蔵たちに近づいた。半蔵の家のものは帰りにおそくなるのを心配して、弟子《でし》の勝重《かつしげ》に下男の佐吉をつけ、途中まで迎えによこしたのだ。
 山の上の宿場らしい燈火《あかり》が街道の両側にかがやくころに、半蔵らは馬籠の本陣に帰り着いた。家にはお民が風呂《ふろ》を用意して、夫や兄を待ち受けているところだった。その晩は、寿平次も山登りの汗を洗い流して、半蔵の部屋《へや》に来てくつろいだ。
「木曾は蠅《はえ》の多いところだが、蚊帳《かや》を釣《つ》らずに暮らせるのはいい。水の清いのと、涼しいのと、そのせいだろうかねえ。」
 と寿平次が兄らしく話しかけることも、お民をよろこばせた。
「お民、お母《っか》さんに内証で、今夜はお酒を一本つけておくれ。」
 と半蔵は言った。その年になってもまだ彼は継母の前で酒をやることを遠慮している。どこまでも継母に仕えて身を慎もうとすることは、彼が少年の日からであって、努めに努めることは第二の天性のようになっている。彼は、経験に富む父よりも、賢い継母のおまんを恐れている。
 酒のさかなには、冷豆腐《ひややっこ》、薬味、摺《す》り生薑《しょうが》に青紫蘇《あおじそ》。それに胡瓜《きゅうり》もみ、茄子《なす》の新漬《しんづ》けぐらいのところで、半蔵と寿平次とは涼しい風の来る店座敷の軒近いところに、めいめい膳《ぜん》を控えた。
「ここへ来ると思い出すなあ。あの横須賀行きの半蔵さんを誘いに来て、一晩泊めていただいたのもこの部屋《へや》ですよ。」
「あの時分と見ると、江戸も変わったらしい。」
「大変《おおか》わり。こないだも江戸|土産《みやげ》を吾家《うち》へ届けてくれた飛脚がありましてね、その人の話には攘夷論《じょういろん》が大変な勢いだそうですね。浪人は諸方に乱暴する、外国人は殺される、洋学者という洋学者は脅迫される。江戸市中の唐物店《とうぶつや》では店を壊《こわ》される、実に物すごい世の中になりましたなんて、そんな話をして行きましたっけ。」
「表面だけ見れば、そういうこともあるかもしれません。」
「しかし、半蔵さん、こんなに攘夷なんてことを言い出すようになって来て――それこそ、猫《ねこ》も、杓子《しゃくし》もですよ――これで君、いいでしょうかね。」
 疲労を忘れる程度に盃《さかずき》を重ねたあとで、半蔵はちょっと座をたって、廂《ひさし》から外の方に夜の街道の空をながめた。田の草取りの季節らしい稲妻のひらめきが彼の目に映った。
「半蔵さん、攘夷なんていうことは、君の話によく出る『漢《から》ごころ』ですよ。外国を夷狄《いてき》の国と考えてむやみに排斥するのは、やっぱり唐土《もろこし》から教わったことじゃありませんか。」
「寿平次さんはなかなかえらいことを言う。」
「そりゃ君、今日《こんにち》の外国は昔の夷狄《いてき》の国とは違う。貿易も、交通も、世界の大勢で、やむを得ませんさ。わたしたちはもっとよく考えて、国を開いて行きたい。」
 その時、半蔵はもとの座にかえって、寿平次の前にすわり直した。
「あゝあゝ、変な流行だなあ。」と寿平次は言葉を継いで、やがて笑い出した。「なんぞというと、すぐに攘夷をかつぎ出す。半蔵さん。君のお仲間は今日流行の攘夷をどう思いますかさ。」
「流行なんて、そんな寿平次さんのように軽くは考えませんよ。君だってもこの社会の変動には悩んでいるんでしょう。良い小判はさらって行かれる、物価は高くなる、みんなの生活は苦しくなる――これが開港の結果だとすると、こんな排外熱の起こって来るのは無理もないじゃありませんか。」
 二人《ふたり》が時を忘れて話し込んでいるうちに、いつのまにか夜はふけて行った。酒はとっくにつめたくなり、丼《どんぶり》の中の水に冷やした豆腐も崩《くず》れた。

