のは、外国商人の手によりて輸入せらるる悪質なメキシコドル、香港《ホンコン》ドルなどの洋銀をさす。それは民間に流通するよりも多く徳川幕府の手に入って、一分銀に改鋳せらるるというものである。
「わたしがこんな歌をつくったのはめずらしいでしょう。」と半蔵が言い出した。
「しかし、宮川先生の旧《ふる》い弟子《でし》仲間では、半蔵さんは歌の詠《よ》める人だと思っていましたよ。」と香蔵が答える。
「それがです、自分でも物になるかと思い初めたのは、横須賀の旅からです。あの旅が歌を引き出したんですね。詠んで見たら、自分にも詠める。」
「ほら、君が横須賀の旅から贈ってくだすったのがあるじゃありませんか。」
「でも、香蔵さん、吾家《うち》の阿爺《おやじ》が俳諧《はいかい》を楽しむのと、わたしが和歌を詠んで見たいと思うのとでは、だいぶその心持ちに相違があるんです。わたしはやはり、本居先生の歌にもとづいて、いくらかでも古《むかし》の人の素直《すなお》な心に帰って行くために、詩を詠むと考えたいんです。それほど今の時世に生まれたものは、自然なものを失っていると思うんですが、どうでしょう。」
半蔵らはすべてこの調子で踏み出して行こうとした。あの本居宣長ののこした教えを祖述するばかりでなく、それを極端にまで持って行って、実行への道をあけたところに、日ごろ半蔵らが畏敬《いけい》する平田篤胤《ひらたあつたね》の不屈な気魄《きはく》がある。半蔵らに言わせると、鈴の屋の翁にはなんと言っても天明寛政年代の人の寛濶《かんかつ》さがある。そこへ行くと、気吹《いぶき》の舎大人《やのうし》は狭い人かもしれないが、しかしその迫りに迫って行った追求心が彼らの時代の人の心に近い。そこが平田派の学問の世に誤解されやすいところで、篤胤大人の上に及んだ幕府の迫害もはなはだしかった。『大扶桑国考《だいふそうこくこう》』『皇朝無窮暦《こうちょうむきゅうれき》』などの書かれるころになると、絶板を命ぜられるはおろか、著述することまで禁じられ、大人《うし》その人も郷里の秋田へ隠退を余儀なくされたが、しかし大人は六十八歳の生涯《しょうがい》を終わるまで決して屈してはいなかった。同時代を見渡したところ、平田篤胤に比ぶべきほどの必死な学者は半蔵らの目に映って来なかった。
五月も十日過ぎのことで、安政大獄当時に極刑に処せられたもののうち、あるものの忌日がやって来るような日を迎えて見ると、亡《な》き梅田雲浜《うめだうんぴん》、吉田松陰、頼鴨崖《らいおうがい》なぞの記憶がまた眼前の青葉と共に世人の胸に活《い》き返って来る。半蔵や香蔵は平田篤胤没後の門人として、あの先輩から学び得た心を抱いて、互いに革新潮流の渦《うず》の中へ行こうとこころざしていた。
降りつづける五月の雨は友だちの足をとどめさせたばかりでなく、親しみを増させるなかだちともなった。半蔵には新たに一人《ひとり》の弟子ができて、今は住み込みでここ本陣に来ていることも香蔵をよろこばせた。隣宿落合の稲葉屋《いなばや》の子息《むすこ》、林|勝重《かつしげ》というのがその少年の名だ。学問する機運に促されてか、馬籠本陣へ通《かよ》って来る少年も多くある中で、勝重ほど末頼もしいものを見ない、と友だちに言って見せるのも半蔵だ。時には、勝重は勉強部屋の方から通って来て、半蔵と香蔵とが二人《ふたり》で話しつづけているところへ用をききに顔を出す。短い袴《はかま》、浅黄色《あさぎいろ》の襦袢《じゅばん》の襟《えり》、前髪をとった額越《ひたいご》しにこちらを見る少年らしい目つきの若々しさは、半蔵らにもありし日のことを思い出させずには置かなかった。
「そうかなあ。自分らもあんなだったかなあ。わたしが弁当持ちで、宮川先生の家へ通い初めたのは、ちょうど今の勝重さんの年でしたよ。」
と半蔵は友だちに言って見せた。
そろそろ香蔵は中津川の家の方のことを心配し出した。強風強雨が来たあとの様子が追い追いわかって見ると、荒町《あらまち》には風のために吹きつぶされた家もある。峠の村にも半つぶれの家があり、棟《むね》に打たれて即死した馬さえある。そこいらの畠《はたけ》の麦が残らず倒れたなぞは、風あたりの強い馬籠峠の上にしてもめずらしいことだ。
おまんは店座敷へ来て、
「香蔵さん、お宅の方でも御心配なすっていらっしゃるでしょうが、きょうお帰し申したんじゃ、わたしどもが心配です。吾家《うち》の佐吉に風呂《ふろ》でも焚《た》かせますに、もう一日|御逗留《ごとうりゅう》なすってください。年寄りの言うことをきいてください。」
と言って勧めた。この継母がはいって来ると、半蔵は急にすわり直した。おまんの前では、崩《くず》している膝《ひざ》でもすわり直すのが半蔵の癖のようになっていた。
「ごめんください。」
と子供に言って見せる声がして、部屋《へや》の敷居をまたごうとする幼いものを助けながら、そこへはいって来たのは半蔵の妻だ。娘のお粂《くめ》は五つになるが、下に宗太《そうた》という弟ができてから、にわかに姉さんらしい顔つきで、お民に連れられながら、客のところへ茶を運んで来た。一心に客の方をめがけて、茶をこぼすまいとしながら歩いて来るその様子も子供らしい。
「まあ、香蔵さん、見てやってください。」とおまんは言った。「お粂があなたのところへお茶を持ってまいりましたよ。」
「この子が自分で持って行くと言って、きかないんですもの。」とお民も笑った。
半蔵の家では子供まで来て、雨に逗留する客をもてなした。
とうとう香蔵は二晩も馬籠に泊まった。東|美濃《みの》から伊那《いな》の谷へかけての平田門人らとも互いに連絡を取ること、場合によっては京都、名古屋にある同志のものを応援することを半蔵に約して置いて、三日目には香蔵は馬籠の本陣を辞した。
友だちが帰って行ったあとになって見ると、半蔵は一層わびしい雨の日を山の上に送った。四日目になっても雨は降り続き、風もすこし吹いて、橋の損所や舞台の屋根を修繕するために村じゅう一軒に一人《ひとり》ずつは出た。雨間《あまま》というものがすこしもなく、雲行きは悪く、荒れ気味で安心がならなかった。村には長雨のために、壁がいたんだり、土の落ちたりした土蔵もある。五日目も雨、その日になると、崖《がけ》になった塩沢あたりの道がぬける。香蔵が帰って行った中津川の方の大橋付近では三軒の人家が流失するという騒ぎだ。日に日に木曾川の水は増し、橋の通行もない。街道は往来止めだ。
ようやく五月の十七日ごろになって、上り下りの旅人が動き出した。尾張藩の勘定奉行《かんじょうぶぎょう》、普請役|御目付《おめつけ》、錦織《にしこうり》の奉行、いずれも江戸城本丸の建築用材を見分《けんぶん》のためとあって、この森林地帯へ入り込んで来る。美濃地方が風雨のために延引となっていた長崎御目付の通行がそのあとに続く。
「黒船騒ぎも、もうたくさんだ。」
そう思っている半蔵は、また木曾人足百人、伊那の助郷《すけごう》二百人を用意するほどの長崎御目付の通行を見せつけられた。遠く長崎の港の方には、新たにドイツの船がはいって来て、先着のヨーロッパ諸国と同じような通商貿易の許しを求めるために港内に碇泊《ていはく》しているとのうわさもある。
三
七月を迎えるころには、寛斎は中津川の家を養子に譲り、住み慣れた美濃の盆地も見捨て、かねて老後の隠棲《いんせい》の地と定めて置いた信州伊那の谷の方へ移って行った。馬籠にはさびしく旧師を見送る半蔵が残った。
「いよいよ先生ともお別れか。」
と半蔵は考えて、本陣の店座敷の戸に倚《よ》りながら、寛斎が引き移って行った谷の方へ思いを馳《は》せた。隣宿|妻籠《つまご》から伊那への通路にあたる清内路《せいないじ》には、平田門人として半蔵から見れば先輩の原|信好《のぶよし》がある。御坂峠《みさかとうげ》、風越峠《かざこしとうげ》なぞの恵那《えな》山脈一帯の地勢を隔てた伊那の谷の方には、飯田《いいだ》にも、大川原にも、山吹《やまぶき》にも、座光寺にも平田同門の熱心な先輩を数えることができる。その中には、篤胤大人|畢生《ひっせい》の大著でまだ世に出なかった『古史伝』三十一巻の上木《じょうぼく》を思い立つ座光寺の北原稲雄《きたはらいなお》のような人がある。古学研究の筵《むしろ》を開いて、先師遺著の輪講を思い立つ山吹の片桐春一《かたぎりしゅんいち》のような人がある。年々|寒露《かんろ》の節に入る日を会日と定め、金二分とか、金半分とかの会費を持ち寄って、地方にいて書籍を購読するための書籍講というものを思い立つものもある。
半蔵の周囲には、驚くばかり急激な勢いで、平田派の学問が伊那地方の人たちの間に伝播《でんぱ》し初めた。飯田の在の伴野《ともの》という村には、五十歳を迎えてから先師没後の門人に加わり、婦人ながらに勤王の運動に身を投じようとする松尾多勢子《まつおたせこ》のような人も出て来た。おまけに、江戸には篤胤大人の祖述者をもって任ずる平田|鉄胤《かねたね》のようなよい相続者があって、地方にある門人らを指導することを忘れていなかった。一切の入門者がみな篤胤没後の門人として取り扱われた。決して鉄胤の門人とは見なされなかった。半蔵にして見ると、彼はこの伊那地方の人たちを東美濃の同志に結びつける中央の位置に自分を見いだしたのである。賀茂真淵《かものまぶち》から本居宣長、本居宣長から平田篤胤と、諸大人の承《う》け継ぎ承け継ぎして来たものを消えない学問の燈火《ともしび》にたとえるなら、彼は木曾のような深い山の中に住みながらも、一方には伊那の谷の方を望み、一方には親しい友だちのいる中津川から、落合、附智《つけち》、久々里《くくり》、大井、岩村、苗木《なえぎ》なぞの美濃の方にまで、あそこにも、ここにもと、その燈火を数えて見ることができた。
当時の民間にある庄屋《しょうや》たちは、次第にその位置を自覚し始めた。さしあたり半蔵としては、父|吉左衛門《きちざえもん》から青山の家を譲られる日のことを考えて見て、その心じたくをする必要があった。吉左衛門と、隣家の金兵衛《きんべえ》とが、二人《ふたり》ともそろって木曾福島の役所あてに退役願いを申し出たのも、その年、万延《まんえん》元年の夏のはじめであったからで。
長いこと地方自治の一単位とも言うべき村方の世話から、交通輸送の要路にあたる街道一切の面倒まで見て、本陣問屋庄屋の三役を兼ねた吉左衛門と、年寄役の金兵衛とが二人ともようやく隠退を思うころは、吉左衛門はすでに六十二歳、金兵衛は六十四歳に達していた。もっとも、父の退役願いがすぐにきき届けられるか、どうかは、半蔵にもわからなかったが。
時には、半蔵は村の見回りに行って、そこいらを出歩く父や金兵衛にあう。吉左衛門ももう杖《つえ》なぞを手にして、新たに養子を迎えたお喜佐《きさ》(半蔵の異母妹)の新宅を見回りに行くような人だ。金兵衛は、と見ると、この隣人は袂《たもと》に珠数《じゅず》を入れ、かつては半蔵の教え子でもあった亡《な》き鶴松《つるまつ》のことを忘れかねるというふうで、位牌所《いはいじょ》を建立《こんりゅう》するとか、木魚《もくぎょ》を寄付するとかに、何かにつけて村の寺道の方へ足を運ぼうとするような人だ。問屋の九太夫にもあう。
「九太夫さんも年を取ったなあ。」
そう想《おも》って見ると、金兵衛の家には美濃の大井から迎えた伊之助《いのすけ》という養子ができ、九太夫の家にはすでに九郎兵衛《くろべえ》という後継《あとつ》ぎがある。
半蔵は家に戻《もど》ってからも、よく周囲《あたり》を見回した。妻をも見て言った。
「お民、ことしか来年のうちには、お前も本陣の姉《あね》さまだぜ。」
「わかっていますよ。」
「お前にこの家がやれるかい。」
「そりゃ、わたしだって、やれないことはないと思いますよ。」
先代の隠居半六から四十二歳で家督を譲られた父吉左衛門に比べると、半蔵の方はまだ十二年も
前へ
次へ
全48ページ中29ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング