》の説を唱えた二人の幕僚、藤田東湖《ふじたとうこ》、戸田蓬軒《とだほうけん》なども遠見《とおみ》のきく御隠居の見識に服して、自分らの説を改めるようになった。そこへ安政の大地震が来た。一藩の指導者は二人とも圧死を遂げた。御隠居は一時に両《ふた》つの翼を失ったけれども、その老いた精神はますます明るいところへ出て行った。御隠居の長い生涯《しょうがい》のうちでも岩瀬肥後にあったころは特別の時代で、御隠居自身の内部に起こって来た外国というものの考え直しもその時代に行なわれた。
しかし、岩瀬肥後にとっては、彼が一生のつまずきになるほどの一大珍事が出来《しゅったい》した。十三代将軍(徳川|家定《いえさだ》)は生来多病で、物言うことも滞りがちなくらいであった。どうしてもよい世嗣《よつ》ぎを定めねばならぬ。この多事な日に、内は諸藩の人心を鎮《しず》め、外は各国に応じて行かねばならぬ。徳川宗室を見渡したところ、その任に耐えそうなものは、一橋慶喜《ひとつばしよしのぶ》のほかにない。ことに一代の声望並ぶもののないような水戸の御隠居が現にその父親であるのだから、諸官一同申し合わせて、慶喜擁立のことを上請することになった。岩瀬肥後はその主唱者なのだ。水戸はもとより、京都方面まで異議のあろうはずもない。ところがこれには反対の説が出て、血統の近い紀州|慶福《よしとみ》を立てるのが世襲伝来の精神から見て正しいと唱え出した。その声は大奥の深い簾《すだれ》の内からも出、水戸の野心と陰謀を疑う大名有司の仲間からも出た。この形勢をみて取った岩瀬肥後は、血統の近いものを立てるという声を排斥して、年長で賢いものを立てるのが今日《こんにち》の急務であると力説し、老中|奉行《ぶぎょう》らもその説に賛成するものが多く、それを漏れ聞いた国内の有志者たちも皆大いに喜んで、太陽はこれから輝こうと言い合いながら、いずれもその時の来るのを待ち望んだ。意外にも、その上請をしないうちに、将軍は脚気《かっけ》にかかって、わずか五年を徳川十三代の一期として、にわかに薨去《こうきょ》した。岩瀬肥後の極力排斥した慶福《よしとみ》擁立説がまた盛り返して来た日を迎えて見ると、そこに将軍の遺旨を奉じて起《た》ち上がったのが井伊大老その人であったのだ。
岩瀬肥後の政治|生涯《しょうがい》はその時を終わりとした。水戸の御隠居を始めとして、尾州、越前、土州の諸大名、およそ平生《へいぜい》彼の説に賛成したものは皆江戸城に集まって大老と激しい議論があったが、大老は一切きき入れなかった。安政大獄の序幕はそこから切って落とされた。彼はもとより首唱の罪で、きびしい譴責《けんせき》を受けた。屏《しりぞ》けられ、すわらせられ、断わりなしに人と往来《ゆきき》することすら禁ぜられた。その時の大老の言葉に、岩瀬輩が軽賤《けいせん》の身でありながら柱石たるわれわれをさし置いて、勝手に将軍の継嗣問題なぞを持ち出した。その罪は憎むべき大逆無道にも相当する。それでも極刑に処せられなかったのは、彼も日本国の平安を謀《はか》って、計画することが図に当たり、その尽力の功労は埋《うず》められるものでもないから、非常な寛典を与えられたのであると。
瑞見に言わせると、今度江戸へ出て来て見ても、水戸の御隠居はじめ大老と意見の合わないものはすべて斥《しりぞ》けられている。諸司諸役ことごとく更替して、大老の家の子郎党ともいうべき人たちで占められている。驚くばかりさかんな大老の権威の前には、幕府内のものは皆|屏息《へいそく》して、足を累《かさ》ねて立つ思いをしているほどだ。岩瀬肥後も今は向島《むこうじま》に蟄居《ちっきょ》して、客にも会わず、号を鴎所《おうしょ》と改めてわずかに好きな書画なぞに日々の憂《う》さを慰めていると聞く。
「幕府のことはもはや語るに足るものがない。」
と瑞見は嘆息して、その意味から言っても、罪せられた岩瀬肥後を憐《あわれ》んだ。そういう瑞見は、彼自身も思いがけない譴責《けんせき》を受けて、蝦夷《えぞ》移住を命ぜられたのがすこし早かったばかりに、大獄事件の巻き添えを食わなかったというまでである。
