来たがね。結局、東海道あたりと同じように、定助郷《じょうすけごう》にでもするんだが、こいつがまた容易じゃあるまいて。」と吉左衛門が言って見せる。
「いったい、」と寿平次もその話を引き取って、「二百人の、四百人のッて、そう多勢の人足を通行のたびに出せと言うのが無理ですよ。」
「ですから、諸大名や公役の通行をもっと簡略にするんですね。」と半蔵が言葉をはさんだ。
「だんだんこういう時世になって来た。」と吉左衛門は感じ深そうに言った。「おれの思うには、参覲交代《さんきんこうたい》ということも今にどうかなるだろうよ。こう御通行が頻繁《ひんぱん》にあるようになっちゃ、第一そうは諸藩の財政が許すまい。」
 しかし、その結果は。六十三年の年功を積んだ庄屋吉左衛門にも、それから先のことはなんとも言えなかった。その時、吉左衛門は普請場の仕事にすこし疲れが出たというふうで、
「まあ、寿平次さん、調印もしましょうし、お話も聞きましょうに、裏の二階へ来てください。おまんにもあってやってください。」と言って誘った。
 隠れたところに働く家族のさまが、この普請場の奥にひらけていた。味噌納屋《みそなや》の前には襷《たすき》がけ手ぬぐいかぶりで、下女たちを相手に、見た目もすずしそうな新茄子《しんなす》を漬《つ》けるおまんがいる。そのそばには二番目の宗太を抱いてやるお民がいる。おまんが漬け物|桶《おけ》の板の上で、茄子の蔕《へた》を切って与えると、孫のお粂は早速《さっそく》それを両足の親指のところにはさんで、茄子の蔕《へた》を馬にして歩き戯れる。裏の木小屋の方からは、梅の実の色づいたのをもいで来て、それをお粂や宗太に分けてくれる佐吉もいる。


「お父《とっ》さん、あなたの退役願いはまだおきき届けにならないそうですね。」
「そうさ。退役きき届けがたしさ。」
 寿平次は吉左衛門のことを「お父《とっ》さん」と呼んでいる。その日の夕飯後のことで、一緒に食事した半蔵はちょっと会所の方へ行って来ると言って、父のそばにいなかった時だ。
「寿平次さん、」と吉左衛門は笑いながら言った。「吾家《うち》へはその事でわざわざ公役が見えましてね、金兵衛さんと私を前に置いて、いろいろお話がありました。二人《ふたり》とも、せめてもう二、三年は勤めて、役を精出《せいだ》せ、そう言われて、願書をお下げになりました。金兵衛さんなぞは、ありがたく畏《おそ》れ奉って、引き下がって来たなんて、あとでその話が出ましたっけ。」
 そこは味噌納屋の二階だ。大火以来、吉左衛門夫婦が孫を連れて仮住居《かりずまい》しているところだ。寿平次はその遠慮から、夕飯の馳走《ちそう》になった礼を述べ、同じ焼け出された仲間でも上の伏見屋というもののある金兵衛の仮宅の方へ行って泊めてもらおうとした。
「どうもまだわたしも、お年貢《ねんぐ》の納め時《どき》が来ないと見えますよ。」
 と言いながら、吉左衛門は梯子段《はしごだん》の下まで寿平次を送りに降りた。夕方の空に光を放つ星のすがたを見つけて、それを何かの暗示に結びつけるように、寿平次にさして見せた。
「箒星《ほうきぼし》ですよ。午年《うまどし》に北の方へ出たのも、あのとおりでしたよ。どうも年回りがよくないと見える。」
 この吉左衛門の言葉を聞き捨てて、寿平次は味噌納屋の前から同じ屋敷つづきの暗い石段を上った。月はまだ出なかったが、星があって涼しい。例の新築された会所のそばを通り過ぎようとすると、表には板庇《いたびさし》があって、入り口の障子《しょうじ》も明いている。寿平次は足をとめて、思わずハッとした。
「どうも半蔵さんばかりじゃなく、伊之助さんまでが賛成だとは意外だ。」
「でも結果から見て悪いと知ったことは、改めるのが至当ですよ。」
 こんな声が手に取るように聞こえる。宿役人の詰め所には人が集まると見えて、灯《ひ》がもれている。何かがそこで言い争われている。
「そんなことで、先祖以来の祭り事を改めるという理由にはなりませんよ。」
「しかし、人の心を改めるには、どうしてもその源《みなもと》から改めてかからんことにはだめだと思いますね。」
「それは理屈だ。」
「そんなら、六十九人もの破戒僧が珠数《じゅず》つなぎにされて、江戸の吉原《よしわら》や、深川《ふかがわ》や、品川|新宿《しんじゅく》のようなところへ出入《ではい》りするというかどで、あの日本橋で面《かお》を晒《さら》された上に、一か寺の住職は島流しになるし、所化《しょけ》の坊主は寺法によって罰せられたというのは。」
 神葬祭の一条に関する賛否の意見がそこに戦わされているのだ。賛成者は半蔵や伊之助のような若手で、不賛成を唱えるのは馬籠の問屋九太夫らしい。
「お寺とさえ言えば、むやみとありがたいところのように思って、昔からたくさんな土地を寄付したり、先祖の位牌《いはい》を任せたり、宗門帳まで預けたりして、その結果はすこしも措《お》いて問わないんです。」とは半蔵の声だ。
「これは聞きものだ。」九太夫の声で。
 半蔵の意見にも相応の理由はある。彼に言わせると、あの聖徳太子が仏教をさかんに弘《ひろ》めたもうてからは、代々の帝《みかど》がみな法師を尊信し、大寺《だいじ》大伽藍《だいがらん》を建てさせ、天下の財用を尽くして御信心が篤《あつ》かったが、しかし法師の方でその本分を尽くしてこれほどの国家の厚意に報いたとは見えない。あまつさえ、後には山法師などという手合いが日吉《ひえ》七社の神輿《みこし》をかつぎ出して京都の市中を騒がし、あるいは大寺と大寺とが戦争して人を殺したり火を放ったりしたことは数え切れないほどある。平安期以来の皇族|公卿《くげ》たちは多く仏門に帰依《きえ》せられ、出世間《しゅつせけん》の道を願われ、ただただこの世を悲しまれるばかりであったから、救いのない人の心は次第に皇室を離れて、ことごとく武士の威力の前に屈服するようになった。今はこの国に仏寺も多く、御朱印《ごしゅいん》といい諸大名の寄付といって、寺領となっている土地も広大なものだ。そこに住む出家、比丘尼《びくに》、だいこく、所化《しょけ》、男色の美少年、その他|青侍《あおざむらい》にいたるまで、田畑を耕すこともなくて上白《じょうはく》の飯を食い、糸を採り機《はた》を織ることもなくてよい衣裳《いしょう》を着る。諸国の百姓がどんなに困窮しても、寺納を減らして貧民を救おうと思う和尚《おしょう》はない。凶年なぞには別して多く米銭を集めて寺を富まそうとする。百姓に餓死するものはあっても、餓死した僧のあったと聞いたためしはない。長い習慣はおそろしいもので、全国を通じたら何百万からのそれらの人たちが寺院に遊食していても、あたりまえのことのように思われて来た。これはあまりに多くを許し過ぎた結果である。そこで、祭葬のことを寺院から取り戻《もど》して、古式に復したら、もっとみんなの目もさめようと言うのである。
「今日《こんにち》ほど宗教の濁ってしまった時代もめずらしい。」とまた半蔵の声で、「まあ、諸国の神宮寺《じんぐうじ》なぞをのぞいてごらんなさい。本地垂跡《ほんじすいじゃく》なぞということが唱えられてから、この国の神は大日如来《だいにちにょらい》や阿弥陀如来《あみだにょらい》の化身《けしん》だとされていますよ。神仏はこんなに混淆《こんこう》されてしまった。」
「あなたがたはまだ若いな。」と九太夫の声が言う。「そりゃ権現《ごんげん》さまもあり、妙見《みょうけん》さまもあり、金毘羅《こんぴら》さまもある。神さまだか、仏さまだかわからないようなところは、いくらだってある。あらたかでありさえすれば、それでいいじゃありませんか。」
「ところが、わたしどもはそうは思わないんです。これが末世《まっせ》の証拠だと思うんです。金胎《こんたい》両部なぞの教えになると、実際ひどい。仏の力にすがることによって、はじめてこの国の神も救われると説くじゃありませんか。あれは実に神の冒涜《ぼうとく》というものです。どうしてみんなは、こう平気でいられるのか。話はすこし違いますが、嘉永六年に異国の船が初めて押し寄せて来た時は、わたしの二十三の歳《とし》でした。しかしあれを初めての黒船と思ったのは間違いでした。考えて見ると遠い昔から何艘《なんそう》の黒船がこの国に着いたかしれない。まあ、わたしどもに言わせると、伝教《でんぎょう》でも、空海《くうかい》でも――みんな、黒船ですよ。」
「どうも本陣の跡継ぎともあろうものが、こういう議論をする。そんなら、わたしは上の伏見屋へ行って聞いて見る。金兵衛さんはわたしの味方だ。お寺の世話をよくして来たのも、あの人だ。よろしいか、これだけのことは忘れないでくださいよ――馬籠の万福寺は、あなたの家の御先祖の青山道斎が建立したものですよ。」
 この九太夫は、平素自分から、「馬籠の九太夫、贄川《にえがわ》の権太夫《ごんだゆう》」と言って、太夫を名のるものは木曾十一宿に二人しかないというほどの太夫自慢だ。それに本来なら、吉左衛門の家が今度の和宮様のお小休み所にあてられるところだが、それが普請中とあって、問屋分担の九太夫の家に振り向けられたというだけでも鼻息が荒い。
 思わず寿平次は半蔵の声を聞いて、神葬祭の一条が平田|篤胤《あつたね》没後の諸門人から出た改革意見であることを知った。彼は会所の周囲を往《い》ったり来たりして、そこを立ち去りかねていた。


 その晩、お民は裏の土蔵の方で、夫の帰りを待っていた。山家にはめずらしく蒸し暑い晩で、両親が寝泊まりする味噌納屋の二階の方でもまだ雨戸が明いていた。
「あなた、大変おそかったじゃありませんか。」
 と言いながら、お民は会所の方からぶらりと戻《もど》って来た夫《おっと》を土蔵の入り口のところに迎えた。火災後の仮住居《かりずまい》で、二人ある子供のうち姉のお粂は納屋の二階の方へ寝に行き、弟の宗太だけがそこによく眠っている。子供の枕《まくら》もとには昔風な行燈《あんどん》なぞも置いてある。お民は用意して待っていた山家風なネブ茶に湯をついだ。それを夫にすすめた。
 その時、半蔵は子供の寝顔をちょっとのぞきに行ったあとで、熱いネブ茶に咽喉《のど》をうるおしながら言った。「なに、神葬祭のことで、すこしばかり九太夫さんとやり合った。壁をたたくものは手が痛いぐらいはおれも承知してるが、あんまり九太夫さんがわからないから。あの人は大変な立腹で、福島へ出張して申し開きをするなんて、そう言って、金兵衛さんのところへ出かけて行ったよ。でも、伊之助さんがそばにいて、おれの加勢をしてくれたのは、ありがたかった。あの人は頼もしいぞ。」
 一年のうちの最も短い夜はふけやすいころだった。お民の懐妊はまだ目だつほどでもなかったが、それでもからだをだるそうにして、夫より先に宗太のそばへ横になりに行った。妻にも知らせまいとするその晩の半蔵が興奮は容易に去らない。彼は土蔵の入り口に近くいて、石段の前の柿《かき》の木から通って来る夜風を楽しみながらひとり起きていた。そのうちに、お民も眠りがたいかして、寝衣《ねまき》のままでまた夫のそばへ来た。
「お民、お前はもっとからだをだいじにしなくてもいいのかい。」
「妻籠《つまご》でもそんなことを言われて来ましたっけ。」
「そう言えば、妻籠ではどんな話が出たね。」
「馬籠のお父《とっ》さんと半蔵さんとは、よい親子ですって。」
「そうかなあ。」
「兄さんも、わたしも、親には早く別れましたからね。」
「何かい。神葬祭の話は出なかったかい。」
「わたしは何も聞きません。兄さんがこんなことは言っていましたよ――半蔵さんも夢の多い人ですって。」
「へえ、おれは自分じゃ、夢がすくなさ過ぎると思うんだが――夢のない人の生涯《しょうがい》ほど味気《あじき》ないものはない、とおれは思うんだが。」
「ねえ、あなたが中津川の香蔵さんと話すのをそばで聞いていますと、吾家《うち》の兄さんと話すのとは違いますねえ。」
「そりゃ、お前、香蔵さんとおれとは同じだもの
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