ものはもはや若手の方に多かった。
十月の二十日は宮様が御東下の途に就《つ》かれるという日である。まだ吉左衛門は村へ帰って来ない。半蔵は家のものと一緒に父のことを案じ暮らした。もはや御一行が江州《ごうしゅう》草津《くさつ》まで動いたという二十二日の明け方になって、吉左衛門は夜通し早駕籠《はやかご》を急がせて来た。
京都から名古屋へ回って来たという父が途中の見聞を語るだけでも、半蔵には多くの人の動きを想像するに充分だった。宮様御出発の日には、帝にもお忍びで桂《かつら》の御所を出て、宮様の御旅装を御覧になったという。
「時に、送り荷はどうなった。」
という父の無事な顔をながめて、半蔵は尾州から来る荷物の莫大《ばくだい》なことを告げた。それがすでに十一日もこの街道に続いていることを告げた。木曾の王滝《おうたき》、西野、末川の辺鄙《へんぴ》な村々、向《むか》い郡《ぐん》の附知村《つけちむら》あたりからも人足を繰り上げて、継立ての困難をしのいでいることを告げた。
道路の改築もその翌日から始まった。半蔵が家の表も二尺通り石垣《いしがき》を引っ込め、石垣を取り直せとの見分役《けんぶんやく》からの達しがあった。道路は二間にして、道幅はすべて二間見通しということに改められた。石垣は家ごとに取り崩《くず》された。この混雑のあとには、御通行当日の大釜《おおがま》の用意とか、膳飯《ぜんぱん》の準備とかが続いた。半蔵の家でも普請中で取り込んでいるが、それでも相応なしたくを引き受け、上の伏見屋なぞでは百人前の膳飯を引き受けた。
やがて道中奉行が中津川泊まりで、美濃の方面から下って来た。一切の準備は整ったかと尋ね顔な奉行の視察は、次第に御一行の近づいたことを思わせる。順路の日割によると、二十七日、鵜沼宿《うぬましゅく》御昼食、太田宿お泊まりとある。馬籠へは行列拝見の客が山口村からも飯田《いいだ》方面からも入り込んで来て、いずれも宮様の御一行を待ち受けた。
そこへ先駆だ。二十日に京都を出発して来た先駆の人々は、八日目にはもう落合宿から美濃境の十曲峠《じっきょくとうげ》を越して、馬籠峠の上に着いた。随行する人々の中には、万福寺に足を休めて行くものが百二十人もある。先駆の通行は五つ半時であった。奥筋へ行く千人あまりの尾州の人足がそのあとに続いて、群衆の中を通った。それを見ると、伊那から来ている助郷《すけごう》の中には腕をさすって、ぜひともお輿《こし》をかつぎたいというものが出て来る。大変な御人気だ。半蔵は父と同じように、麻の※[#「ころもへん+上」、第4水準2−88−9]※[#「ころもへん+下」、第4水準2−88−10]《かみしも》をつけ、袴《はかま》の股立《ももだ》ちを取って、親子してその間を奔走した。
「姫君さまのお輿《こし》なら、おれも一肩《ひとかた》入れさせてもらいたいな。」
これも篤志家の一人《ひとり》の声だった。
翌日は中津川お泊まりの日取りである。その日は雨になって、夜中からひどく降り出した。しかしその大雨の中でも、もはや道固めの尾州の家中が続々馬籠へ繰り込んで来るようになったので、吉左衛門も半蔵も全く一晩じゅう眠らなかった。
いよいよ馬籠御通行という日が来た。本陣の仮住居《かりずまい》の方では、おまんが孫のそばに目をさますと、半蔵も父も徹夜でいそがしがって、ほとんど家へは寄りつかない。嫁のお民は、と見ると、この人は肩で息をして、若い母らしい前垂《まえだ》れなぞにもはや重そうなからだを隠そうとしている。
おまんは佐吉を呼んで、孫のお粂《くめ》をおぶわせ、村はずれに宮様をお迎えさせることにした。そこへ来た新宅のお喜佐(おまんの実の娘、半蔵の異母妹)には宗太をつけて、これも家の下女たちと一緒にやることにした。
「粂さま、おいで。」と佐吉はお粂を背中にのせて、その顔をおまんに見せながら、「これで粂さまも、きょうあったことを――ずっと大きくなるまで――覚えていさっせるずらか。」
「なにしろ、六つじゃねえ。」
