済ました。町をいましめに来る太鼓の音が聞こえる。閏《うるう》三月の晦日《みそか》まで隠されていた井伊大老の喪もすでに発表されたが、神奈川付近ではなかなか警戒の手をゆるめない。嘉吉は裏座敷から表側の廊下の方へ見に行った。陣笠《じんがさ》をかぶって両刀を腰にした番兵の先には、弓張提灯《ゆみはりぢょうちん》を手にした二人の人足と、太鼓をたたいて回る一人の人足とが並んで通ったと言って、嘉吉は目を光らせながら寛斎のいるところへ戻《もど》って来た。
「そう言えば、先生はすこし横浜の匂《にお》いがする。」
 と嘉吉が戯れて言い出した。
「ばかなことを言っちゃいけない。」
 この七か月ばかりの間、親しい人のだれの顔も見ず、だれの言葉も聞かないでいる寛斎が、どうして旅の日を暮らしたか。嘉吉の目がそれを言った。
「そんなら見せようか。」
 寛斎は笑って、毎日のように手習いした反古《ほご》を行燈《あんどん》のかげに取り出して来て見せた。過ぐる七か月は寛斎にとって、二年にも三年にも当たった。旅籠屋《はたごや》の裏二階から見える椎《しい》の木よりほかにこの人の友とするものもなかった。その枝ぶりをながめながめするうちに、いつのまにか一変したと言ってもいいほどの彼の書体がそこにあった。
 寛斎は安兵衛にも嘉吉にも言った。
「去年の十月ごろから見ると、横浜も見ちがえるようになりましたよ。」


 糸目六十四匁につき金一両の割で、生糸の手合わせも順調に行なわれた。この手合わせは神奈川台の異人屋敷にあるケウスキイの仮宅で行なわれた。売り込み商と通弁の男とがそれに立ち合った。売り方では牡丹屋《ぼたんや》に泊まっている安兵衛も嘉吉も共に列席して、書類の調製は寛斎が引き受けた。
 ケウスキイはめったに笑わない男だが、その時だけは青い瞳《ひとみ》の目に笑《え》みをたたえて、
「自分は近く横浜の海岸通りに木造の二階屋を建てる。自分の同業者でこの神奈川に来ているものには、英国人バルベルがあり、米国人ホウルがある。しかし、自分はだれよりも先に、あの商館を完成して、そこにイギリス第一番の表札を掲げたい。」
 こういう意味のことを通弁に言わせた。
 その時、ケウスキイは「わかってくれたか」という顔つきをして、安兵衛にも嘉吉にも握手を求め、寛斎の方へも大きな手をさし出した。このイギリス人は寛斎の手を堅く握った。
「手合わせは済んだ。これから糸の引き渡しだ。」
 異人屋敷を出てから安兵衛がホッとしたようにそれを言い出すと、嘉吉も連れだって歩きながら、
「旦那《だんな》、それから、まだありますぜ。請け取った現金を国の方へ運ぶという仕事がありますぜ。」
「その事なら心配しなくてもいい。先生が引き受けていてくださる。」
「こいつがまた一仕事ですぞ。」
 寛斎は二人のあとから神奈川台の土を踏んで、一緒に海の見えるところへ行って立った。目に入るかぎり、ちょうど港は発展の最中だ。野毛《のげ》町、戸部《とべ》町なぞの埋め立てもでき、開港当時百一戸ばかりの横浜にどれほどの移住者が増したと言って見ることもできない。この横浜は来たる六月二日を期して、開港一周年を迎えようとしている。その記念には、弁天の祭礼をすら迎えようとしている。牡丹屋の亭主の話によると、神輿《みこし》はもとより、山車《だし》、手古舞《てこまい》、蜘蛛《くも》の拍子舞《ひょうしまい》などいう手踊りの舞台まで張り出して、できるだけ盛んにその祭礼を迎えようとしている。だれがこの横浜開港をどう非難しようと、まるでそんなことは頓着《とんちゃく》しないかのように、いったんヨーロッパの方へ向かって開いた港からは、世界の潮《うしお》が遠慮会釈なくどんどん流れ込むように見えて来た。羅紗《らしゃ》、唐桟《とうざん》、金巾《かなきん》、玻璃《はり》、薬種、酒類なぞがそこからはいって来れば、生糸、漆器、製茶、水油、銅および銅器の類《たぐい》なぞがそこから出て行って、好《よ》かれ悪《あ》しかれ東と西の交換がすでにすでに始まったように見えて来た。
 郷里の方に待ち受けている妻子のことも、寛斎の胸に浮かんで来た。彼の心は中津川の香蔵、景蔵、それから馬籠《まごめ》の半蔵なぞの旧《ふる》い三人の弟子《でし》の方へも行った。あの血気|壮《さか》んな人たちが、このむずかしい時をどう乗ッ切るだろうかとも思いやった。


