。そこへ行くと寿平次さんの方は、おれの内部《なか》にいろいろなものを見つけてくれる。おれはお前の兄さんの顔を見ていると、何か言って見たくなるよ。」
「あなたは兄さんがきらいですか。」
「どうしてお前はそんなことを言うんだい。寿平次さんとおれとは、同じように古い青山の家に生まれて来た人間さ。立場は違うかもしれないが、やっぱり兄弟《きょうだい》は兄弟だよ。」
半蔵はお民のからだを心配して床につかせ、自分でも休もうとして、いったんは妻子のそばに横になって見た。眠りがたいままに、また起き出して入り口の戸をあけて見ると、東南の方角にあたる暗い空は下の方から黄ばんだ色にすこしずつ明るくなって来て、深夜の感じを与える。
遠い先祖代々の位牌《いはい》、青山家の古い墓地、それらのものを預けてある馬籠の寺のことから、そこに黙って働いている松雲和尚《しょううんおしょう》のことがしきりに半蔵には問題の人になって来た。彼はあの万福寺の新住職として松雲を村はずれの新茶屋に迎えた日のことを思い出した。あれは雨のふる日で、六年の長い月日を行脚《あんぎゃ》の旅に送って来た松雲が笠《かさ》も草鞋《わらじ》もぬれながら、西からあの峠に着いた時であったことを思い出した。あのころは彼もまだ若かったが、すでに平田派の国学にこころざしていて、中世以来学問道徳の権威としてこの国に臨んで来た漢学《からまな》び風《ふう》の因習からも、仏の道で教えるような物の見方からも離れよということを深く心に銘ずるころであったから、新たに迎える住職のことを想像し、その住職の尊信する宗教のことを想像し、その人にも、その人の信仰にも、行く行くは反対を見いだすかもしれないような、ある予感に打たれずにはいられなかったことを思い出した。とうとう、その日がやって来たのだ。もっとも、廃仏を意味する神葬祭の一条は福島の役所からの諮問案で、各村の意見を求める程度にまでしか進んでいなかったが。
いつのまにか暗い空が夏の夜の感じに澄んで来た。青白い静かな光は土蔵の前の冷たい石段の上にまでさし入って来た。ひとり起きている彼の膝《ひざ》の上まで照らすようになった。次第に、月も上った。
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八百千年《やおちとせ》ありこしことも諸人《もろびと》の悪《あ》しとし知らば改めてまし
まがごととみそなはせなば事ごとに直毘《なおび》の御神《みかみ》直したびてな
眼《め》のまへに始むることもよくしあらば[#「よくしあらば」は底本では「よくあらば」]惑ふことなくなすべかりけり
正道《まさみち》に入り立つ徒《とも》よおほかたのほまれそしりはものならなくに
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半蔵の述懐だ。
三
旧暦九月も末になって、馬籠峠へは小鳥の来るころになった。もはや和宮様お迎えの同勢が関東から京都の方へ向けて、毎日のようにこの街道を通る。そうなると、定例の人足だけでは継立《つぎた》ても行き届かない。道中奉行所の小笠原美濃守《おがさわらみののかみ》は公役としてすでに宿々の見分に来た。
十月にはいってからは、御通行準備のために奔走する人たちが一層半蔵の目につくようになった。尾州方《びしゅうかた》の役人は美濃路から急いで来る。上松《あげまつ》の庄屋は中津川へ行く。早駕籠《はやかご》で、夜中に馬籠へ着くものすらある。尾州の領分からは、千人もの人足が隣宿美濃|落合《おちあい》のお継《つ》ぎ所《しょ》(継立ての場所)へ詰めることになって、ひどい吹き降《ぶ》りの中を人馬共にあの峠の下へ着いたとの報知《しらせ》もある。
「半蔵、どうも人足や馬が足りそうもない。おれはこれから中津川へ打ち合わせに行って、それから京都まで出かけて行って来るよ。」
「お父《とっ》さん、大丈夫ですかね。」