       五

 平田|篤胤《あつたね》没後の門人らは、しきりに実行を思うころであった。伊那《いな》の谷の方のだれ彼は白河《しらかわ》家を足だまりにして、京都の公卿《くげ》たちの間に遊説《ゆうぜい》を思い立つものがある。すでに出発したものもある。江戸在住の平田|鉄胤《かねたね》その人すら動きはじめたとの消息すらある。
 当時は井伊大老横死のあとをうけて、老中|安藤対馬守《あんどうつしまのかみ》を幕府の中心とする時代である。だれが言い出したとも知れないような流言が伝わって来る。和学講談所(主として有職故実《ゆうそくこじつ》を調査する所)の塙《はなわ》次郎という学者はひそかに安藤対馬の命を奉じて北条《ほうじょう》氏廃帝の旧例を調査しているが、幕府方には尊王攘夷説の根源を断つために京都の主上を幽《ゆう》し奉ろうとする大きな野心がある。こんな信じがたいほどの流言が伝わって来るころだ。当時の外国奉行|堀織部《ほりおりべ》の自殺も多くの人を驚かした。そのうわさもまた一つの流言を生んだ。安藤対馬はひそかに外国人と結託している。英国公使アールコックに自分の愛妾《あいしょう》まで与え許している、堀織部はそれを苦諫《くかん》しても用いられないので、刃《やいば》に伏してその意を致《いた》したというのだ。流言は一編の偽作の諫書にまでなって、漢文で世に行なわれた。堀織部の自殺を憐《あわれ》むものが続々と出て来て、手向《たむ》けの花や線香がその墓に絶えないというほどの時だ。
 だれもがこんな流言を疑い、また信じた。幕府の威信はすでに地を掃《はら》い、人心はすでに徳川を離れて、皇室再興の時期が到来したというような声は、血気|壮《さか》んな若者たちの胸を打たずには置かなかった。
 その年の八月には、半蔵は名高い水戸《みと》の御隠居(烈公)の薨去《こうきょ》をも知った。吉左衛門親子には間接な主人ながらに縁故の深い尾張藩主(徳川|慶勝《よしかつ》)をはじめ、一橋慶喜《ひとつばしよしのぶ》、松平春嶽《まつだいらしゅんがく》、山内容堂《やまのうちようどう》、その他安政大獄当時に幽屏《ゆうへい》せられた諸大名も追い追いと謹慎を解かれる日を迎えたが、そういう中にあって、あの水戸の御隠居ばかりは永蟄居《えいちっきょ》を免ぜられたことも知らずじまいに、江戸|駒込《こまごめ》の別邸で波瀾《はらん》の多い生涯《しょうがい》を終わった。享年六十一歳。あだかも生前の政敵井伊大老のあとを追って、時代から沈んで行く夕日のように。
 半蔵が年上の友人、中津川本陣の景蔵は、伊那にある平田同門北原稲雄の親戚《しんせき》で、また同門松尾|多勢子《たせこ》とも縁つづきの間柄である。この人もしばらく京都の方に出て、平田門人としての立場から多少なりとも国事に奔走したいと言って、半蔵のところへもその相談があった。日ごろ謙譲な性質で、名聞《みょうもん》を好まない景蔵のような友人ですらそうだ。こうなると半蔵もじっとしていられなかった。
 父は老い、街道も日に多事だ。本陣問屋庄屋の仕事は否《いや》でも応《おう》でも半蔵の肩にかかって来た。その年の十月十九日の夜にはまた、馬籠の宿は十六軒ほど焼けて、半蔵の生まれた古い家も一晩のうちに灰になった。隣家の伏見屋、本陣の新宅、皆焼け落ちた。風あたりの強い位置にある馬籠峠とは言いながら、三年のうちに二度の大火は、村としても深い打撃であった。


 翌|文久《ぶんきゅう》元年の二月には、半蔵とお民は本陣の裏に焼け残った土蔵のなかに暮らしていた。土蔵の前にさしかけを造り、板がこいをして、急ごしらえの下竈《したへっつい》を置いたところには、下女が炊事をしていた。土蔵に近く残った味噌納屋《みそなや》の二階の方には、吉左衛門夫妻が孫たちを連れて仮住居《かりずまい》していた。二間ほど座敷があって、かつて祖父半六が隠居所にあててあったのもその二階だ。その辺の石段を井戸の方へ降りたところから、木小屋、米倉なぞのあるあたりへかけては、火災をまぬかれた。そこには佐吉が働いていた。
 旧暦二月のことで、雪はまだ地にある。半蔵は仮の雪隠《せっちん》を出てから、焼け跡の方を歩いて、周囲を見回した。上段の間、奥の間、仲の間、次の間、寛《くつろ》ぎの間、店座敷、それから玄関先の広い板の間など、古い本陣の母屋《もや》の部屋《へや》部屋は影も形もない。灰寄せの人夫が集まって、釘《くぎ》や金物の類《たぐい》を拾った焼け跡には、わずかに街道へ接した塀《へい》の一部だけが残った。
 さしあたりこの宿場になくてかなわないものは、会所(宿役人寄合所)だ。幸い九太夫の家は火災をまぬかれたので、仮に会所はそちらの方へ移してある。問屋場の事務も従来吉左衛門の家と九太夫の家とで半月交替に扱って来たが、これも一時九太夫方へ移してある。すべてが仮《かり》で、わびしく、落ち着かなかった。吉左衛門は半蔵に力を添えて、大工を呼べ、新しい母屋の絵図面を引けなどと言って、普請工事の下相談もすでに始まりかけているところであった。
 京都にある帝《みかど》の妹君、和宮内親王《かずのみやないしんのう》が時の将軍(徳川|家茂《いえもち》)へ御降嫁とあって、東山道《とうさんどう》御通行の触れ書が到来したのは、村ではこの大火後の取り込みの最中であった。
 宿役人一同、組頭《くみがしら》までが福島の役所から来た触れ書を前に置いて、談《はな》し合わねばならないような時がやって来た。この相談には、持病の咳《せき》でこもりがちな金兵衛までが引っぱり出された。
 吉左衛門は味噌納屋の二階から、金兵衛は上の伏見屋の仮住居《かりずまい》から、いずれも仮の会所の方に集まった。その時、吉左衛門は旧《ふる》い友だちを見て、
「金兵衛さん、馬籠の宿でも御通行筋の絵図面を差し出せとありますよ。」
 と言って、互いに額《ひたい》を集めた。
 本陣問屋庄屋としての仕事はこんなふうに、あとからあとからと半蔵の肩に重くかかって来た。彼は何をさし置いても、年取った父を助けて、西よりする和宮様の御一行をこの木曾路に迎えねばならなかった。
[#改頁]

     第六章

       一

 和宮様《かずのみやさま》御降嫁のことがひとたび知れ渡ると、沿道の人民の間には非常な感動をよび起こした。従来、皇室と将軍家との間に結婚の沙汰《さた》のあったのは、前例のないことでもないが、種々な事情から成り立たなかった。それの実現されるようになったのは全く和宮様を初めとするという。おそらくこれは盛典としても未曾有《みぞう》、京都から江戸への御通行としても未曾有のことであろうと言わるる。今度の御道筋にあたる宿々村々のものがこの御通行を拝しうるというは非常な光栄に相違なかった。
 木曾谷《きそだに》、下《しも》四宿の宿役人としては、しかしただそれだけでは済まされなかった。彼らは一度は恐縮し、一度は当惑した。多年の経験が教えるように、この街道の輸送に役立つ御伝馬《おてんま》には限りがある。木曾谷中の人足を寄せ集めたところで、その数はおおよそ知れたものである。それにはどうしても伊那《いな》地方の村民を動かして、多数な人馬を用意し、この未曾有の大通行に備えなければならない。
 木曾街道六十九次の宿場はもはや嘉永《かえい》年度の宿場ではなかった。年老いた吉左衛門や金兵衛がいつまでも忘れかねているような天保《てんぽう》年度のそれではもとよりなかった。いつまで伊那の百姓が道中奉行の言うなりになって、これほど大がかりな人馬の徴集に応ずるかどうかはすこぶる疑問であった。


 馬は四分より一|疋《ぴき》出す。人足は五分より一人《ひとり》出す。人馬共に随分丈夫なものを出す。老年、若輩、それから弱馬などは決して出すまい。
 これは伊那地方の村民総代と木曾谷にある下四宿の宿役人との間に取りかわされた文化《ぶんか》年度以来の契約である。馬の四分とか、人足の五分とかは、石高《こくだか》に応じての歩合《ぶあい》をさして言うことであって、村々の人馬はその歩合によって割り当てを命じられて来た。もっともこの歩合は天保年度になって多少改められたが、人馬徴集の大体の方針には変わりがなかった。
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