小判の相場は三両二朱ぐらいには商いのできること、そんな話を金兵衛のところに残して置いて、せっかく待ち受けている半蔵の家へは立ち寄らずに、そこそこに中津川の方へ通り過ぎて行った。
このことは後になって隣家から知れて来た。それを知った時の半蔵の手持ちぶさたもなかった。旧師を信ずる心の深いだけ、彼の失望も深かった。
二
「どうも小判買いの入り込んで来るには驚きますね。今もわたしは馬籠へ来る途中で、落合《おちあい》でもそのうわさを聞いて来ましたよ。」
こんな話をもって、中津川の香蔵が馬籠本陣を訪《たず》ねるために、落合から十曲峠《じっきょくとうげ》の山道を登って来た。
香蔵は、まだ家督相続もせずにいる半蔵と違い、すでに中津川の方の新しい問屋の主人である。十何年も前に弟子として、義理ある兄の寛斎に就《つ》いたころから見ると、彼も今は男のさかりだ。三人の友だちの中でも、景蔵は年長《としうえ》で、香蔵はそれに次ぎ、半蔵が一番若かった。その半蔵がもはや三十にもなる。
寛斎も今は成金《なりきん》だと戯れて見せるような友だちを前に置いて、半蔵は自分の居間としている本陣の店座敷で話した。
銭相場引き上げに続いて急激な諸物価騰貴をひき起こした横浜貿易の取りざたほど半蔵らの心をいらいらさせるものもない。当時、国内に流通する小判、一分判《いちぶばん》などの異常に良質なことは、米国領事ハリスですら幕府に注意したくらいで、それらの古い金貨を輸出するものは法外な利を得た。幕府で新小判を鋳造《ちゅうぞう》し、その品質を落としたのは、外国貨幣と釣合《つりあい》を取るための応急手段であったが、それがかえって財界混乱の結果を招いたとも言える。そういう幕府には市場に流通する一切の古い金貨を蒐集《しゅうしゅう》して、それを改鋳するだけの能力も信用もなかったからで。新旧小判は同時に市場に行なわれるような日がやって来た。目先の利に走る内地商人と、この機会をとらえずには置かない外国商人とがしきりにその間に跳梁《ちょうりょう》し始めた。純粋な小判はどしどし海の外へ出て行って、そのかわりに輸入せらるるものは多少の米弗《ベイドル》銀貨はあるとしても、多くは悪質な洋銀であると言われる。
「半蔵さん、君はあの小判買いの声をどう思います。」と香蔵は言った。「今までに君、九十万両ぐらいの小判は外国へ流れ出したと言いますよ。そうです、軽く見積もっても九十万両ですとさ。驚くじゃありませんか。まさか幕府の役人だって、異人の言うなりになってるわけでもありますまいがね、したくも何もなしに、いきなり港を開かせられてしまって、その結果はと言うと非常な物価騰貴です。そりゃ一部の人たちは横浜開港でもうけたかもしれませんが、一般の人民はこんなに生活に苦しむようになって来ましたぜ。」
近づいて来る六月二日、その横浜開港一周年の記念日をむしろ屈辱の記念日として考えるものもあるような、さかんな排外熱は全国に巻き起こって来た。眼《ま》のあたりに多くのものの苦しみを見る半蔵らは、一概にそれを偏狭|頑固《がんこ》なものの声とは考えられなかった。
「宮川先生のことは、もう何も言いますまい。」と半蔵が言い出した。「わたしたちの衷情としては、今までどおりの簡素清貧に甘んじていていただきたかったけれど。」
「国学者には君、国学者の立場もあろうじゃありませんか。それを捨てて、ただもうけさえすればよいというものでもないでしょう。」と言うのは香蔵だ。
「いったい、先生が横浜なぞへ出かけられる前に、相談してくださるとよかった。こんなにわたしたちを避けなくてもよさそうなものです。」
「出稼《でかせ》ぎの問題には触れてくれるなと言うんでしょう。」
にわかな雨で、二人《ふたり》の話は途切れた。半蔵は店座敷の雨戸を繰って、それを一枚ほど閉《し》めずに置き、しばらく友だちと二人で表庭にふりそそぐ強い雨をながめていた。そのうちに雨は座敷へ吹き込んで来る。しまいには雨戸もあけて置かれないようになった。
「お民。」
と半蔵は妻を呼んだ。燈火《あかり》なしには話も見えないほど座敷の内は暗かった。お民ももはや二十四で、二人子持ちの若い母だ。奥から行燈《あんどん》を運んで来る彼女の後ろには、座敷の入り口までついて来て客の方をのぞく幼いものもある。
時ならぬ行燈のかげで、半蔵と香蔵の二人は風雨の音をききながら旧師のことを語り合った。話せば話すほど二人はいろいろな心持ちを引き出されて行った。半蔵にしても香蔵にしても、はじめて古学というものに目をあけてもらった寛斎の温情を忘れずにいる。旧師も老いたとは考えても、その態度を責めるような心は二人とも持たなかった。飯田《いいだ》の在への隠退が旧師の晩年のためとあるなら、その人の幸福を乱したくないと言うのが半蔵だ。親戚《しんせき》としての関係はとにかく、旧師から離れて行こうと言い出すのが香蔵だ。
国学者としての大きな先輩、本居宣長《もとおりのりなが》ののこした仕事はこの半蔵らに一層光って見えるようになって来た。なんと言っても言葉の鍵《かぎ》を握ったことはあの大人《うし》の強味で、それが三十五年にわたる古事記の研究ともなり、健全な国民性を古代に発見する端緒ともなった。儒教という形であらわれて来ている北方シナの道徳、禅宗や道教の形であらわれて来ている南方シナの宗教――それらの異国の借り物をかなぐり捨て、一切の「漢《から》ごころ」をかなぐり捨てて、言挙《ことあ》げということもさらになかった神ながらのいにしえの代に帰れと教えたのが大人《うし》だ。大人から見ると、何の道かの道ということは異国の沙汰《さた》で、いわゆる仁義礼譲孝|悌《てい》忠信などというやかましい名をくさぐさ作り設けて、きびしく人間を縛りつけてしまった人たちのことを、もろこし方では聖人と呼んでいる。それを笑うために出て来た人があの大人だ。大人が古代の探求から見つけて来たものは、「直毘《なおび》の霊《みたま》」の精神で、その言うところを約《つづ》めて見ると、「自然《おのずから》に帰れ」と教えたことになる。より明るい世界への啓示も、古代復帰の夢想も、中世の否定も、人間の解放も、または大人のあの恋愛観も、物のあわれの説も、すべてそこから出発している。伊勢《いせ》の国、飯高郡《いいだかごおり》の民として、天明《てんめい》寛政《かんせい》の年代にこんな人が生きていたということすら、半蔵らの心には一つの驚きである。早く夜明けを告げに生まれて来たような大人は、暗いこの世をあとから歩いて来るものの探るに任せて置いて、新しい世紀のやがてめぐって来る享和《きょうわ》元年の秋ごろにはすでに過去の人であった。半蔵らに言わせると、あの鈴《すず》の屋《や》の翁《おきな》こそ、「近《ちか》つ代《よ》」の人の父とも呼ばるべき人であった。
香蔵は半蔵に言った。
「今になって、想《おも》い当たる。宮川先生も君、あれで中津川あたりじゃ国学者の牛耳《ぎゅうじ》を執ると言われて来た人ですがね、年をとればとるほど漢学の方へ戻《もど》って行かれるような気がする。先生には、まだまだ『漢《から》ごころ』のぬけ切らないところがあるんですね。」
「香蔵さん、そう君に言われると、わたしなぞはなんと言っていいかわからない。四書五経から習い初めたものに、なかなか儒教の殻《から》はとれませんよ。」
強雨はやまないばかりか、しきりに雲が騒いで、夕方まで休みなしに吹き通すような強風も出て来た。名古屋から福島行きの客でやむを得ず半蔵の家に一宿させてくれと言って来た人さえもある。
香蔵もその晩は中津川の方へは帰れなかった。翌朝になって見ると、風は静まったが、天気は容易に回復しなかった。思いのほかの大荒れで、奥筋《おくすじ》の道や橋は損じ、福島の毛付《けづ》け(馬市)も日延べになったとの通知があるくらいだ。
ちょうど半蔵の父、吉左衛門《きちざえもん》は尾張藩《おわりはん》から御勝手《おかって》仕法立ての件を頼まれて、名古屋出張中の留守の時であった。半蔵は家の囲炉裏《いろり》ばたに香蔵を残して置いて、ちょっと会所の見回りに行って来たが、街道には旅人の通行もなかった。そこへ下男の佐吉も蓑《みの》と笠《かさ》とで田圃《たんぼ》の見回りから帰って来て、中津川の大橋が流れ失《う》せたとのうわさを伝えた。
