丁目の間で船員と商人との二人のオランダ人が殺された。それほど横浜の夜は暗い。外国人の入り込む開港場へ海から何か這《は》うようにやって来る闇《やみ》の恐ろしさは、それを経験したものでなければわからない。彼は瑞見のような人をめずらしく案内して、足もとの明るいうちに牡丹屋へ帰って来てよかったと考えた。
「お夕飯のおしたくができましてございます。」
という女中に誘われて、寛斎もその晩は例になく庭に向いた階下の座敷へ降りた。瑞見や十一屋の隠居なぞとそこで一緒になった。
「喜多村先生や宮川先生の前ですが、横浜の遊女屋にはわたしもたまげました。」と言い出すのは十一屋だ。
「すこし繁昌《はんじょう》して来ますと、すぐその土地にできるものは飲食店と遊郭です。」と牡丹屋の亭主も夕飯時の挨拶《あいさつ》に来て、相槌《あいづち》を打つ。
牛鍋《ぎゅうなべ》は庭で煮た。女中が七輪《しちりん》を持ち出して、飛び石の上でそれを煮た。その鍋を座敷へ持ち込むことは、牡丹屋のお婆《ばあ》さんがどうしても承知しなかった。
「臭い、臭い。」
奥の方では大騒ぎする声すら聞こえる。
「ここにも西洋ぎらいがあると見えますね。」
と瑞見が笑うと、亭主はしきりに手をもんで、
「いえ、そういうわけでもございませんが、吾家《うち》のお袋なぞはもう驚いております。牛の臭気《におい》がこもるのは困るなんて、しきりにそんなことを申しまして。この神奈川には、あなた、肉屋の前を避《よ》けて通るような、そんな年寄りもございます。」
その時、寛斎は自分でも好きな酒をはじめながら、瑞見の方を見ると、客も首を延ばし、なみなみとついである方へとがらした口唇《くちびる》を持って行く盃《さかずき》の持ち方からしてどうもただではないので、この人は話せると思った。
「こんな話がありますよ。」と瑞見は思い出したように、「あれは一昨年《おととし》の七月のことでしたか、エルジンというイギリスの使節が蒸汽船を一|艘《そう》幕府に献上したいと言って、軍艦で下田から品川まで来ました。まあ品川の人たちとしてはせっかくの使節をもてなすという意味でしたろう。その翌日に、品川の遊女を多勢で軍艦まで押しかけさしたというものです。さすがに向こうでも面くらったと見えて、あとになっての言い草がいい。あれは何者だ、いったい日本人は自分の国の女をどう心得ているんだろうッて、いかにもイギリス人の言いそうなことじゃありませんか。」
「先生。」と十一屋は膝《ひざ》を乗り出した。「わたしはまたこういう話を聞いたことがあります。こっちの女が歯を染めたり、眉《まゆ》を落としたりしているのを見ると、西洋人は非常にいやな気がするそうですね。ほんとうでしょうか。まあ、わたしたちから見ると、優しい風俗だと思いますがなあ。」
「気味悪く思うのはお互いでしょう。事情を知らない連中と来たら、いろいろなことをこじつけて、やれ幕府の上役のものは西洋人と結託しているの、なんのッて、悪口ばかり。鎖攘《さじょう》、鎖攘(鎖港攘夷の略)――あの声はどうです。わたしに言わせると、幕府が鎖攘を知らないどころか、あんまり早く鎖攘し過ぎてしまった。蕃書《ばんしょ》は禁じて読ませない、洋学者は遠ざけて近づけない、その方針をよいとしたばかりじゃありません、国内の人材まで鎖攘してしまった。御覧なさい、前には高橋作左衛門を鎖攘する。土生玄磧《はぶげんせき》を鎖攘する。後には渡辺華山《わたなべかざん》、高野長英《たかのちょうえい》を鎖攘する。その結果はと言うと、日本国じゅうを実に頑固《がんこ》なものにしちまいました。外国のことを言うのも恥だなんて思わせるようにまで――」
「先生、肉が煮えました。」
と十一屋は瑞見の話をさえぎった。
女中が白紙を一枚ずつ客へ配りに来た。肉を突ッついた箸《はし》はその紙に置いてもらいたいとの意味だ。煮えた牛鍋《ぎゅうなべ》は庭から縁側の上へ移された。奥の部屋《へや》に、牡丹屋の家の人たちがいる方では、障子《しょうじ》をあけひろげるやら、こもった空気を追い出すやらの物音が聞こえる。十一屋はそれを聞きつけて、
