慣例はどしどし廃された。幕府から任命していた皇居九門の警衛までも撤去された。およそ幕府の力にできるようなことは、松平春嶽を中心の人物にし山内容堂を相談役とする新内閣の手で行なわれるようになった。
 封建時代にあるものの近代化は、後世を待つまでもなく、すでにその時に始まって来た。松平春嶽、山内容堂、この二人《ふたり》はそれぞれの立場にあり、領地の事情をも異にしていたが、時代の趨勢《すうせい》に着眼して早くから幕政改革の意見を抱《いだ》いたことは似ていた。その就職以前から幕府に対して同情と理解とを持つことにかけても似ていた。水戸の御隠居、肥前《ひぜん》の鍋島閑叟《なべしまかんそう》、薩摩《さつま》の島津久光の諸公と共に、生前の岩瀬肥後から啓発せらるるところの多かったということも似ていた。あの四十に手が届くか届かないかの若さで早くこの世を去った岩瀬肥後ののこした開国の思想が、その人の死後になってまた働き初めたということにも不思議はない。蕃書《ばんしょ》調所は洋書調所(開成所、後の帝国大学の前身)と改称される。江戸の講武所《こうぶしょ》における弓術や犬追物《いぬおうもの》なぞのけいこは廃されて、歩兵、騎兵、砲兵の三兵が設けられる。井伊大老在職の当時に退けられた人材はまたそれぞれの閑却された位置から身を起こしつつある。門閥と兵力とにすぐれた会津《あいづ》藩主松平|容保《かたもり》は、京都守護職の重大な任務を帯びて、新たにその任地へと向かいつつある。
 時には、オランダ留学生派遣のうわさが夢のように半蔵の耳にはいる。二度も火災をこうむった江戸城建築のころは、まだ井伊大老在職の日で、老中水野越前守が造り残した数百万両の金銀の分銅《ふんどう》はその時に費やされたといわれ、公儀の御金庫《おかねぐら》はあれから全く底を払ったと言われる。それほど苦しい身代のやり繰りの中で、今度の新内閣がオランダまで新知識を求めさせにやるというその思い切った方針が、半蔵を驚かした。
 ちょうど、父吉左衛門は家にいて、例の寛《くつろ》ぎの間《ま》にこもって、もはや退役の日のしたくなぞを始めていた。祖父半六は六十六歳まで宿役人を勤め、それから家督を譲って隠居したが、父は六十四歳でそれをするというふうに。半蔵はこの父の様子をちょっとのぞいたあとで、南側の長い廊下を歩いて見た。オランダ留学生のうわさを思いながら、ひとり言って見た。
「黒船はふえるばかりじゃないかしらん。」


 とうとう、半蔵は父の前に呼ばれて、青山の家に伝わった古い書類なぞを引き渡されるような日を迎えた。父の退役はもはや時の問題であったからで。
 本陣問屋庄屋の三役を勤めるに必要な公用の記録から、田畑家屋敷に関する反別《たんべつ》、年貢《ねんぐ》、掟年貢《おきてねんぐ》なぞを記《しる》しつけた帳面の類《たぐい》までが否応《いやおう》なしに半蔵の前に取り出された。吉左衛門は半蔵に言いつけて、古い箱につけてある革《かわ》の紐《ひも》を解かせた。人馬の公用を保証するために、京都の大舎人寮《おおとねりりょう》、江戸の道中奉行所をはじめ、その他全国諸藩から送ってよこしてある大小種々の印鑑がその中から出て来た。宿駅の合印《あいじるし》だ。吉左衛門はまた半蔵に言いつけて、別の箱の紐《ひも》を解かせた。その中には、遠く慶長《けいちょう》享保《きょうほう》年代からの御年貢|皆済目録《かいさいもくろく》があり、代々持ち伝えても破損と散乱との憂いがあるから、後の子孫のために一巻の軸とすると書き添えた先祖の遺筆も出て来た。
「これはお前の方へ渡す。」
 父は半蔵の方で言おうとすることを聞き入れようともしなかった。親の譲るものは、子の受け取るべきもの。そうひとりできめて、いろいろな事務用の帳面や数十通の書付なぞをそこへ取り出した。村方の関係としては、当時の戸籍とも言うべき宗門|人別《にんべつ》から、検地、年貢、送籍、縁組、離縁、訴訟の手続きまでを記しつけたもの。
「これも大切な古帳だ。」
 と吉左衛門は言って、左の手でそれを半蔵の方へ押しやった。木曾山中の御免荷物として、木材通用の跡を記しつけたものだった。森林保護の目的から伐採を禁じられている五木の中でも、毎年二百|駄《だ》ずつの檜《ひのき》、椹《さわら》の類《たぐい》の馬籠村にも許されて来たことが、その中に明記してあった。
「なんだかおれも遠く来たような気がする。」と吉左衛門は言った。「おれの長い道づれはあの金兵衛さんだが、どうやらけんかもせずにここまで来た。まあ、何十年の間、おれはほとんどあの人と言い合ったことがない。ただ二度――そうさ、ただ二度あるナ。一度はお喜佐と
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