親子はこんな言葉をかわした。道中奉行所から渡された御印書によって、越後《えちご》越中《えっちゅう》の方面からも六十六万石の高に相当する人足がこの御通行筋へ加勢に来ることになったが、よく調べて見ると、それでも足りそうもないと言う父の話は半蔵を驚かした。
「美濃の方じゃ、お前、伊勢路《いせじ》からも人足を許されて、もう触れ当てに出かけたものもあるというよ。美濃の鵜沼宿《うぬましゅく》から信州|本山《もとやま》まで、どうしても人足は通しにするよりほかに方法がない。おれは京都まで御奉行様のあとを追って行って、それをお願いして来る。おれも今度は最後の御奉公のつもりだよ。」
この年老いた父の奮発が、半蔵にはひどく案じられてならなかった。そうかと言って、彼が父に代わられる場合でもない。街道には街道で、彼を待っている仕事も多かった。その時、継母のおまんも父のそばに来て、
「あなたも御苦労さまです。ほんとに、万事大騒動になりましたよ。」
と案じ顔に言っていた。
吉左衛門はなかなかの元気だった。六十三歳の老体とは言いながら、いざと言えばそばにいるものがびっくりするような大きな声で、
「オイ、駕籠《かご》だ。」
と人を呼ぶほどの気力を見せた。
宮様お迎え御同勢の通行で、にぎわしい街道の混雑はもはや九日あまりも続いた。伊那《いな》の百姓は自分らの要求がいれられたという顔つきで、二十五人ほどずつ一組になって、すでに馬籠へも働きに入り込んで来た。やかましい増助郷《ましすけごう》の問題のあとだけに朝勤め夕勤めの人たちを街道に迎えることは半蔵にも感じの深いものがあった。どうして、この多数の応援があってさえ、続々関東からやって来る御同勢の継立てに充分だとは言えなかったくらいだ。馬籠峠から先は落合に詰めている尾州の人足が出て、お荷物の持ち運びその他に働くというほどの騒ぎだ。時には、半蔵はこの混雑の中に立って、怪我人《けがにん》を載せた四|挺《ちょう》の駕籠が三留野《みどの》の方から動いて来るのを目撃した。宮様のお泊まりにあてられるという三留野の普請所では、小屋がつぶれて、けがをした尾張の大工たちが帰国するところであるという。その時になると、神葬祭の一条も、何もかも、この街道の空気の中に埋《うず》め去られたようになった。和宮様|御下向《ごげこう》のうわさがあるのみだった。
宮様は親子《ちかこ》内親王という。京都にある帝とは異腹《はらちがい》の御兄妹《ごきょうだい》である。先帝第八の皇女であらせらるるくらいだから、御姉妹も多かった。それがだんだん亡《な》くなられて、御妹としては宮様ばかりになったから、帝の御いつくしみも深かったわけである。宮様は幼いころから有栖川《ありすがわ》家と御婚約の間柄であったが、それが徳川将軍に降嫁せらるるようになったのも、まったく幕府の懇望にもとづく。
もともと公武合体の意見は、当時の老中|安藤対馬《あんどうつしま》なぞのはじめて唱え出したことでもない。天璋院《てんしょういん》といえば、当時すでに未亡人《みぼうじん》であるが、その人を先の将軍の御台所《みだいどころ》として徳川家に送った薩摩《さつま》の島津氏などもつとに公武合体の意見を抱《いだ》いていて、幕府有司の中にも、諸藩の大名の中にもこの説に共鳴するものが多かった。言わば、国事の多端で艱難《かんなん》な時にあらわれて来た協調の精神である。幕府の老中らは宮様の御降嫁をもって協調の実《じつ》を挙《あ》ぐるに最も適当な方法であるとし、京都所司代の手を経《へ》、関白《かんぱく》を通して、それを叡聞《えいぶん》に達したところ、帝にはすでに有栖川《ありすがわ》家と御婚約のある宮様のことを思い、かつはとかく騒がしい江戸の空へ年若な女子を遣《つか》わすのは気づかわれると仰せられて、お許しがなかった。この御結婚には宮様も御不承知であった。ところが京都方にも、公武合体の意見を抱《いだ》いた岩倉具視《いわくらともみ》、久我建通《くがたてみち》、千種有文《ちぐさありぶみ》、富小路敬直《とみのこうじひろなお》なぞの有力な人たちがあって、この人たちが堀河《ほりかわ》の典侍《てんじ》を動かした。堀河の典侍は帝の寵妃《ちょうひ》であるから、この人の奏聞《そうもん》には帝も御耳を傾けられた。宮様には固く辞して応ずる気色《けしき》もなかったが、だんだん御乳の人|絵島《えしま》の言葉を聞いて、ようやく納得せらるるようになった。年若な宮様は健気《けなげ》にも思い直し、自ら進んで激しい婦人の運命に当たろうとせられたのである。
