には、このきびしい制度のあったことを知らねばならない。これは宿駅常置の御伝馬以外に、人馬を補充し、継立《つぎた》てを応援するために設けられたものであった。この制度がいわゆる助郷《すけごう》だ。徳川政府の方針としては、宿駅付近の郷村にある百姓はみなこれに応ずる義務があるとしてあった。助郷は天下の公役《こうえき》で、進んでそのお触れ当てに応ずべきお定めのものとされていた。この課役を命ずるために、奉行は時に伊那地方を見分した。そして、助郷を勤めうる村々の石高を合計一万三百十一石六斗ほどに見積もり、それを各村に割り当てた。たとえば最も大きな村は千六十四石、最も小さな村は二十四石というふうに。天龍川《てんりゅうがわ》のほとりに住む百姓三十一か村、後には六十五か村のものは、こんなふうにして彼らの鍬《くわ》を捨て、彼らの田園を離れ、伊那から木曾への通路にあたる風越山《かざこしやま》の山道を越して、お触れ当てあるごとにこの労役に参加して来た。
 旅行も困難な時代であるとは言いながら、参覲交代《さんきんこうたい》の諸大名、公用を帯びた御番衆方《おばんしゅうかた》なぞの当時の通行が、いかに大げさのものであったかを忘れてはならない。徴集の命令のあるごとに、助郷を勤める村民は上下二組に分かれ、上組は木曾の野尻《のじり》と三留野《みどの》の両宿へ、下組は妻籠《つまご》と馬籠《まごめ》の両宿へと出、交代に朝勤め夕勤めの義務に服して来た。もし天龍川の出水なぞで川西の村々にさしつかえの生じた時は、総助郷で出動するという堅い取りきめであった。徳川政府がこの伝馬制度を重くみた証拠には、直接にそれを道中奉行所の管理の下に置いたのでもわかる。奉行は各助郷に証人を兼ねるものを出勤させ、また、人馬の公用を保証するためには権威のある印鑑を造って、それを道中宿々にも助郷加宿にも送り、紛らわしいものもあらば押え置いて早速《さっそく》注進せよというほどに苦心した。いかんせん、百姓としては、御通行の多い季節がちょうど農業のいそがしいころにあたる。彼らは従順で、よく忍耐した。中にはそれでも困窮のあまり、山抜け、谷|崩《くず》れ、出水なぞの口実にかこつけて、助郷不参の手段を執るような村々をさえ生じて来た。
 そこへ和宮様の御通行があるという。本来なら、これは東海道経由であるべきところだが、それが模様替えになって、木曾街道の方を選ぶことになった。東海道筋はすこぶる物騒で、志士浪人が途《みち》に御東下を阻止するというような計画があると伝えられるからで。この際、奉行としては道中宿々と助郷加宿とに厳達し、どんな無理をしても人馬を調達させ、供奉《ぐぶ》の面々が西から続々殺到する日に備えねばならない。徳川政府の威信の実際に試《ため》さるるような日が、とうとうやって来た。


 寿平次は妻籠の本陣にいた。彼はその自宅の方で、伊那の助郷六十五か村の意向を探りに行った扇屋得右衛門《おうぎやとくえもん》の帰りを待ち受けていた。ちょうど、半蔵が妻のお民も、半年ぶりで実家のおばあさんを見るために、馬籠から着いた時だ。彼女はたまの里帰りという顔つきで、母屋《もや》の台所口から広い裏庭づたいに兄のいるところへもちょっと挨拶《あいさつ》に来た。
「来たね。」
 寿平次の挨拶は簡単だ。
 そこは裏山につづいた田舎風《いなかふう》な庭の一隅《いちぐう》だ。寿平次は十間ばかりの矢場をそこに設け、粗末ながらに小屋を造りつけて、多忙な中に閑《ひま》を見つけては弓術に余念もない。庄屋《しょうや》らしい袴《はかま》をつけ、片肌《かたはだ》ぬぎになって、右の手に※[#「革+喋のつくり」、第4水準2−92−7]《ゆがけ》の革《かわ》の紐《ひも》を巻きつけた兄をそんなところに見つけるのも、お民としてはめずらしいことだった。
 お民は持ち前の快活さで、
「兄さんも、のんきですね。弓なぞを始めたんですか。」
「いくらいそがしいたって、お前、弓ぐらいひかずにいられるかい。」