「香蔵さん、大橋が落ちたと言いますぜ。もうすこし見合わせていたらどうです。」
「この雨にどうなりましょう。」と半蔵が継母のおまんも囲炉裏《いろり》ばたへ来て言った。「いずれ中津川からお迎えの人も見えましょうに、それまで見合わせていらっしゃるがいい。まあ、そうなさい。」
雨のために、やむなく逗留《とうりゅう》する友だちを慰めようとして、やがて半蔵は囲炉裏ばたから奥の部屋《へや》の方へ香蔵を誘った。北の坪庭に向いたところまで行って、雨戸をすこし繰って見せると、そこに本陣の上段の間がある。白地に黒く雲形を織り出した高麗縁《こうらいべり》の畳の上には、雨の日の薄暗い光線がさし入っている。木曾路を通る諸大名が客間にあててあるのもそこだ。半蔵が横須賀の旅以来、過ぐる三年間の意味ある通行を数えて見ると、彦根《ひこね》よりする井伊掃部頭《いいかもんのかみ》、江戸より老中|間部下総守《まなべしもうさのかみ》、林大学頭《はやしだいがくのかみ》、監察|岩瀬肥後守《いわせひごのかみ》、等、等――それらのすでに横死したりまたは現存する幕府の人物で、あるいは大老就職のため江戸の任地へ赴《おもむ》こうとし、あるいは神奈川条約上奏のため京都へ急ごうとして、その客間に足をとどめて行ったことが、ありありとそこにたどられる。半蔵はそんな隠れたところにある部屋《へや》を友だちにのぞかせて、目まぐるしい「時」の歩みをちょっと振り返って見る気になった。
その時、半蔵は唐紙《からかみ》のそばに立っていた。わざと友だちが上段の間の床に注意するのを待っていた。相州三浦《そうしゅうみうら》、横須賀在、公郷村《くごうむら》の方に住む山上七郎左衛門《やまがみしちろうざえもん》から旅の記念にと贈られた光琳《こうりん》の軸がその暗い壁のところに隠れていたのだ。
「香蔵さん、これがわたしの横須賀|土産《みやげ》ですよ。」
「そう言えば、君の話にはよく横須賀が出る。これを贈ったかたがその御本家なんですね。」
「妻籠《つまご》の本陣じゃ無銘の刀をもらう、わたしの家へはこの掛け物をもらって来ました。まったく、あの旅は忘れられない。あれから吾家《うち》へ帰って来た日は、わたしはもう別の人でしたよ――まあ、自分のつもりじゃ、全く新規な生活を始めましたよ。」
半日でも多く友だちを引き留めたくている半蔵には、その日の雨はやらずの雨と言ってよかった。彼はその足で、継母や妻の仕事部屋となっている仲の間のわきの廊下を通りぬけて、もう一度店座敷の方に友だちの席をつくり直した。
「どれ、香蔵さんに一つわたしのまずい歌をお目にかけますか。」
と言って半蔵が友だちの前に取り出したのは、時事を詠じた歌の草稿だ。まだ若々しい筆で書いて、人にも見せずにしまって置いてあるものだ。
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あめりかのどるを御国《みくに》のしろかねにひとしき品とさだめしや誰《たれ》
しろかねにかけておよばぬどるらるをひとしと思ひし人は誰ぞも
国つ物たかくうるともそのしろのいとやすかるを思ひはからで
百八十《ももやそ》の物のことごとたかくうりてわれを富ますとおもひけるかな
土のごと山と掘りくるどるらるに御国《みくに》のたからかへまく惜しも
どるらるにかふるも悲し神国《かみぐに》の人のいとなみ造れるものを
どるらるの品のさだめは大八島《おおやしま》国中《くぬち》あまねく問ふべかりしを
しろかねにいたくおとれるどるらるを知りてさておく世こそつたなき
国つ物足らずなりなばどるらるは山とつむとも何にかはせむ
[#ここで字下げ終わり]
これらの歌に「どる」とか、「どるらる」とかある
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