とは、その日まで皇室の平静を保ち得た原因の一つであろうと言うものもある。過去の皇室の衰え方と言えば、諸国に荒廃した山陵を歴訪して勤王の志を起こしたという蒲生君平《がもうくんぺい》や、京都のさびしい御所を拝して哭《な》いたという高山彦九郎《たかやまひこくろう》のような人物のあらわれて来たのでもわかる。応仁《おうにん》乱後の京都は乱前よりも一層さびれ、公家の生活は苦しくなり、すこし大げさかもしれないが三条の大橋から御所の燈火《あかり》が見えた時代もあったと言わるるほどである。これほどの皇室が、また回復の機運に向かって来たことは、半蔵にとって、実に意味深きことであった。
 時代は混沌《こんとん》として来た。彦根《ひこね》と水戸とが互いに傷ついてからは、薩州のような雄藩《ゆうはん》の擡頭《たいとう》となった。関ヶ原の敗戦以来、隠忍に隠忍を続けて来た長州藩がこの形勢を黙ってみているはずもない。しかしそれらの雄藩でも、京都にある帝《みかど》を中心に仰ぎ奉ることなしに、人の心を収めることはできない。天朝の威をも畏《おそ》れず、各藩の意見のためにも動かされず、断然として外国に通商を許したというあの井伊大老ですら、幕府の一存を楯《たて》にして単独な行動に出ることはできなかった。後には上奏の手続きを執った。井伊大老ですらそのとおりだ。薩長二藩の有志らはいずれも争って京都に入り、あるいは藩主の密書を致《いた》したり、あるいは御剣《ぎょけん》を奉献したりした。
 一庄屋の子としての半蔵から見ると、これは理由のないことでもない。水戸の『大日本史』に、尾張の『類聚日本紀《るいじゅうにほんぎ》』に、あるいは頼《らい》氏の『日本外史』に、大義名分を正そうとした人たちのまいた種が深くもこの国の人々の心にきざして来たのだ。南朝の回想、芳野《よしの》の懐古、楠《くすのき》氏の崇拝――いずれも人の心の向かうところを語っていないものはなかった。そういう中にあって、本居宣長のような先覚者をはじめ、平田一門の国学者が中世の否定から出発して、だんだん帝を求め奉るようになって行ったのは、臣子の情として強い綜合《そうごう》の結果であったが……
 年も文久二年と改まるころには、半蔵はすでに新築のできた本陣の家の方に引き移っていた。吉左衛門やおまんは味噌納屋《みそなや》の二階から、お民はわびしい土蔵の仮住居《かりずまい》から、いずれも新しい木の香のする建物の方に移って来た。馬籠の火災後しばらく落合の家の方に帰っていた半蔵が弟子《でし》の勝重《かつしげ》なぞも、またやって来る。新築の家は、本陣らしい門構えから、部屋《へや》部屋の間取りまで、火災以前の建て方によったもので、会所を家の一部に取り込んだところまで似ている。表庭のすみに焼け残った一株の老松もとうとう枯れてしまったが、その跡に向いて建てられた店座敷が東南の日を受けるところまで似ている。
 美濃境にある恵那山《えなさん》を最高の峰として御坂越《みさかごえ》の方に続く幾つかの山嶽《さんがく》は、この新築した家の南側の廊下から望まれる。半蔵が子供の時分から好きなのも、この山々だ。さかんな雪崩《なだれ》の音はその廊下の位置からきかれないまでも、高い山壁から谷まで白く降り埋《うず》める山々の雪を望むことはできる。ある日も、半蔵は恵那山の上の空に、美しい冬の朝の雲を見つけて、夜ごとの没落からまた朝紅の輝きにと変わって行くようなあの太陽に比較すべきものを想像した。ただ御一人の帝、その上を措《お》いて時代を貫く朝日の御勢にたとうべきものは他に見当たらなかった。


 正月早々から半蔵は父の名代として福島の役所へ呼ばれ、木曾十一宿にある他の庄屋問屋と同じように金百両の分配を受けて来た。このお下《さ》げ金《きん》は各宿救助の意味のものだ。