 生糸売り上げの利得のうち、小判《こばん》で二千四百両の金を遠く中津川まで送り届けることが寛斎の手に委《ゆだ》ねられた。安兵衛、嘉吉の二人は神奈川に居残って、六月のころまで商売を続ける手はずであったからで。当時、金銀の運搬にはいろいろ難渋した話がある。※[#「魚+昜」、195−9]《するめ》にくるんで乾物の荷と見せかけ、かろうじて胡麻《ごま》の蠅《はえ》の難をまぬかれた話もある。武州|川越《かわごえ》の商人は駕籠《かご》で夜道を急ごうとして、江戸へ出る途中で駕籠《かご》かきに襲われた話もある。五十両からの金を携帯する客となると、駕籠かきにはその重さでわかるという。こんな不便な時代に、寛斎は二千四百両からの金を預かって行かねばならない。貧しい彼はそれほどの金をかつて見たこともなかったくらいだ。
 寛斎は牡丹屋の二階にいた。その前へ来てすわって、手さげのついた煙草盆《たばこぼん》から一服吸いつけたのが安兵衛だ。
「先生に引き受けていただいて、わたしも安心しました。この役を引き受けていただきたいばかりに、わざわざ先生を神奈川へお誘いして来たようなものですよ。」
 と安兵衛が白状した。
 しかし、これは安兵衛に言われるまでもなかった。もとより寛斎も承知の上で来たことだ。
 寛斎は前途百里の思いに胸のふさがる心地《ここち》でたちあがった。迫り来る老年はもはやこの人の半身に上っていた。右の耳にはほとんど聴《き》く力がなく、右の目の視《み》る力も左のほどにはきかなかった。彼はその衰えたからだを起こして、最後の「隠れ家《が》」にたどり着くための冒険に当たろうとした。その時、安兵衛は一人の宰領《さいりょう》を彼のところへ連れて来た。
「先生、この人が一緒に行ってくれます。」
 見ると、荷物を護《まも》って行くには屈強な男だ。千両箱の荷造りには嘉吉も来て手伝った。
 四月十日ごろには、寛斎は朝早くしたくをはじめ、旅の落《おと》し差《ざし》に身を堅めて、七か月のわびしい旅籠屋住居《はたごやずまい》に別れて行こうとする人であった。牡丹屋の亭主の計らいで、別れの盃《さかずき》なぞがそこへ運ばれた。安兵衛は寛斎の前にすわって、まず自分で一口飲んだ上で、その土器《かわらけ》を寛斎の方へ差した。この水盃は無量の思いでかわされた。
「さあ、退《ど》いた。退《ど》いた。」
 という声が起こった。廊下に立つ女中なぞの間を分けて、三つの荷が二階から梯子段《はしごだん》の下へ運ばれた。その荷造りした箱の一つ一つは、嘉吉と宿の男とが二人がかりでようやく持ち上がるほどの重さがあった。
「オヤ、もうお立ちでございますか。江戸はいずれ両国のお泊まりでございましょう。あの十一屋の隠居にも、どうかよろしくおっしゃってください。」
 と亭主も寛斎のところへ挨拶《あいさつ》に来た。
 馬荷一|駄《だ》。それに寛斎と宰領とが付き添って、牡丹屋の門口を離れた。安兵衛や嘉吉はせめて宿《しゅく》はずれまで見送りたいと言って、一緒に滝の橋を渡り、オランダ領事館の国旗の出ている長延寺の前を通って、神奈川御台場の先までついて来た。
 その時になって見ると、郷里の方にいる旧《ふる》い弟子《でし》たちの思惑《おもわく》もしきりに寛斎の心にかかって来た。彼が一歩《ひとあし》踏み出したところは、往来《ゆきき》するものの多い東海道だ。彼は老鶯《ろうおう》の世を忍ぶ風情《ふぜい》で、とぼとぼとした荷馬の※[#「くさかんむり/稾」、197−8]沓《わらぐつ》の音を聞きながら、遠く板橋回りで木曾街道に向かって行った。
[#改頁]

     第五章

       一

 宮川寛斎《みやがわかんさい》が万屋《よろずや》の主人と手代とを神奈川《かながわ》に残して置いて帰国の途に上ったことは、早く美濃《みの》の方へ知れた。中津川も狭い土地だから、それがすぐ弟子《でし》仲間の香蔵や景蔵の耳に入り、半蔵はまた三里ほど離れた木曾《きそ》の馬籠《まごめ》の方で、旧《ふる》い師匠が板橋方面から木曾街道を帰って来ることを知った。
 横浜開港の影響は諸国の街道筋にまであらわれて来るころだ。半蔵は馬籠の本陣にいて、すでに幾たびか銭相場引き上げの声を聞き、さらにまた小判《こばん》買いの声を聞くようになった。古二朱金、保字金なぞの当時に残存した古い金貨の買い占めは地方でも始まった。きのうは馬籠|桝田屋《ますだや》へ江州《ごうしゅう》辺の買い手が来て貯《たくわ》え置きの保金小判を一両につき一両三分までに買い入れて行ったとか、きょうは中津川|大和屋《やまとや》で百枚の保金小判を出して当時通用の新小判二百二十五両を請け取ったとか、そんなうわさが毎日のように半蔵の耳を打った。金一両で二両一分ずつの売買だ。それどころか、二両二分にも、三両にも買い求めるものがあらわれて来た。半蔵が家の隣に住んで昔|気質《かたぎ》で聞こえた伏見屋金兵衛《ふしみやきんべえ》なぞは驚いてしまって、まことに心ならぬ浮世ではある、こんな姿で子孫が繁昌《はんじょう》するならそれこそ大慶の至りだと皮肉を言ったり、この上どうなって行く世の中だろうと不安な語気をもらしたりした。
 半蔵が横浜貿易から帰って来る旧師を心待ちに待ち受けたのは、この地方の動揺の中だ。


 旅人を親切にもてなすことは、古い街道筋の住民が一朝一夕に養い得た気風でもない。椎《しい》の葉に飯《いい》を盛ると言った昔の人の旅情は彼らの忘れ得ぬ歌であり、路傍に立つ古い道祖神《どうそじん》は子供の時分から彼らに旅人愛護の精神をささやいている。いたるところに山嶽《さんがく》は重なり合い、河川はあふれやすい木曾のような土地に住むものは、ことにその心が深い。当時における旅行の困難を最もよく知るものは、そういう彼ら自身なのだ。まして半蔵にして見れば、以前に師匠と頼んだ人、平田入門の紹介までしてくれた人が神奈川から百里の道を踏んで、昼でも暗いような木曾の森林の間を遠く疲れて帰って来ようという旅だ。
 半蔵は旧師を待ち受ける心で、毎日のように街道へ出て見た。彼も隣宿|妻籠《つまご》本陣の寿平次《じゅへいじ》と一緒に、江戸から横須賀《よこすか》へかけての旅を終わって帰って来てから、もう足掛け三年になる。過ぐる年の大火のあとをうけて馬籠の宿《しゅく》もちょうど復興の最中であった。幸いに彼の家や隣家の伏見屋は類焼をまぬかれたが、町の向こう側はすっかり焼けて、まっ先に普請《ふしん》のできた問屋《といや》九太夫《くだゆう》の家も目に新しい。
 旧師の横浜|出稼《でかせ》ぎについては、これまでとても弟子たちの間に問題とされて来たことだ。どうかして晩節を全うするように、とは年老いた師匠のために半蔵らの願いとするところで、最初横浜行きのうわさを耳にした時に、弟子たちの間には寄り寄りその話が出た。わざわざ断わって行く必要もなかったと師匠に言われれば、それまでで、往《い》きにその沙汰《さた》がなかったにしても、帰りにはなんとか話があろうと語り合っていた。すくなくも半蔵の心には、あの旧師が自分の家には立ち寄ってくれてせめて弟子だけにはいろいろな打ち明け話があるものと思っていた。
 四月の二十二日には、寛斎も例の馬荷一|駄《だ》に宰領の付き添いで、片側に新しい家の並んだ馬籠の坂道を峠の方から下って来た。寛斎は伏見屋の門口に馬を停《と》め、懇意な金兵衛方に亡《な》くなった鶴松《つるまつ》の悔やみを言い入れ、今度横浜を引き上げるについては二千四百両からの金を預かって来たこと、万屋安兵衛らの帰国はたぶん六月になろうということ、生糸売り上げも多分の利得のあること、開港場での
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