 寿平次は妹の見ている前で、一本の矢を弦《つる》に当てがった。おりから雨があがったあとの日をうけて、八寸ばかりの的《まと》は安土《あづち》の方に白く光って見える。
「半蔵さんも元気かい。」
 と妹に話しかけながら、彼は的に向かってねらいを定めた。その時、弦を離れた矢は的をはずれたので、彼はもう一本の方を試みたが、二本とも安土《あづち》の砂の中へ行ってめり込んだ。
 この寿平次は安土の方へ一手の矢を抜きに行って、また妹のいるところまで引き返して来る時に言った。
「お民、馬籠のお父《とっ》さん(吉左衛門)や、伏見屋の金兵衛さんの退役願いはどうなったい。」
「あの話は兄さん、おきき届けになりませんよ。」
「ほう。退役きき届けがたしか。いや、そういうこともあろう。」
 多事な街道のことも思い合わされて、寿平次はうなずいた。
「お民、お前も骨休めだ。まあ二、三日、妻籠で寝て行くさ。」
「兄さんの言うこと。」
 兄妹《きょうだい》がこんな話をしているところへ、つかつかと庭を回って伊那から帰ったばかりの顔を見せたのは、日ごろ勝手を知った得右衛門である。伊那でも有力な助郷総代を島田村や山村に訪《たず》ねるのに、得右衛門はその適任者であるばかりでなく、妻籠|脇本陣《わきほんじん》の主人として、また、年寄役の一人《ひとり》として、寿平次の父が早く亡《な》くなってからは何かにつけて彼の後見役《こうけんやく》となって来たのもこの得右衛門である。得右衛門の家で造り酒屋をしているのも、馬籠の伏見屋によく似ていた。
 寿平次はお民に目くばせして、そこを避けさせ、母屋《もや》の方へ庭を回って行く妹を見送った。小屋の荒い壁には弓をたてかけるところもある。彼は※[#「革+喋のつくり」、第4水準2−92−7]《ゆがけ》の紐《ひも》を解いて、その隠れた静かな場所に気の置けない得右衛門を迎えた。
 得右衛門の報告は、寿平次が心配して待っていたとおりだった。伊那助郷が木曾にある下四宿の宿役人を通し、あるいは直接に奉行所にあてて愁訴を企てたのは、その日に始まったことでもない。三十一か村の助郷を六十五か村で分担するようになったのも、実は愁訴の結果であった。ずっと以前の例によると、助郷を勤める村々は五か年を平均して、人足だけでも一か年の石高《こくだか》百石につき、十七人二分三厘三毛ほどに当たる。しかしこれは天保年度のことで、助郷の負担は次第に重くなって来ている。ことに、黒船の渡って来た嘉永年代からは、諸大名公役らが通行もしげく、そのたびに徴集されて嶮岨《けんそ》な木曾路を往復することであるから、自然と人馬も疲れ、病人や死亡者を生じ、継立《つぎた》てにもさしつかえるような村々が出て来た。いったい、助郷人足が宿場の勤めは一日であっても、山を越して行くには前の日に村方を出て、その晩に宿場に着き、翌日勤め、継ぎ場の遠いところへ継ぎ送って宿場へ帰ると、どうしてもその晩は村方へ帰りがたい。一日の勤めに前後三日、どうかすると四日を費やし、あまつさえ泊まりの食物の入費も多く、折り返し使わるる途中で小遣銭《こづかいせん》もかかり、その日に取った人馬賃銭はいくらも残らない。ことさら遠い村方ではこの労役に堪《た》えがたく、問屋とも相談の上でお触れ当ての人馬を代銭で差し出すとなると、この夫銭《ぶせん》がまたおびただしい高に上る。村々の痛みは一通りではない。なかなか宿駅常備の御伝馬ぐらいではおびただしい入用に不足するところから、助郷村々では人馬を多く差し出し、その勤めも続かなくなって来た。おまけに、諸色《しょしき》は高く、農業にはおくれ、女や老人任せで田畠《たはた》も荒れるばかり。こんなことで、どうして百姓の立つ瀬があろう。なんとかして村民の立ち行くように、宿方の役人たちにもよく考えて見てもらわないことには、助郷総代としても一同の不平をなだめる言葉がない。今度という今度は、容易に請状《うけじょう》も出しかねるというのが助郷側の言い分である。
「いや、大《おお》やかまし。」と得右衛門は言葉をついだ。「そこをわたしがよく説き聞かせて、なんとかして皆の顔を立てる、お前たちばかりに働かしちゃ置かない。奉行所に願って、助郷を勤める村数を増すことにする。それに尾州藩だってこんな場合に黙って見ちゃいまい。その方からお手当ても出よう。こんな御通行は二度とはあるまいから、と言いましたところが、それじゃ村々のものを集めてよく相談して見ようと先方でも折れて出ましてね、そんな約束でわたしも別れて来ましたよ。」
「そいつはお骨折りでした。早速《さっそく》、奉行所あての願書を作ろうじゃありませんか。野尻《のじり》、三留野《みどの》、妻籠《つまご》、馬籠《まごめ》、これだけの庄屋連名で出すことにしましょう。たぶん、半蔵さんもこれに賛成だろうと思います。」
「そうなさるがいい。今度わたしも伊那へ行って、つくづくそう思いました。徳川様の御威光というだけでは、百姓も言うことをきかなくなって来ましたよ。」
「そりゃ得右衛門さん、おそい。いったい、諸大名の行列はもっと省いてもいいものでしょう。そうすれば、助郷も助かる。参覲交代なぞはもう時世おくれだなんて言う人もありますよ。」
「こういう庄屋が出て来るんですからねえ。」
 その時、寿平次は「今一手」と言いたげに、小屋の壁にたてかけた弓を取りあげて、弦《つる》に松脂《まつやに》を塗っていた。それを見ると、得右衛門も思い出したように、
「伊那の方でもこれが大流行《おおはやり》。武士が刀を質に入れて、庄屋の衆が弓をはじめるか。世の中も変わりましたね。」
「得右衛門さんはそう言うけれど、わたしはもっとからだを鍛えることを思いつきましたよ。ごらんなさい、こう乱脈な世の中になって来ては、蛮勇をふるい起こす必要がありますね。」
 寿平次は胸を張り、両手を高くさし延べながら、的に向かって深く息を吸い入れた。左手《ゆんで》の弓を押す力と、右手《めて》の弦をひき絞る力とで、見る見る血潮は彼の頬《ほお》に上り、腕の筋肉までが隆起して震えた。背こそ低いが、彼ももはや三十歳のさかりだ。馬籠の半蔵と競い合って、木曾の「山猿《やまざる》」を発揮しようという年ごろだ。そのそばに立っていて、混ぜ返すような声をかけるのは、寿平次から見れば小父《おじ》さんのような得右衛門である。
「ポツン。」
「そうはいかない。」


 とりあえず寿平次らは願書の草稿を作りにかかった。第一、伊那方面は当分たりとも増助郷《ましすけごう》にして、この急場を救い、あわせて百姓の負担を軽くしたい。次ぎに、御伝馬宿々については今回の御下向《ごげこう》のため人馬の継立《つぎた》て方《かた》も嵩《かさ》むから、その手当てとして一宿へ金百両ずつを貸し渡されるよう。ただし十か年賦にして返納する。当時米穀も払底で、御伝馬を勤めるものは皆難渋の際であるから、右百両の金子《きんす》で、米、稗《ひえ》、大豆を買い入れ、人馬役のものへ割り渡したい。一か宿、米五十|駄《だ》、稗《ひえ》五十駄ずつの御救助を仰ぎたい。願書の主意はこれらのことに尽きていた。
 下書きはできた。やがて、下四宿の宿役人は妻籠本陣に寄り合うことになった。馬籠からは年寄役金兵衛の名代として、養子伊之助が来た。寿平次、得右衛門、得右衛門が養子の実蔵《じつぞう》もそれに列席した。
「当分の増助郷《ましすけごう》は至極《しごく》もっともだとは思いますが、これが前例になったらどんなものでしょう。」
「さあ、こんな御通行はもう二度とはありますまいからね。」
 宿役人の間にはいろいろな意見が出た。その時、得右衛門は伊那の助郷総代の意向を伝え、こんな願書を差し出すのもやむを得ないと述べ、前途のことまで心配している場合でないと力説した。
「どうです、願書はこれでいいとしようじゃありませんか。」
 と伊之助が言い出して、各庄屋の調印を求めようということになった。

       二

 例のように寿平次は弓を手にして、裏庭の矢場に隠れていた。彼
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