この宮様は婿君《むこぎみ》(十四代将軍、徳川|家茂《いえもち》)への引き出物として、容易ならぬ土産《みやげ》を持参せらるることになった。「蛮夷《ばんい》を防ぐことを堅く約束せよ」との聖旨がそれだ。幕府としては、今日は兵力を動かすべき時機ではないが、今後七、八年ないし十年の後を期し、武備の充実する日を待って、条約を引き戻《もど》すか、征伐するか、いずれかを選んで叡慮《えいりょ》を安んずるであろうという意味のことが、あらかじめ奉答してあった。
しかし、このまれな御結婚には多くの反対者を生じた。それらの人たちによると、幕府に攘夷《じょうい》の意志のあろうとは思われない。その意志がなくて蛮夷の防禦《ぼうぎょ》を誓い、国内人心の一致を説くのは、これ人を欺き自らをも欺くものだというのである。宮様の御降嫁は、公武の結婚というよりも、むしろ幕府が政略のためにする結婚だというのである。幕府が公武合体の態度を示すために、帝に供御《くご》の資を献じ、親王や公卿《くげ》に贈金したことも、かえって反対者の心を刺激した。
「欺瞞《ぎまん》だ。欺瞞だ。」
この声は、どんな形になって、どんなところに飛び出すかもしれなかった。西は大津《おおつ》から東は板橋まで、宮様の前後を警衛するもの十二藩、道中筋の道固めをするもの二十九藩――こんな大げさな警衛の網が張られることになった。美濃の鵜飼《うがい》から信州|本山《もとやま》までの間は尾州藩、本山から下諏訪《しもすわ》までの間は松平丹波守《まつだいらたんばのかみ》、下諏訪から和田までの間は諏訪|因幡守《いなばのかみ》の道固めというふうに。
十月の十日ごろには、尾州の竹腰山城守《たけごしやましろのかみ》が江戸表から出発して来て、本山宿の方面から順に木曾路の道橋を見分し、御旅館やお小休み所にあてらるべき各本陣を見分した。ちょうど馬籠では、吉左衛門も京都の方へ出かけた留守の時で、半蔵が父に代わってこの一行を迎えた。半蔵は年寄役金兵衛の付き添いで、問屋九太夫の家に一行を案内した。峠へはもう十月らしい小雨が来る。私事ながら半蔵は九太夫と言い争った会所の晩のことを思い出し、父が名代の勤めもつらいことを知った。
「伊之助さん、お継立ての御用米が尾州から四十八俵届きました。これは君のお父《とっ》さん(金兵衛)に預かっていただきたい。」
半蔵が隣家の伊之助と共に街道に出て奔走するころには、かねて待ち受けていた御用の送り荷が順に到着するようになった。この送り荷は尾州藩の扱いで、奥筋のお泊まり宿へ送りつけるもの、その他|諸色《しょしき》がたくさんな数に上った。日によっては三留野《みどの》泊まりの人足九百人、ほかに妻籠《つまご》泊まりの人足八百人が、これらの荷物について西からやって来た。
「寿平次さんも、妻籠の方で目を回しているだろうなあ。」
それを思う半蔵は、一方に美濃中津川の方で働いている友人の香蔵を思い、この際京都から帰って来ている景蔵を思い、その話をよく伊之助にした。馬籠では峠村の女馬まで狩り出して、毎日のようにやって来る送り荷の継立てをした。峠村の利三郎は牛行司《うしぎょうじ》ではあるが、こういう時の周旋にはなくてならない人だった。世話好きな金兵衛はもとより、問屋の九太夫、年寄役の儀助、同役の新七、同じく与次衛門《よじえもん》、それらの長老たちから、百姓総代の組頭《くみがしら》庄兵衛《しょうべえ》まで、ほとんど村じゅう総がかりで事に当たった。その時になって見ると、金兵衛の養子伊之助といい、九太夫の子息《むすこ》九郎兵衛といい、庄兵衛の子息庄助といい、実際に働ける
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