十一屋の隠居は瑞見よりも一歩《ひとあし》先に江戸の方へ帰って行った。瑞見の方は腹具合を悪くして、寛斎の介抱などを受けていたために、神奈川を立つのが二、三日おくれた。
瑞見は蝦夷《えぞ》から同行して来た供の男を連れて、寛斎にも牡丹屋《ぼたんや》の亭主《ていしゅ》にも別れを告げる時に言った。
「わたしもまた函館《はこだて》の方へ行って、昼寝でもして来ます。」
こんな言葉を残した。
客を送り出して見ると、寛斎は一層さびしい日を暮らすようになった。毎晩のように彗星《すいせい》が空にあらわれて怪しい光を放つのは、あれは何かの前兆を語るものであろうなどと、人のうわさにろくなことはない。水戸藩へはまた秘密な勅旨が下った、その使者が幕府の厳重な探偵《たんてい》を避けるため、行脚僧《あんぎゃそう》に姿を変えてこの東海道を通ったという流言なぞも伝わって来る。それを見て来たことのようにおもしろがって言い立てるものもある。攘夷《じょうい》を意味する横浜襲撃が諸浪士によって企てられているとのうわさも絶えなかった。
暖かい雨は幾たびか通り過ぎた。冬じゅうどこかへ飛び去っていた白い鴉《からす》は、また横浜海岸に近い玉楠《たまぐす》の樹《き》へ帰って来る。旧暦三月の季節も近づいて来た。寛斎は中津川の商人らをしきりに待ち遠しく思った。例の売り込み商を訪《たず》ねるたびに、貿易諸相場は上値《うわね》をたどっているとのことで、この調子で行けば生糸六十五匁か七十匁につき金一両の相場もあらわれようとの話が出る。江州《ごうしゅう》、甲州、あるいは信州|飯田《いいだ》あたりの生糸商人も追い追い入り込んで来る模様があるから、なかなか油断はならないとの話もある。神奈川在留の外国商人――中にもイギリス人のケウスキイなどは横浜の将来を見込んで、率先して木造建築の商館なりと打ち建てたいとの意気込みでいるとの話もある。
「万屋《よろずや》さんも、だいぶごゆっくりでございますね。」
と牡丹屋の亭主は寛斎を見に裏二階へ上がって来るたびに言った。
三月三日の朝はめずらしい大雪が来た。寛斎が廊下に出てはながめるのを楽しみにする椎《しい》の枝なぞは、夜から降り積もる雪に圧《お》されて、今にも折れそうなくらいに見える。牡丹屋では亭主の孫にあたるちいさな女の子のために初節句を祝うと言って、その雪の中で、白酒だ豆煎《まめい》りだと女中までが大騒ぎだ。割子《わりご》弁当に重詰め、客|振舞《ぶるまい》の酒肴《さけさかな》は旅に来ている寛斎の膳《ぜん》にまでついた。
その日一日、寛斎は椎の枝から溶け落ちる重い音を聞き暮らした。やがてその葉が雪にぬれて、かえって一層の輝きを見せるころには、江戸方面からの人のうわさが桜田門《さくらだもん》外の変事を伝えた。
刺客およそ十七人、脱藩除籍の願書を藩邸に投げ込んで永《なが》の暇《いとま》を告げたというから、浪人ではあるが、それらの水戸の侍たちが井伊大老の登城を待ち受けて、その首級を挙《あ》げた。この変事は人の口から口へと潜むように伝わって来た。刺客はいずれも斬奸《ざんかん》主意書というを懐《ふところ》にしていたという。それには大老を殺害すべき理由を弁明してあったという。
「あの喜多村先生なぞが蝦夷《えぞ》の方で聞いたら、どんな気がするだろう。」
と言って、思わず寛斎は宿の亭主と顔を見合わせた。
井伊大老の横死《おうし》は絶対の秘密とされただけに、来たるべき時勢の変革を予想させるかのような底気味の悪い沈黙が周囲を支配した。首級を挙げられた大老をよく言う人は少ない。それほどの憎まれ者も、亡《な》くなったあとになって見ると、やっぱり大きい人物であったと、一方には言い出した人もある。なるほど、生前の大老はとかくの評判のある人ではあったが、ただ、他人にまねのできなかったことが一つある。外国交渉のことにかけては、天朝の威をも畏《おそ》れず、各藩の意見のためにも動かされず、断然として和親通商を許した上で、それから上奏の手続きを執った。この一事は天地も容《い》れない大罪を犯したように評するものが多いけれども、もしこの決断がなかったら、日本国はどうなったろう。軽く見積もって蝦夷はもとより、対州《つしま》も壱岐《いき》も英米仏露の諸外国に割《さ》き取られ、内地諸所の埠頭《ふとう》は随意に占領され、その上に背負《しょ》い切れないほどの重い償金を取られ、シナの道光《どうこう》時代の末のような姿になって、独立の体面はとても保たれなかったかもしれない。大老がこの至険至難をしのぎ切ったのは、この国にとっての大功と言わねばなるまい。こんなふうに言う人もあった。ともあれ、大老は徳川世襲伝来の精神をささえていた大極柱《だいこくばしら》の倒れるように倒れて行った。この報知《しらせ》を聞く彦根《ひこね》藩士の憤激、続いて起こって来そうな彦根と水戸両藩の葛藤《かっとう》は寛斎にも想像された。前途は実に測りがたかった。
神奈川付近から横浜へかけての町々の警備は一層厳重をきわめるようになった。鶴見《つるみ》の橋詰めには杉《すぎ》の角柱《かくばしら》に大貫《おおぬき》を通した関門が新たに建てられた。夜になると、神奈川にある二か所の関門も堅く閉ざされ、三つ所紋の割羽織《わりばおり》に裁付袴《たっつけばかま》もいかめしい番兵が三人の人足を先に立てて、外国諸領事の仮寓《かぐう》する寺々から、神奈川台の異人屋敷の方までも警戒した。町々は夜ふけて出歩く人も少なく、あたりをいましめる太鼓の音のみが聞こえた。
五
ようやく、その年の閏《うるう》三月を迎えるころになって、※[#「□<万」、屋号を示す記号、191−2](角万《かくまん》)とした生糸の荷がぽつぽつ寛斎のもとに届くようになった。寛斎は順に来るやつを預かって、適当にその始末をしたが、木曾街道の宿場宿場を経て江戸回りで届いた荷を見るたびに、中津川商人が出向いて来る日の近いことを思った。毎日のように何かの出来事を待ち受けさせるかのような、こんな不安な周囲の空気の中で、よくそれでも生糸の荷が無事に着いたとも思った。
万屋安兵衛《よろずややすべえ》が手代の嘉吉《かきち》を連れて、美濃《みの》の方を立って来たのは同じ月の下旬である。二人《ふたり》はやはり以前と同じ道筋を取って、江戸両国の十一屋泊まりで、旧暦四月にはいってから神奈川の牡丹屋《ぼたんや》に着いた。
にわかに寛斎のまわりもにぎやかになった。旅の落《おと》し差《ざし》を床の間に預ける安兵衛もいる。部屋《へや》の片すみに脚絆《きゃはん》の紐《ひも》を解く嘉吉もいる。二人は寛斎の聞きたいと思う郷里の方の人たちの消息――彼の妻子の消息、彼の知人の消息、彼の旧《ふる》い弟子《でし》たちの消息ばかりでなく、何かこう一口には言ってしまえないが、あの東美濃の盆地の方の空気までもなんとなく一緒に寛斎のところへ持って来た。
寛斎がたったりすわったりしているそばで、嘉吉は働き盛りの手代らしい調子で、
「宮川先生も、ずいぶんお待ちになったでしょう。なにしろ春蚕《はるご》の済まないうちは、どうすることもできませんでした。糸はでそろいませんし。」
と言うと、安兵衛も寛斎をねぎらい顔に、
「いや、よく御辛抱《ごしんぼう》が続きましたよ。こんなに長くなるんでしたら、一度国の方へお帰りを願って、また出て来ていただいてもとは思いましたがね。」
百里の道を往復して生糸商売でもしようという安兵衛には、さすがに思いやりがある。
「どうしても、だれか一人《ひとり》こっちにいないことには、浜の事情もよくわかりませんし、人任せでは安心もなりませんし――やっぱり先生に残っていていただいてよかったと思いました。」
とも安兵衛は言い添えた。
やがて灯《ひ》ともしごろであった。三人は久しぶりで一緒に食事を
前へ
次へ
全48ページ中26ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング