の胸には木曾福島の役所から来た回状のことが繰り返されていた。それは和宮様《かずのみやさま》の御通行に関係はないが、当時諸国にやかましくなった神葬祭《しんそうさい》の一条で、役所からその賛否の問い合わせが来たからで。
 しかし、「うん、神葬祭か」では、寿平次も済まされなかった。早い話が、義理ある兄弟《きょうだい》の半蔵は平田門人の一人《ひとり》であり、この神葬祭の一条は平田派の国学者が起こした復古運動の一つであるらしいのだから。
「おれは、てっきり国学者の運動とにらんだ。ほんとに、あのお仲間は何をやり出すかわからん。」
 砂を盛り上げ的を置いた安土《あづち》のところと、十|間《けん》ばかりの距離にある小屋との間を往復しながら、寿平次はひとり考えた。
 同時代に満足しないということにかけては、寿平次とても半蔵に劣らなかった。しかし人間の信仰と風俗習慣とに密接な関係のある葬祭のことを寺院から取り戻《もど》して、それを白紙に改めよとなると、寿平次は腕を組んでしまう。これは水戸の廃仏毀釈《はいぶつきしゃく》に一歩を進めたもので、言わば一種の宗教改革である。古代復帰を夢みる国学者仲間がこれほどの熱情を抱《いだ》いて来たことすら、彼には実に不思議でならなかった。彼はひとり言って見た。
「まあ、神葬祭なぞは疑問だ。復古というようなことが、はたして今の時世に行なわれるものかどうかも疑問だ。どうも平田派のお仲間のする事には、何か矛盾がある。」


 まだ妹のお民が家に逗留《とうりゅう》していたので、寿平次は弓の道具を取りかたづけ、的もはずし、やがてそれをさげながら、自分の妻のお里《さと》や妹のいる方へ行って一緒になろうとした。裏庭から母屋《もや》の方へ引き返して行くと、店座敷のわきの板の間から、機《はた》を織る筬《おさ》の音が聞こえて来ている。
 寿平次の家も妻籠の御城山《おしろやま》のように古い。土地の言い伝えにも毎月三八の日には村市《むらいち》が立ったという昔の時代から続いて来ている青山の家だ。この家にふさわしいものの一つは、今のおばあさん(寿平次|兄妹《きょうだい》の祖母)が嫁に来る前からあったというほど古めかしく錆《さ》び黒ずんだ機《はた》の道具だ。深い窓に住むほど女らしいとされていたころのことで、お里やお民はその機《はた》の置いてあるところに集まって、近づいて来る御通行のおうわさをしたり、十四代将軍(徳川|家茂《いえもち》)の御台所《みだいどころ》として降嫁せらるるという和宮様はどんな美しいかただろうなぞと語り合ったりしているところだった。
 いくらかでも街道の閑《ひま》な時を見て、手仕事を楽しもうとするこの女たちの世界は、寿平次の目にも楽しかった。織り手のお里は機に腰掛けている。お民はそのそばにいて同《おな》い年齢《どし》の嫂《あによめ》がすることを見ている。周囲には、小娘のお粂《くめ》も母親のお民に連れられて馬籠の方から来ていて、手鞠《てまり》の遊びなぞに余念もない。おばあさんはおばあさんで、すこしもじっとしていられないというふうで、あれもこしらえてお民に食わせたい、これも食わせたいと言いながら、何かにつけて孫が里帰りの日を楽しく送らせようとしている。
 その時、お民は兄の方を見て言った。
「兄さんは弓にばかり凝ってるッて、おばあさんがコボしていますよ。」
「おばあさんじゃないんだろう。お前たちがそんなことを言っているんだろう。おれもどうかしていると見えて、きょうの矢は一本も当たらない。そう言えば、半蔵さんは弓でも始めないかなあ。」
「吾夫《うち》じゃ暇さえあれば本を読んだり、お弟子《でし》を教えたりしですよ、男のかたもいろいろですねえ。兄さんは私たちの帯の世話までお焼きなさる方でしょう。吾夫《うち》と来たら、わたしが何を着ていたって、知りゃしません。」
「半蔵さんはそういう人らしい。」
 割合に無口なお里は織りかけた田舎縞《いなかじま》の糸をしらべながら、この兄妹《きょうだい》の話に耳を傾けていた。お民は思い出したように、
「どれ、姉さん、わたしにもすこし織らせて。この機《はた》を見ると、わたしは娘の時分が恋しくてなりませんよ。」
「でも、お民さんはそんなことをしていいんですか。」
 とお里に言われて、お民は思わず顔を紅《あか》らめた。とかく多病で子供のないのをさみしそうにしているお里に比べると、お民の方は肥《ふと》って、若い母親らしい肉づきを見せている。
「兄さんには、おわかりでしょう。」とお民はまた顔を染めながら言った。「わたしもからだの都合で、またしばらく妻籠へは来られないかもしれません。」
「お前たちはいいよ。結婚生活が順調に行ってる証拠だよ。おれのところをごらん、おれが悪いのか、お里が悪いのか、そこはわからないがね、六年にもなってまだ子供がない。おれはお前たちがうらやましい。」
 そこへおばあさんが来た。おばあさんは木曾の山の中にめずらしい横浜|土産《みやげ》を置いて行った人があると言って、それをお民のいるところへ取り出して来て見せた。
「これだよ。これはお洗濯《せんたく》する時に使うものだそうなが、使い方はこれをくれた人にもよくわからない。あんまり美しいものだから横浜の異人屋敷から買って来たと言って、飯田《いいだ》の商人が土産に置いて行ったよ。」
 石鹸《せっけん》という言葉もまだなかったほどの時だ。くれる飯田の商人も、もらう妻籠のおばあさんも、シャボンという名さえ知らなかった。おばあさんが紙の包みをあけて見せたものは、異国の花の形にできていて、薄桃色と白とある。
「御覧、よい香気《におい》だこと。」
 とおばあさんに言われて、お民は目を細くしたが、第一その香気《におい》に驚かされた。
「お粂《くめ》、お前もかいでごらん。」
 お民がその白い方を女の子の鼻の先へ持って行くと、お粂はそれを奪い取るようにして、いきなり自分の口のところへ持って行こうとした。
「これは食べるものじゃないよ。」とお民はあわてて、娘の手を放させた。「まあ、この子は、お菓子と間違えてさ。」
 新しい異国の香気《におい》は、そこにいるだれよりも寿平次の心を誘った。めずらしい花の形、横に浮き出している精巧なローマ文字――それはよく江戸|土産《みやげ》にもらう錦絵《にしきえ》や雪駄《せった》なぞの純日本のものにない美しさだ。実に偶然なことから、寿平次は西洋ぎらいでもなくなった。古銭を蒐集《しゅうしゅう》することの好きな彼は、異国の銀貨を手に入れて、人知れずそれを愛翫《あいがん》するうちに、そんな古銭にまじる銀貨から西洋というものを想像するようになった。しかし彼はその事をだれにも隠している。
「これはどうして使うものだろうねえ。」とおばあさんはまたお民に言って見せた。「なんでも水に溶かすという話を聞いたから、わたしは一つ煮て見ましたよ。これが、お前、ぐるぐる鍋《なべ》の中で回って、そのうちに溶けてしまったよ。棒でかき回して見たら、すっかり泡《あわ》になってさ。なんだかわたしは気味が悪くなって、鍋ぐるみ土の中へ埋めさせましたよ。ひょっとすると、これはお洗濯《せんたく》するものじゃないかもしれないね。」
「でも、わたしは初めてこんなものを見ました。おばあさんに一つ分けていただいて、馬籠の方へも持って行って見せましょう。」
 とお民が言う。
「そいつは、よした方がいい。」
 寿平次は兄らしい調子で妹を押しとどめた。
 文久元年の六月を迎えるころで、さかんな排外熱は全国の人の心を煽《あお》り立てるばかりであった。その年の五月には水戸藩浪士らによって、江戸|高輪東禅寺《たかなわとうぜんじ》にあるイギリス公使館の襲撃さえ行なわれたとの報知《しらせ》もある。その時、水戸側で三人は闘死し、一人《ひとり》は縛に就《つ》き、三人は品川で自刃《じじん》したという。東禅寺の衛兵で死傷するものが十四人もあり、一人の書記と長崎領事とは傷ついたともいう。これほど攘夷《じょうい》の声も険しくなって来ている。どうして飯田の商人がくれた横浜土産の一つでも、うっかり家の外へは持ち出せなかった。


 お民が馬籠をさして帰って行く日には、寿平次も半蔵の父に用事があると言って、妹を送りながら一緒に行くことになった。彼には伊那《いな》助郷《すけごう》の願書の件で、吉左衛門の調印を求める必要があった。野尻《のじり》、三留野《みどの》はすでに調印を終わり、残るところは馬籠の庄屋のみとなったからで。
 ちょうど馬籠の本陣からは、下男の佐吉がお民を迎えに来た。佐吉はお粂《くめ》を背中にのせ、後ろ手に幼いものを守るようにして、足の弱い女の子は自分が引き受けたという顔つきだ。お民もしたくができた。そこで出かけた。
「寿平次さま、横須賀行きを思い出すなし。」
 足掛け四年前の旅は、佐吉にも忘れられなかったのだ。
 寿平次が村のあるところは、大河の流れに近く、静母《しずも》、蘭《あららぎ》の森林地帯に倚《よ》り、木曾の山中でも最も美しい谷の一つである。馬籠の方へ行くにはこの谷の入り口を後ろに見て、街道に沿いながら二里ばかりの峠を上る。めったに家を離れることのないお民が、兄と共に踏んで行くことを楽しみにするも、この山道だ。街道の両側は夏の日の林で、その奥は山また山だ。木曾山一帯を支配する尾張藩《おわりはん》の役人が森林保護の目的で、禁止林の盗伐を監視する白木《しらき》の番所も、妻籠と馬籠の間に隠れている。
 午後の涼しい片影ができるころに、寿平次らは復興最中の馬籠にはいった。どっちを向いても火災後の宿場らしく、新築の工事は行く先に始まりかけている。そこに積み重ねた材木がある。ここに木を挽《ひ》く音が聞こえる。寿平次らは本陣の焼け跡まで行って、そこに働いている吉左衛門と半蔵とを見つけた。小屋掛けをした普請場の木の香の中に。
 半蔵は寿平次に伴われて来た妻子をよろこび迎えた。会所の新築ができ上がったことをも寿平次に告げて、本陣の焼け跡の一隅《いちぐう》に、以前と同じ街道に添うた位置に建てられた瓦葺《かわらぶき》の家をさして見せた。会所ととなえる宿役人の詰め所、それに問屋場《といやば》なぞの新しい建物は、何よりもまずこの宿場になくてならないものだった。
 寿平次は半蔵の前に立って、あたりを見回しながら言った。
「よくそれでもこれだけに工事のしたくができたと思う。」
「みんな一生懸命になりましたからね。ここまでこぎつけたのも、そのおかげだと思いますね。」
 吉左衛門はこの二人《ふたり》の話を引き取って、「三年のうちに二度も大火が来てごらん、たいていの村はまいってしまう。まあ、吾家《うち》でも先月の三日に建前《たてまえ》の手斧始《ちょうなはじ》めをしたが、これで石場搗《いしばづ》きのできるのは二百十日あたりになろう。和宮《かずのみや》さまの御通行までには間に合いそうもない。」
 その時、寿平次が助郷願書の件で調印を求めに来たことを告げると、半蔵は「まあ、そこへ腰掛けるさ。」と言って、自分でも普請場の材木に腰掛ける。お民はそのそばを通り過ぎて、裏の立ち退《の》き場所にいる姑《しゅうとめ》(おまん)の方へと急いだ。
「寿平次さん、君はよいことをしてくれた。助郷のことは隣の伊之助さんからも聞きましたよ。阿爺《おやじ》はもとより賛成です。」と半蔵が言う。
「さあ、これから先、助郷もどうなろう。」と吉左衛門も案じ顔に、「これが大問題だぞ。先月の二十二日、大坂のお目付《めつけ》がお下りという時には、伊那の助郷が二百人出た。例幣使(日光への定例の勅使)の時のことを考えてごらん。あれは四月の六日だ。四百人も人足を出せと言われるのに、伊那からはだれも出て来ない。」
「結局、助郷というものは今のままじゃ無理でしょう。」と半蔵は言う。「宿場さえ繁昌《はんじょう》すればいいなんて、そんなはずのものじゃないでしょう。なんとかして街道付近の百姓が成り立つようにも考えてやらなけりゃうそですね。」
「そりゃ馬籠じゃできるだけその方針でやって
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