若い。それでももう彼のそばには、お民のふところへ子供らしい手をさし入れて、乳房《ちぶさ》を探ろうとする宗太がいる。朴《ほお》の葉に包んでお民の与えた熱い塩結飯《しおむすび》をうまそうに頬張《ほおば》るような年ごろのお粂《くめ》がいる。
半蔵は思い出したように、
「ごらん、吾家《うち》の阿爺《おやじ》はことしで勤続二十一年だ、見習いとして働いた年を入れると、実際は三十七、八年にもなるだろう。あれで祖父《おじい》さんもなかなか頑張《がんば》っていて、本陣庄屋の仕事を阿爺《おやじ》に任せていいとは容易に言わなかった。それほど大事を取る必要もあるんだね。おれなぞは、お前、十七の歳《とし》から見習いだぜ。しかし、おれはお前の兄さん(寿平次)のように事務の執れる人間じゃない。お大名を泊めた時の人数から、旅籠賃《はたごちん》がいくらで、燭台《しょくだい》が何本と事細かに書き留めて置くような、そういうことに適した人間じゃない――おれは、こんなばかな男だ。」
「どうしてそんなことを言うんでしょう。」
「だからさ。今からそれをお前に断わって置く。お前の兄さんもおもしろいことを言ったよ。庄屋としては民意を代表するし、本陣問屋としては諸街道の交通事業に参加すると想《おも》って見たまえ、とさ。しかし、おれも庄屋の子だ。平田先生の門人の一人《ひとり》だ。まあ、おれはおれで、やれるところまでやって見る。」
「半蔵さま、福島からお差紙《さしがみ》(呼び出し状)よなし。ここはどうしても、お前さまに出ていただかんけりゃならん。」
村方のものがそんなことを言って、半蔵のところへやって来た。
村民同志の草山の争いだ。いたるところに森林を見る山間の地勢で、草刈る場所も少ない土地を争うところから起こって来る境界のごたごただ。草山口論ということを約《つづ》めて、「山論《さんろん》」という言葉で通って来たほど、これまでとてもその紛擾《ふんじょう》は木曾山に絶えなかった。
銭相場引き上げ、小判買い、横浜交易なぞの声につれて、一方には財界変動の機会に乗じ全盛を謳《うた》わるる成金もあると同時に、細民の苦しむこともおびただしい。米も高い。両に四斗五升もした。大豆《だいず》一|駄《だ》二両三分、酒一升二百三十二文、豆腐一丁四十二文もした。諸色《しょしき》がこのとおりだ。世間一統動揺して来ている中で、村民の心がそう静かにしていられるはずもなかった。山論までが露骨になって来た。
しかし半蔵にとって、大《おお》げさに言えば血で血を洗うような、こうした百姓同志の争いほど彼の心に深い悲しみを覚えさせるものもなかった。福島役所への訴訟沙汰《そしょうざた》にまでなった山論――訴えた方は隣村湯舟沢の村民、訴えられた方は馬籠宿内の一部落にあたる峠村の百姓仲間である。山論がけんかになって、峠村のものが鎌《かま》十五|挺《ちょう》ほど奪い取られたのは過ぐる年の夏のことで、いったんは馬籠の宿役人が仲裁に入り、示談になったはずの一年越しの事件だ。この争いは去年の二百二十日から九月の二十日ごろまで、およそ二か月にもわたった。そのおりには隣宿妻籠|脇本陣《わきほんじん》の扇屋得右衛門《おうぎやとくえもん》から、山口村の組頭《くみがしら》まで立ち合いに来て、草山の境界を見分するために一同弁当持参で山登りをしたほどであった。ところが、湯舟沢村のものから不服が出て、その結果は福島の役所にまで持ち出されるほど紛《もつ》れたのである。二人の百姓総代は峠村からも馬籠の下町からも福島に呼び出された。両人のものが役所に出頭して見ると、直ちに入牢《にゅうろう》を仰せ付けられて、八沢《やさわ》送りとなった。福島からは別に差紙《さしがみ》が来て、年寄役付き添いの上、馬籠の庄屋に出頭せよとある。今は、半蔵も躊躇《ちゅうちょ》すべき時でない。
「お民、おれはお父《とっ》さんの名代《みょうだい》に、福島まで行って来る。」
と妻に言って、彼は役所に出頭する時の袴《はかま》の用意なぞをさせた。自分でも着物を改めて、堅く帯をしめにかかった。
「どうも人気《にんき》が穏やかでない。」
父、吉左衛門はそれを半蔵に言って、福島行きのしたくのできるのを待った。
この父は自分の退役も近づいたという顔つきで、本陣の囲炉裏ばたに続いた寛《くつろ》ぎの間《ま》の方へ行って、その部屋《へや》の用箪笥《ようだんす》から馬籠湯舟沢両村の古い絵図なぞを取り出して来た。
「半蔵、これも一つの参考だ。」
と言って子の前に置いた。
「双方入り合いの草刈り場所というものは、むずかしいよ。山論、山論で、そりゃ今までだってもずいぶんごたごたしたが、大抵は示談で済んで来たものだ。」
とまた吉左衛門は軽く言って、早く不幸な入牢者を救えという意味を通わせた。
湯舟沢の方の百姓は、組頭《くみがしら》とも、都合八人のものが福島の役所に呼び出された。馬籠では、年寄役の儀助、同役|与次衛門《よじえもん》、それに峠の組頭平助がすでに福島へ向けて立って行った。なお、年寄役金兵衛の名代《みょうだい》として、隣家の養子伊之助も半蔵のあとから出かけることになっている。草山口論も今は公《おおやけ》の場処に出て争おうとする御用の山論一条だ。
これらの年寄役は互いに代わり合って、半蔵の付き添いとして行くことになったのだ。
「おれも退役願いを出したくらいだから、今度は顔を出すまいよ。」
と父が言葉を添えるころには、峠の組頭平助が福島から引き返して、半蔵を迎えに来た。半蔵は平助の付き添いに力を得て、脚絆《きゃはん》に草鞋《わらじ》ばき尻端折《しりはしょ》りのかいがいしい姿になった。
諸国には当時の厳禁なる百姓|一揆《いっき》も起こりつつあった。しかし半蔵は、村の長老たちが考えるようにそれを単なる農民の謀反《むほん》とは見なせなかった。百姓一揆の処罰と言えば、軽いものは笞《むち》、入墨《いれずみ》、追い払い、重いものは永牢《えいろう》、打ち首のような厳刑はありながら、進んでその苦痛を受けようとするほどの要求から動く百姓の誠実と、その犠牲的な精神とは、他の社会に見られないものである。当時の急務は、下民百姓を教えることではなくて、あべこべに下民百姓から教えられることであった。
「百姓には言挙《ことあ》げということもさらにない。今こそ草山の争いぐらいでこんな内輪げんかをしているが、もっと百姓の目をさます時が来る。」
そう半蔵は考えて、庄屋としての父の名代《みょうだい》を勤めるために、福島の役所をさして出かけて行くことにした。
家を離れてから、彼はそこにいない人たちに呼びかけるように、ひとり言って見た。
「同志打ちはよせ。今は、そんな時世じゃないぞ。」
四
十三日の後には、福島へ呼び出されたものも用済みになり、湯舟沢峠両村の百姓の間には和解が成り立った。
八沢の牢舍《ろうや》を出たもの、証人として福島の城下に滞在したもの、いずれも思い思いに帰村を急ぎつつあった。十四日目には、半蔵は隣家の伊之助と連れだって、峠の組頭平助とも一緒に、暑い木曾路を西に帰って来る人であった。
福島から須原《すはら》泊まりで、山論和解の報告をもたらしながら、半蔵が自分の家の入り口まで引き返して来た時は、ちょうど門内の庭|掃除《そうじ》に余念もない父を見た。
「半蔵が帰りましたよ。」
おまんはだれよりも先に半蔵を見つけて、店座敷の前の牡丹《ぼたん》の下あたりを掃いている吉左衛門にそれを告げた。
「お父《とっ》さん、行ってまいりました。」
半蔵は表庭の梨《なし》の木の幹に笠《かさ》を立てかけて置いて、汗をふいた。その時、簡単に、両村のものの和解をさせて来たあらましを父に告げた。双方入り合いの草刈り場所を定めたこと、新たに土塚《つちづか》を築いて境界をはっきりさせること、最寄《もよ》りの百姓ばかりがその辺へは鎌《かま》を入れることにして、一同福島から引き取って来たことを告げた。
「それはまあ、よかった。お前の帰りがおそいから心配していたよ。」
と吉左衛門は庭の箒《ほうき》を手にしたままで言った。
もはや秋も立つ。馬籠あたりに住むものがきびしい暑さを口にするころに、そこいらの石垣《いしがき》のそばでは蟋蟀《こおろぎ》が鳴いた。半蔵はその年の盆も福島の方で送って来て、さらに村民のために奔走しなければならないほどいそがしい思いをした。
やがて両村立ち合いの上で、かねて争いの場処である草山に土塚を築《つ》き立てる日が来た。半蔵は馬籠の惣役人《そうやくにん》と、百姓|小前《こまえ》のものを連れて、草いきれのする夏山の道をたどった。湯舟沢からは、庄屋、組頭四人、百姓全部で、両村のものを合わせるとおよそ二百人あまりの人数が境界の地点と定めた深い沢に集まった。
「そんなとろくさいことじゃ、だちかん。」
「うんと高く土を盛れ。」
半蔵の周囲には、口々に言いののしる百姓の声が起こる。
四つの土塚がその境界に築《つ》き立てられることになった。あるものは洞《ほら》が根《ね》先の大石へ見通し、あるものは向こう根の松の木へ見通しというふうに。そこいらが掘り返されるたびに、生々《なまなま》しい土の臭気が半蔵の鼻をつく。工事が始まったのだ。両村の百姓は、藪蚊《やぶか》の襲い来るのも忘れて、いずれも土塚の周囲に集合していた。
その時、背後《うしろ》から軽く半蔵の肩をたたくものがある。隣村|妻籠《つまご》の庄屋として立ち合いに来た寿平次が笑いながらそこに立っていた。
「寿平次さん、泊まっていったらどうです。」
「いや、きょうは連れがあるから帰ります。二里ぐらいの夜道はわけありません。」
半蔵と寿平次とがこんな言葉をかわすころは、山で日が暮れた。四番目の土塚を見分する時分には、松明《たいまつ》をともして、ようやく見通しをつけたほど暗い。境界の中心と定めた樹木から、ある大石までの間に土手を掘る工事だけは、余儀なく翌日に延ばすことになった。
雨にさまたげられた日を間に置いて、翌々日にはまた両村の百姓が同じ場所に集合した。半蔵は妻籠からやって来る寿平次と一緒になって、境界の土手を掘る工事にまで立ち合った。一年越しにらみ合っていた両村の百姓も、いよいよ双方得心ということになり、長い山論もその時になって解決を告げた。
日暮れに近かった。半蔵は寿平次を誘いながら家路をさして帰って行った。横須賀の旅以来、二人は一層親しく往来する。義理ある兄弟《きょうだい》であるばかりでなく、やがて二人は新進の庄屋仲間でもある。
「半蔵さん、」と寿平次は石ころの多い山道を歩きながら言った。「すべてのものが露骨になって来ましたね。」
「さあねえ。」と半蔵が答えた。
「でも、半蔵さん、この山論はどうです。いや、草山の争いばかりじゃありません、見るもの聞くものが、実に露骨になって来ましたね。こないだも、水戸《みと》の浪人《ろうにん》だなんていう人が吾家《うち》へやって来て、さんざん文句を並べたあげくに、何か書くから紙と筆を貸せと言い出しました。扇子《せんす》を二本書かせたところが、酒を五合に、銭を百文、おまけに草鞋《わらじ》一足ねだられましたよ。早速《さっそく》追い出しました。あの浪人はぐでぐでに酔って、その足で扇屋へもぐずり込んで、とうとう得右衛門《とくえもん》さんの家に寝込んでしまったそうですよ。見たまえ、この街道筋にもえらい事がありますぜ。長崎の御目付《おめつけ》がお下りで通行の日でさ。永井《ながい》様とかいう人の家来が、人足がおそいと言うんで、わたしの村の問屋と口論になって、都合五人で問屋を打ちすえました。あの時は木刀が折れて、問屋の頭には四か所も疵《きず》ができました。やり方がすべて露骨じゃありませんか。君と二人《ふたり》で相州の三浦へ出かけた時分さ――あのころには、まだこんなじゃありませんでしたよ。」
「お師匠さま。」
夕闇《ゆうやみ》の中に呼ぶ少年の声と共に、村の方からやって来る提灯《ちょうちん》が半
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