「女中さん、そう言ってください。今にこちらのお婆さんでも、おかみさんでも、このにおいをかぐと飛んで来るようになりますよッて。」
十一屋の言い草だ。
「どれ、わたしも一つ薬食《くすりぐ》いとやるか。」
と寛斎は言って、うまそうに煮えた肉のにおいをかいだ。好きな酒を前に、しばらく彼も一切を忘れていた。盃の相手には、こんな頼もしい人物も幕府方にあるかと思われるような客がいる。おまけに、初めて味わう肉もある。
四
当時、全国に浪《なみ》打つような幕府非難の声からすれば、横浜や函館の港を開いたことは幕府の大失策である。東西人種の相違、道徳の相違、風俗習慣の相違から来るものを一概に未開野蛮として、人を食った態度で臨んで来るような西洋人に、そうやすやすとこの国の土を踏ませる法はない。開港が東照宮の遺志にそむくはおろか、朝廷尊崇の大義にすら悖《もと》ると歯ぎしりをかむものがある。
しかし、瑞見に言わせると、幕府のことほど世に誤り伝えられているものはない。開港の事情を知るには、神奈川条約の実際の起草者なる岩瀬肥後守《いわせひごのかみ》に行くに越したことはない。それにはまず幕府で監察(目付《めつけ》)の役を重んじたことを知ってかかる必要がある。
監察とは何か。この役は禄《ろく》もそう多くないし、位もそう高くない。しかし、諸司諸職に関係のないものはないくらいだから、きわめて権威がある。老中はじめ三奉行の重い役でも、監察の同意なしには事を決めることができない。どうかして意見のちがうのを顧みずに断行することがあると、監察は直接に将軍なり老中なりに面会して思うところを述べ立てても、それを止めることもできない。およそ人の昇進に何がうらやましがられるかと言って、監察の右に出るものはない。その人を得ると得ないとで一代の盛衰に関する役目であることも想《おも》い知られよう。嘉永《かえい》年代、アメリカの軍艦が渡って来た日のように、外国関係の一大事変に当たっては、幕府の上のものも下のものも皆強い衝動を受けた。その衝動が非常な任撰《にんせん》を行なわせた。人材を登庸《とうよう》しなければだめだということを教えたのも、またその刺激だ。従来親子共に役に就《つ》いているものがあれば、子は賢くても父に超《こ》えることはできなかったのが旧《ふる》い規則だ。それを改めて、三人のものが監察に抜擢《ばってき》せられた。その中の一人《ひとり》が岩瀬肥後なのだ。
岩瀬肥後は名を忠震《ただなり》といい、字《あざな》を百里という。築地《つきじ》に屋敷があったところから、号を蟾州《せんしゅう》とも言っている。心あるものはいずれもこの人を推して、幕府内での第一の人とした。たとえばオランダから観光船を贈って来た時に矢田堀景蔵《やたぼりけいぞう》、勝麟太郎《かつりんたろう》なぞを小普請役《こぶしんやく》から抜いて、それぞれ航海の技術を学ばせたのも彼だ。下曽根金三郎《しもそねきんざぶろう》、江川太郎左衛門《えがわたろうざえもん》には西洋の砲術を訓練させる。箕作阮甫《みつくりげんぽ》、杉田玄端《すぎたげんたん》には蕃書取調所《ばんしょとりしらべしょ》の教育を任せる。そういう類《たぐい》のことはほとんど数えきれない。松平河内《まつだいらかわち》、川路左衛門《かわじさえもん》、大久保右近《おおくぼうこん》、水野筑後《みずのちくご》、その他の長老でも同輩でも、いやしくも国事に尽くす志のあるものには誠意をもって親しく交わらないものはなかったくらいだ。各藩の有為な人物をも延《ひ》いて、身をもって時代に当たろうとしたのも彼だ。