「覚えてはいさっせまいか。」
「そうばかりでもないよ。」とお喜佐は二人の話を引き取って言った。「この子もこれで、夢のようには覚えているだろうよ。わたしだって、五つの歳《とし》のことをかすかに覚えているもの。」
「ほんとに、きょうはあいにくな雨だこと。」とおまんは言った。「わたしもお迎えしたいは山々だが、お民がこんなじゃ、どうしようもない。わたしたち二人はお留守居しますよ。」
佐吉はお粂を、お喜佐は宗太をまもりながら、御行列拝見の人々が集まる村はずれの石屋の坂あたりまで行った。なにしろ多勢の御通行で、佐吉らは吉左衛門や半蔵の働いている姿をどこにも見いだすことができなかった。それに、御通行筋は公私の領分の差別なく、旅館の前後里程三日路の旅人の通行を禁止するほどの警戒ぶりだ。
九つ半時に、姫君を乗せたお輿《こし》は軍旅のごときいでたちの面々に前後を護《まも》られながら、雨中の街道を通った。いかめしい鉄砲、纏《まとい》、馬簾《ばれん》の陣立ては、ほとんど戦時に異ならなかった。供奉《ぐぶ》の御同勢はいずれも陣笠《じんがさ》、腰弁当で、供男一人ずつ連れながら、そのあとに随《したが》った。中山|大納言《だいなごん》、菊亭《きくてい》中納言、千種少将《ちぐさのしょうしょう》(有文)、岩倉少将(具視《ともみ》)、その他宰相の典侍《てんじ》、命婦能登《みょうぶのと》などが供奉の人々の中にあった。京都の町奉行|関出雲守《せきいずものかみ》がお輿《こし》の先を警護し、お迎えとして江戸から上京した若年寄《わかどしより》加納遠江守《かのうとおとうみのかみ》、それに老女らもお供をした。これらの御行列が動いて行った時は、馬籠の宿場も暗くなるほどで、その日の夜に入るまで駅路に人の動きの絶えることもなかった。
「いや、御苦労、御苦労。」
御通行の翌日、吉左衛門は三留野《みどの》のお継ぎ所の方へ行く尾州の竹腰山城守を見送ったあとで、いろいろあと始末をするため会所のなかにある宿役人の詰め所にいた。吉左衛門はそこにいる人たちをねぎらうばかりでなく、自分で自分に言うように、
「御苦労、御苦労。」を繰り返した。
連日の過労に加えて、その日も朝から雨だ。一同は疲れて、一人として行儀よくしているものもない。そこには金兵衛もいて、長い街道の世話を思い出したように、
「吉左衛門さんは御存じだが、わたしたちが覚えてから大きな御通行というものは、この街道に三度ありましたよ。一度は水戸《みと》の姫君さまのお輿入《こしい》れの時。一度は尾州の先の殿様が江戸でお亡《な》くなりになって、その御遺骸《ごいがい》がこの街道を通った時。今一度は例の黒船騒ぎで、交易を許すか許さないかの大評定《だいひょうじょう》で、尾州の殿様(徳川|慶勝《よしかつ》)の御出府の時。あの先の殿様の時は、木曾谷中から寄せた七百三十人の人足でも手が足りなくて、伊那の助郷《すけごう》が千人あまりも出ました。諸方から集めた馬の数が二百二十匹さ。」
「金兵衛さんはなかなか覚えがいい。」と畳の上に頬杖《ほおづえ》つきながら言うものがある。
「まあ、お聞きなさい。今の殿様が江戸へ御出府の時は、木曾寄せの人足が七百三十人、伊那の助郷が千七百七十人、この人数を合わせると二千五百人からの人足が出ましたぜ。あの時、馬籠の宿場に集まった馬の数が百八十匹だったと思う。あれほどの御通行でも和宮さまの場合とはとうてい比べものにならない。今度のような大きな御通行は、わたしは古老の話にも聞いたことがない。」
「どうです。金兵衛さん、これこそ前代未聞でしょう。」
と混ぜ返すものがある。金兵衛は首を振って、
「いや、前代未聞どころか、この世初まって以来の大御通行だ。」
聞いているものは皆笑った。
いつのまにか吉左衛門は高いびきだ。彼はその部屋《へや》の片すみに横になって、まるで死んだようになってしまった。