 ちょうど家では二十日正月《はつかしょうがつ》を兼ねて、暮れに生まれた男の子のために小豆粥《あずきがゆ》なぞを祝っていた。お粂《くめ》、宗太、それから今度生まれた子には正己《まさみ》という名がついて、吉左衛門夫婦ももはや三人の孫のおじいさん、おばあさんである。お民はまだ産後の床についていたが、そこへ半蔵が福島から引き取って来た。和宮様《かずのみやさま》の御通行前に、伊那助郷総代へ約束した手当ての金子《きんす》も、追って尾州藩から下付せらるるはずであることなぞを父に告げた。
「助郷のことは、これからが問題だぞ。今までのような御奉公じゃ百姓が承知しまい。」
 と吉左衛門は炬燵《こたつ》の上に手を置きながら、半蔵に言って見せた。
 その日半蔵はお下げ金のことで金兵衛の知恵を借りて、御通行の日から残った諸払いをした。やがてそのあと始末もできたころに、人の口から口へと伝わって来る江戸の方のうわさが坂下門の変事を伝えた。
 決死の壮士六人、あの江戸城の外のお濠《ほり》ばたの柳の樹《き》のかげに隠れていたのは正月十五日とあるから、山家のことで言えば左義長《さぎちょう》の済むころであるが、それらの壮士が老中安藤対馬の登城を待ち受けて、まず銃で乗り物を狙撃《そげき》した。それが当たらなかったので、一人の壮士が馳《は》せ寄って、刀を抜いて駕籠《かご》を横から突き刺した。安藤対馬は運強く、重傷を被りながらも坂下門内に駆け入って、わずかに身をもって難をまぬかれた。この要撃の光景をまるで見て来たように言い伝えるものがある。
「またか。」
 という吉左衛門にも、思わず父と顔を見合わせる半蔵の胸にも、桜田事変当時のことが来た。
 刺客はいずれも斬奸《ざんかん》趣意書なるものを懐《ふところ》にしていたという。これは幕府の手で秘密に葬られようとしたが、六人のほかに長州屋敷へ飛び込んで自刃《じじん》した壮士の懐から出て来たもので明らかにされ、それからそれへと伝えられるようになった。それには申年《さるどし》の三月に赤心報国の輩《ともがら》が井伊大老を殺害に及んだことは毛頭《もうとう》も幕府に対し異心をはさんだのではないということから書き初めて、彼らの態度を明らかにしてあったという。彼らから見れば、井伊大老は夷狄《いてき》を恐怖する心から慷慨《こうがい》忠直の義士を憎み、おのれの威力を示そうがために奸謀《かんぼう》をめぐらし、天朝をも侮る神州の罪人である、そういう奸臣を倒したなら自然と幕府においても悔いる心ができて、これからは天朝を尊び夷狄を憎み、国家の安危と人心の向背《こうはい》にも注意せらるるであろうとの一念から、井伊大老を目がけたものはいずれも身命を投げ捨てて殺害に及んだのである、ところがその後になっても幕府には一向に悔心の模様は見えない、ますます暴政のつのるようになって行ったのは、幕府役人一同の罪ではあるが、つまりは老中安藤対馬こそその第一の罪魁《ざいかい》であるという意味のことが書いてあったという。その趣意書には、老中の罪状をもあげて、皇妹和宮様が御結婚のことも、おもてむきは天朝より下し置かれたように取り繕い、公武合体の姿を示しながら、実は奸謀と威力とをもって強奪し奉ったも同様である、これは畢竟《ひっきょう》皇妹を人質にして外国交易の勅諚《ちょくじょう》を強請する手段であり、もしそれもかなわなかったら帝の御譲位をすら謀《はか》ろうとする心底であって、実に徳川将軍を不義に引き入れ、万世の後までも悪逆の名を流させようとする行為である、北条《ほうじょう》足利《あしかが》にもまさる逆謀というのほかはない、これには切歯《せっし》痛憤、言うべき言葉もないという意味のことが書いてあったという。その中にはまた、外夷《がいい》取り扱いのことをあげて、安藤老中は何事も彼らの言うところに従い、日本沿海の測量を許し、この国の形勢を彼らへ教え、江戸第一の要地ともいうべき品川御殿山を残らず彼らに貸し渡し、あまつさえ外夷の応接には骨肉も同様な親切を見せながら、自国にある忠義憂憤の者はかえって仇敵《きゅうてき》のように忌みきらい、国賊というにも余りあるというような意味のことが書いてあったという。
 しかし決死の壮士が書きのこしたものは、ただそれだけの意味にとどまらなかった。その中には「明日」への不安が、いろいろと書きこめてあったともいう。もし今日のままで弊政を改革することもなかったら、天下の大小名はおのおの幕府を見放して、自己の国のみを固めるようになって行くであろう、外夷の取り扱いにさえ手に余るおりから、これはどう処置するつもりであろうという意味のことも書いてあり、万一|攘夷《じょうい》を名として旗を挙《あ》げるような大名が出て来たら、それこそ実に危急の時である、幕府では皇国の風俗というものを忘れてはならぬ、君臣上下の大義をわきまえねばならぬ、かりそめにも天朝の叡意《えいい》にそむくようなところが見えたら、忠臣義士の輩《ともがら》は一人も幕府のために身命をなげうつものはあるまいという意味のことも書きのこしてあったという。
 これらの刺客の多くが水戸人であることもわかって来た。いずれも三十歳前後の男ざかりで、中には十九歳の青年がこの要撃に加わっていたこともわかって来た。安藤対馬の災難は不思議にもその傷が軽くて済んだが、多くの人の同情は生命拾《いのちびろ》いをした老中よりも、現場に斃《たお》れた青年たちの上に集まる。しかし、その人の傷ついたあとになって見ると、一方には世間の誤解や無根の流言がこの悲劇を生む因《もと》であったと言って、こんなに思い詰めた壮士らの暴挙を惜しむと言い出したものもあった。安藤対馬その人を失ったら、あれほど外交の事に当たりうるものは他に見いだせない、アメリカのハリスにせよ、イギリスのアールコックにせよ、彼らに接して滞ることなく、屈することもなく、外国公使らの専横を挫《くじ》いて、凜然《りんぜん》とした態度を持ち続けたことにかけては、老中の右に出るものはなかったと言い出したものもあった。
 幕府はすでに憚《はばか》るべき人と、憚るべき実《じつ》とがない。井伊大老は斃《たお》れ、岩瀬肥後は喀血《かっけつ》して死し、安藤老中までも傷ついた。四方の侮りが競うように起こって来て、儒者は経典の立場から、武士剣客は士道の立場から、その他医者、神職、和学者、僧侶《そうりょ》なぞの思い思いに勝手な説を立てるものがあっても、幕府ではそれを制することもできないようになって来た。この中で、露国《ろこく》の船将が対馬尾崎浦《つしまおざきうら》に上陸し駐屯《ちゅうとん》しているとの報知《しらせ》すら伝わった。港は鎖《とざ》せ、ヨーロッパ人は打ち攘《はら》え、その排外の風がいたるところを吹きまくるばかりであった。

       四

 一人《ひとり》の旅人が京都の方面から美濃の中津川まで急いで来た。
 この旅人は、近くまで江戸桜田邸にある長州の学塾|有備館《ゆうびかん》の用掛《ようがか》りをしていた男ざかりの侍である。かねて長州と水戸との提携を実現したいと思い立ち、幕府の嫌疑《けんぎ》を避くるため品川沖合いの位置を選び、長州の軍艦|丙辰丸《へいしんまる》の艦長と共に水戸の有志と会見した閲歴を持つ人である。坂下門外の事変にも多少の関係があって、水戸の有志から安藤老中要撃の相談を持ちかけられたこともあったが、後にはその暴挙に対して危惧《きぐ》の念を抱《いだ》き、次第に手を引いたという閲歴をも持つ人である。
 中津川の本陣では、半蔵が年上の友人景蔵も留守のころであった。景蔵は平田門人の一人として、京都に出て国事に奔走しているころであったからで。この旅人は恵那山《えなさん》を東に望むことのできるような中津川の町をよろこび、人の注意を避くるにいい位置にある景蔵の留守宅を選んで、江戸|麻布《あざぶ》の長州屋敷から木曾街道経由で上京の途にある藩主(毛利慶親《もうりよしちか》)をそこに待ち受けていた。その目的は、京都の屋敷にある長藩|世子《せいし》(定広)の内命を受けて、京都の形勢の激変したことを藩主に報じ、かねての藩論なる公武合体、航海遠略の到底実行せらるべくもないことを進言す
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