るためであった。それよりは従来の方針を一変し、大いに破約攘夷を唱うべきことを藩主に説き勧めるためであった。雄藩|擡頭《たいとう》の時機が到ったことは、長いことその機会を待っていた長州人士を雀躍《こおどり》させたからで。
旅にある藩主はそれほど京都の形勢が激変したとは知らない。まして、そんな旅人が世子《せいし》の内命を帯びて、中津川に自分を待つとは知らない。さきに幕府への建白の結果として、公武間周旋の依頼を幕府から受け、いよいよ正式にその周旋を試みようとして江戸を出発して来たのであった。この大名は、日ごろの競争者で薩摩《さつま》に名高い中将|斎彬《なりあきら》の弟にあたる島津久光《しまづひさみつ》がすでにその勢力を京都の方に扶植し始めたことを知り、さらに勅使|左衛門督《さえもんのかみ》大原|重徳《しげのり》を奉じて東下して来たほどの薩摩人の活躍を想像しながら、その年の六月中旬には諏訪《すわ》にはいった。あだかも痳疹《はしか》流行のころである。一行は諏訪に三日|逗留《とうりゅう》し、同勢四百人ほどをあとに残して置いて、三留野《みどの》泊まりで木曾路を上って来た。馬籠本陣の前まで来ると、そこの門前には諸大名通行のおりの定例のように、すでに用意した札の掲げてあるのを見た。
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松平大膳太夫《まつだいらだいぜんだゆう》様 御休所
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松平大膳太夫とあるは、この大名のことで、長門国《ながとのくに》三十六万九千石の領主を意味する。
その時、半蔵は出て、一行の中の用人に挨拶《あいさつ》した。
「わたしは吉左衛門の忰《せがれ》でございます。父はこの四月から中風《ちゅうふう》にかかりまして、今だに床の上に臥《ね》たり起きたりしております。お昼は申し付けてございますが、何か他に御用もありましたら、わたしが承りましょう。」
「御主人は御病気か。それはおだいじに。ここから中津川まで何里ほどありましょう。」
「三里と申しております。ここの峠からは下りでございますから、そうお骨は折れません。」
この半蔵の言葉を聞くと、用人は本陣の門の内外を警衛する人たちに向かって、
「諸君、中津川まではもう三里だそうですよ。ここで昼食をやってください。」
と呼んだ。
馬籠の宿ではその日より十日ほど前に、彦根藩の幼主が江戸出府を送ったばかりの時であった。十六歳の殿様、家老、用人、その時の同勢はおびただしい人数で、行列も立派ではあったが、もはや先代井伊|掃部頭《かもんのかみ》が彦根の城主としてよくこの木曾路を往来したころのような気勢は揚がらない。そこへ行くと、千段巻《せんだんまき》の柄《え》のついた黒鳥毛《くろとりげ》の鎗《やり》から、永楽通宝《えいらくつうほう》の紋じるしまで、はげしい意気込みでやって来た長州人は彦根の人たちといちじるしい対照を見せる。
その日、半蔵は父の名代として、隣家の伊之助や問屋の九郎兵衛と共に、一行を宿はずれの石屋の坂あたりまで見送り、そこから家に引き返して来て、父の部屋《へや》をのぞきに行った。病床から半ば身を起こしかけている吉左衛門は山の中へ来る六月の暑さにも疲れがちであった。半蔵は一度倒れたこの父が回復期に向かいつつあるというだけにもやや胸をなでおろして、なるべく頭を悩まさせるようなことは父の耳に入れまいとした。京都の方にある景蔵からは、容易ならぬ彼地《かのち》の形勢を半蔵のところへ報じて来た。伏見寺田屋の変をも知らせて来た。王政復古と幕府討伐の策を立てた八人の壮士があの伏見の旅館で斃《たお》れたことをも知らせて来た。公武間の周旋をもって任ずる千余人の薩摩の精兵が藩主に引率されて来た時は、京都の町々はあだかも戒厳令の下にあったことをも知らせて来た。しかし半蔵は何事も父の耳に入れなかった。夕方に、彼は雪隠《せっちん》へ用を達《た》しに行って、南側の廊下を通った。長州藩主がその日の泊まりと聞く中津川の町の方は早く暮れて、遠い夕日の反射が西の空から恵那山の大きな傾斜に映るのを見た。
病後の吉左衛門には、まだ裏の二階へ行って静養するほどの力がない。あの先代半六が隠居所となっていた味噌納屋の二階への梯子段《はしごだん》を昇《のぼ》ったり降りたりするには、足もとがおぼつかなかった。
この父は四月の発病以来、ずっと寛《くつろ》ぎの間《ま》に臥《ね》たり起きたりしている。その部屋は風呂場《ふろば》に近い。家のものが入浴を勧めるには都合がよい。一方は本陣の囲炉裏ばたや勝手に続いている。みんなで看護するにも都合がよい。そのかわり朝に晩に用談なぞを持ち込む人たちが出たりはいったりして、半蔵としてはいつまでも父の寝床をその部屋に敷いて置くことを好まなかった。どうかすると頭を冷やせの、足を温《あたた》めろのという父を見るたびに、半蔵は悲しがった。さびしい病後のつれづれから、父は半蔵に向かっていろいろ耳にしたことの説明を求める。六十四歳の晩年になってこんな思いがけない中風にかかったというふうに。まだ退役願いもきき届けられない馬籠の駅長の身で、そうそう半蔵任せにして置かれないというふうにも。半蔵は京都や江戸にある平田同門の人たちからいろいろな報告を受けて、そのたびに山の中に辛抱してはいられぬような心持ちにもなるが、また思い返しては本陣問屋庄屋の父の代わりを勤めた。
中津川の会議が開かれて、長藩の主従が従来の方針を一変し、吉田松陰以来の航海遠略から破約攘夷へと大きく方向の転換を試み始めたのも、それから藩主の上京となって、公卿《くげ》を訪《おとな》い朝廷の御機嫌《ごきげん》を伺い、すでに勅使を関東に遣《つか》わされているから、薩藩と共に叡慮《えいりょ》の貫徹に尽力せよとの御沙汰《ごさた》を賜わったのも、六月の二十日から七月へかけてのことであった。薩藩と共に輦下《れんか》警衛の任に当たることにかけては、京都の屋敷にある世子《せいし》定広がすでにその朝命を拝していた。薩長二藩のこれらの一大飛躍は他藩の注意をひかずには置かない。ようやく危惧《きぐ》の念を抱き始めたものもある。強い刺激を受けたものもある。こういう中にあって、薩長二藩の京都手入れから最も強い刺激を受けたものは、言うまでもなく幕府側にある人たちであらねばならない。従来幕府は事あるごとに京都に向かって干渉するのを常とした。今度勅使の下向《げこう》を江戸に迎えて見ると、かねて和宮様御降嫁のおりに堅く約束した蛮夷防禦《ばんいぼうぎょ》のことが勅旨の第一にあり、あわせて将軍の上洛《じょうらく》、政治の改革にも及んでいて、幕府としては全く転倒した位置に立たせられた。干渉は実に京都から来た。しかも数百名の薩摩隼人《さつまはやと》を引率する島津久光を背景にして迫って来た。この干渉は幕府にある上のものにも下のものにも強い衝動を与えた。その衝動は、多年の情実と弊害とを払いのけることを教えた。もっと政治は明るくしなければだめだということを教えた。
時代はおそろしい勢いで急転しかけて来た。かつて岩瀬肥後が井伊大老と争って、政治|生涯《しょうがい》を賭《と》してまで擁立しようとした一橋慶喜《ひとつばしよしのぶ》は将軍の後見に、越前《えちぜん》藩主|松平春嶽《まつだいらしゅんがく》は政事総裁の職に就《つ》くようになった。これまで幕府にあってとかくの評判のあった安藤対馬《あんどうつしま》、およびその同伴者なる久世大和《くぜやまと》の二人《ふたり》は退却を余儀なくされた。天朝に対する過去の非礼を陳謝し、協調の誠意を示すという意味で、安藤久世の二人は隠居|急度慎《きっとつつし》みの罰の薄暗いところへ追いやられたばかりでなく、あれほどの大獄を起こして一代を圧倒した井伊大老ですら追罰を免れなかった。およそ安政、万延のころに井伊大老を手本とし、その人の家の子郎党として出世した諸有司の多くは政治の舞台から退却し始めた。あるものは封《ほう》一万石を削られ、あるものは禄《ろく》二千石を削られた。あるものはまた、隠居、蟄居《ちっきょ》、永蟄居《えいちっきょ》、差扣《さしひか》えというふうに。