その時になって見ると、美濃路から木曾へかけてのお継ぎ所でほとんど満足なところはなかった。会所という会所は、あるいは損じ、あるいは破れた。これは道中奉行所の役人も、尾州方の役人も、ひとしく目撃したところである。中津川、三留野の両宿にたくさんな死傷者もできた。街道には、途中で行き倒れになった人足の死体も多く発見された。
御通行後の二日目は、和宮様の御一行も福島、藪原《やぶはら》を過ぎ、鳥居峠《とりいとうげ》を越え、奈良井《ならい》宿お小休み、贄川宿《にえがわじゅく》御昼食の日取りである。半蔵と伊之助の二人は連れだって、その日三留野お継ぎ所の方から馬籠へ引き取って来た。伊之助は伊那助郷の担当役、半蔵も父の名代として、いろいろとあと始末をして来た。ちょうど吉左衛門は上の伏見屋に老友金兵衛を訪《たず》ねに行っていて、二人|茶漬《ちゃづ》けを食いながら、話し込んでいるところだった。そこへ半蔵と伊之助とが帰って来た。
その時だ。伊之助は声を潜めながら、木曾の下四宿から京都方の役人への祝儀として、先方の求めにより二百二十両の金を差し出したことを語った。祝儀金とは名ばかり、これはいかにも無念千万のことであると言って、お継ぎ所に来ていた福島方の役人衆までが口唇《くちびる》をかんだことを語った。伊那助郷の交渉をはじめ、越後《えちご》、越中《えっちゅう》の人足の世話から、御一行を迎えるまでの各宿の人々の心労と尽力とを見る目があったら、いかに強欲《ごうよく》な京都方の役人でもこんな暗い手は出せなかったはずであると語った。
「御通行のどさくさに紛れて、祝儀金を巻き揚げて行くとは――実に、言語《ごんご》に絶したやり方だ。」
と言って、金兵衛は吉左衛門と顔を見合わせた。
若者への関心にかけては、金兵衛とても吉左衛門に劣らなかった。黒船来訪以来はおろか、それ以前からたといいかに封建社会の堕落と不正とを痛感するような時でも、それを若者の目や耳からは隠そう隠そうとして来たのも、この二人の村の長老だ。庄屋|風情《ふぜい》、もしくは年寄役風情として、この親たちが日ごろの願いとして来たことは、徳川世襲の伝統を重んじ、どこまでも権威を権威とし、それを子の前にも神聖なものとして、この世をあるがままに譲って行きたかったのである。伊之助が語って見せたところによると、こうした役人の腐敗|沙汰《ざた》にかけては、京都方も江戸方もすこしも異なるところのないことを示していた。二人の親たちはもはや隠そうとして隠し切れなかった。
六日目になると、宮様御一行は和田宿の近くまで行ったころで、お道固めとして本山までお見送りをした尾州の家中衆も、思い思いに引き返して来るようになった。奥筋までお供をした人足たちの中にも、ぼつぼつ帰路につくものがある。七日目には、もはやこの街道に初雪を見た。
人|一人《ひとり》動いたあとは不思議なもので、御年も若く繊弱《かよわ》い宮様のような女性でありながらも、ことに宮中の奥深く育てられた金枝玉葉《きんしぎょくよう》の御身で、上方《かみがた》とは全く風俗を異にし習慣を異にする関東の武家へ御降嫁されたあとには、多くの人心を動かすものが残った。遠く江戸城の方には、御母として仕うべき天璋院《てんしょういん》も待っていた。十一月十五日には宮様はすでに江戸に到着されたはずである。あの薩摩《さつま》生まれの剛気で男まさりな天璋院にもすでに御対面せられたはずである。これはまれに見る御運命の激しさだとして、憐《あわれ》みまいらせるものがある。その犠牲的な御心の女らしさを感ずるものもある。二十五日の木曾街道の御長旅は、徳川家のために計る老中|安藤対馬《あんどうつしま》らの政略を助けたというよりも、むしろ皇室をあらわす方に役立った。
長いこと武家に圧せられて来た皇室が衰微のうちにも絶えることなく、また回復の機運に向かって来た。この島国の位置が位置で、たとい内には戦乱争闘の憂いの多い時代があったにもせよ、外に向かって事を構える場合の割合に少なかった東洋の端に存在したこ
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