瑞見に言わせると、幕府有司のほとんどすべてが英米仏露をひきくるめて一概に毛唐人《けとうじん》と言っていたような時に立って、百方その間を周旋し、いくらかでも明るい方へ多勢を導こうとしたものの摧心《さいしん》と労力とは想像も及ばない。岩瀬肥後はそれを成した人だ。最初の米国領事ハリスが来航して、いよいよ和親貿易の交渉を始めようとした時、幕府の有司はみな尻込《しりご》みして、一人として背負《しょ》って立とうとするものがない。皆手をこまねいて、岩瀬肥後を推した。そこで彼は一身を犠牲にする覚悟で、江戸と下田の間を往復して、数か月もかかった後にようやく草稿のできたのが安政の年の条約だ。
草稿はできた。諸大名は江戸城に召集された。その時、井伊大老が出《い》で、和親貿易の避けがたいことを述べて、委細は監察の岩瀬肥後に述べさせるから、とくときいたあとで諸君各自の意見を述べられるようにと言った。そこで大老は退いて、彼が代わって諸大名の前に進み出た。その時の彼の声はよく徹《とお》り、言うこともはっきりしていて、だれ一人異議を唱えるものもない。いずれも時宜に適《かな》った説だとして、よろこんで退出した。ところが数日後に諸大名各自の意見書を出すころになると、ことごとく前の日に言ったことを覆《くつがえ》して、彼の説を破ろうとするものが出て来た。それは多く臣下の手に成ったものだ。君侯といえどもそれを制することができなかったのだ。そこで彼は水戸《みと》の御隠居や、尾州《びしゅう》の徳川|慶勝《よしかつ》や、松平|春嶽《しゅんがく》、鍋島閑叟《なべしまかんそう》、山内|容堂《ようどう》の諸公に説いて、協力して事に当たることを求めた。岩瀬肥後の名が高くなったのもそのころからだ。
しかし、条約交渉の相手方なるヨーロッパ人が次第に態度を改めて来たことをも忘れてはならない。来るものも来るものも、皆ペリイのような態度の人ばかりではなかったのだ。アメリカ領事ハリス、その書記ヒュウスケン、イギリスの使節エルジン、その書記オリファント、これらの人たちはいずれも日本を知り、日本の国情というものをも認めた。中には、日本に来た最初の印象は思いがけない文明国の感じであったとさえ言った人もある。すべてこれらの事情は、岩瀬肥後のようにその局に当たった人以外には多く伝わらない。それにつけても、彼にはいろいろな逸話がある。彼が頭脳《あたま》のよかった証拠には、イギリスの使節らが彼の聰明《そうめい》さに驚いたというくらいだ。彼はイギリス人からきいた言葉を心覚えに自分の扇子《せんす》に書きつけて置いて、その次ぎの会見のおりには、かなり正確にその英語を発音したという。イギリスの方では、また彼のすることを見て、日本の扇子は手帳にもなり、風を送る器《うつわ》にもなり、退屈な時の手慰みにもなると言ったという話もある。
もともと水戸の御隠居はそう頑《かたくな》な人ではない。尊王攘夷《そんのうじょうい》という言葉は御隠居自身の筆に成る水戸弘道館の碑文から来ているくらいで、最初のうちこそ御隠居も外国に対しては、なんでも一つ撃《う》ち懲《こら》せという方にばかり志《こころざし》を向けていたらしいが、だんだん岩瀬肥後の説を聞いて大いに悟られるところがあった。御隠居はもとより英明な生まれつきの人だから、今日《こんにち》の外国は古《いにしえ》の夷狄《いてき》ではないという彼の言葉に耳を傾けて、無謀の戦いはいたずらにこの国を害するに過ぎないことを回顧するようになった。その時、御隠居は彼に一つのたとえ話を告げた。ここに一人の美しい娘がある。その娘にしきりに結婚を求めるものがある。再三拒んで容易に許さない。男の心がますます動いて来た時になって、始めて許したら、その二人《ふたり》の愛情はかえって濃《こま》やかで、多情な人のすみやかに受けいれるものには勝《まさ》ろうというのである。実際、あの御隠居が断乎《だんこ》として和親貿易の変更すべきでないことを彼に許した証拠には、こんな娘のたとえを語ったのを見てもわかる。御隠居がすでにこのとおり、外交のやむを得ないことを認めて、他の親藩にも外様《とざま》の大名にも説き勧めるくらいだ。それまで御隠居を動かして鎖攘《さじょう
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