この周囲の空気の中で、半蔵は諸街道宿駅の上にまであらわれて来るなんらかの改変を待ち受けながら、父が健康の回復を祈っていた。発病後は父も日ごろ好きな酒をぱったりやめ、煙草《たばこ》もへらし、わずかに俳諧《はいかい》や将棋の本なぞをあけて朝夕の心やりとしている。何かこの父を慰めるものはないか、と半蔵は思っているところへ、ちょうど人足四人持ちで、大きな籠《かご》を本陣の門内へかつぎ入れた宰領があった。
宰領は半蔵の前に立って言った。
「旦那《だんな》、これは今度、公儀から越前様へ御拝領になった綿羊《めんよう》というものです。めずらしい獣です。わたしたちはこれを送り届けにまいる途中ですが、しばらくお宅の庭で休ませていただきたい。」
江戸の方からそこへかつがれて来たのは、三|疋《びき》の綿羊だ。こんな木曾山の中へは初めて来たものだ。早速《さっそく》半蔵はお民を呼んで、表玄関の広い板の間に座蒲団《ざぶとん》を敷かせ、そこに父の席をつくった。
「みんな、おいで。」
とおまんも孫たちを呼んだ。
「越前様の御拝領かい。」と言いながら、吉左衛門は奥の方から来てそこへ静かにすわった。「越前様といえば、五月の十一日にこの街道をお通りになったじゃないか。おれは寝ていてお目にもかからなかったが、今度政事総裁職になったのもあのお大名だね。」
ちょっとしたことにも吉左衛門はそれをこの街道に結びつけて、諸大名の動きを読もうとする。
「あなたはそれだから、いけない。」とおまんは言った。「病気する時には病気するがいいなんて自分で言っていながら、そう気をつかうからいけない。まあ、このやさしい羊の目を御覧なさい。」
街道では痲疹《はしか》の神を送ったあとで、あちこちに病人や死亡者を出した流行病の煩《わずら》いから、みんなようやく一息ついたところだ。その年の渋柿《しぶがき》の出来のうわさは出ても、京都と江戸の激しい争いなぞはどこにあるかというほど穏やかな日もさして来ている。宰領の連れて来た三疋の綿羊が籠《かご》の中で顔を寄せ、もぐもぐ鼻の先を動かしているのを見ると、動物の好きなお粂《くめ》や宗太は大騒ぎだ。持病の咳《せき》で引きこもりがちな金兵衛まで上の伏見屋からわざわざ見に出かけて来て、いつのまにか本陣の門前には多勢の人だかりがした。
「金兵衛さん、こういうめずらしい羊が日本に渡って来るようになったかと思うと、世の中も変わるはずですね。わたしは生まれて初めてこんな獣を見ます。」
と吉左衛門は言って、なんとなく秋めいた街道の空を心深げにながめていた。
「半蔵、まあ見てくれよ。おれの足はこういうものだよ。」
と言って、病み衰えた右の足を半蔵の前に出して見せるころは、吉左衛門もめっきり元気づいた。早く食事を済ました夕方のことだ。付近の村々へは秋の祭礼の季節も来ていた。
「お父《とっ》さんが病気してから、もう百四十日の余になりますものね。」
半蔵は試みに、自分の前にさし出された父の足をなでて見た。健脚でこの街道を奔走したころの父の筋肉はどこへ行ったかというようになった。発病の当時、どっと床についたぎり、五十日あまりも安静にしていたあげくの人だ。堅く隆起していたような足の「ふくらっぱぎ」も今は子供のそれのように柔らかい。
「ひどいものじゃないか。」と吉左衛門は自分の足をしまいながら言った。「人が中気《ちゅうき》すると、右か左か、どっちかをやられると聞いてるが、おれは右の方をやられた。そう言えば、おれは耳まで右の方が遠くなったようだぞ。」と笑って、気を変えて、「しかし、きょうはめずらしくよい気持ちだ。おれは金兵衛さんのところへお風呂《ふろ》でももらいに行って来る。」
これほど父の元気づいたことは、ひどく半蔵をよろこばせた。
「お父《とっ》さん、わたしも一緒に行きましょう。」
と彼もたち上がった。
この親子の胸には、江戸の
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