かも夢のように、寛斎の視野のうちにはいって来るものがある。日本最初の使節を乗せた咸臨丸《かんりんまる》がアメリカへ向けて神奈川沖を通過した時だ。徳川幕府がオランダ政府から購《か》い入れたというその小さな軍艦は品川沖から出帆して来た。艦長木村|摂津守《せっつのかみ》、指揮官|勝麟太郎《かつりんたろう》をはじめ、運用方、測量方から火夫水夫まで、一切西洋人の手を借りることなしに、オランダ人の伝習を受け初めてからようやく五年にしかならない航海術で、とにもかくにも大洋を乗り切ろうという日本人の大胆さは、寛斎を驚かした。薩摩《さつま》の沖で以前に難船して徳川政府の保護を受けていたアメリカの船員らも、咸臨丸で送りかえされるという。その軍艦は港の出入りに石炭を焚《た》くばかり、航海中はただ風をたよりに運転せねばならないほどの小型のものであったから、煙も揚げずに神奈川沖を通過しただけが、いささか物足りなかった。大変な評判で、神奈川台の上には人の黒山を築いた。不案内な土地の方へ行くために、使節の一行は何千何百足の草鞋《わらじ》を用意して行ったかしれないなぞといううわさがそのあとに残った。当時二十六、七歳の青年|福沢諭吉《ふくざわゆきち》が木村摂津守のお供という格で、その最初の航海に上って行ったといううわさなぞも残った。
二月にはいって、寛斎は江戸両国十一屋の隠居から思いがけない便《たよ》りを受け取った。それには隠居が日ごろ出入りする幕府|奥詰《おくづめ》の医師を案内して、横浜見物に出向いて来るとある。その節は、よろしく頼むとある。
旅の空で寛斎が待ち受けた珍客は、喜多村瑞見《きたむらずいけん》と言って、幕府奥詰の医師仲間でも製薬局の管理をしていた人である。汽船観光丸の試乗者募集のあった時、瑞見もその募りに応じようとしたが、時の御匙法師《おさじほうし》ににらまれて、譴責《けんせき》を受け、蝦夷《えぞ》移住を命ぜられたという閲歴をもった人である。この瑞見は二年ほど前に家を挙《あ》げ蝦夷の方に移って、函館《はこだて》開港地の監督なぞをしている。今度函館から江戸までちょっと出て来たついでに、新開の横浜をも見て行きたいというので、そのことを十一屋の隠居が通知してよこしたのだ。
瑞見は供の男を一人《ひとり》連れ、十一屋の隠居を案内にして、天気のよい日の夕方に牡丹屋《ぼたんや》へ着いた。神奈川には奉行《ぶぎょう》組頭《くみがしら》もある、そういう役人の家よりもわざわざ牡丹屋のような古い旅籠屋《はたごや》を選んで微行で瑞見のやって来たことが寛斎をよろこばせた。あって見ると、思いのほか、年も若い。三十二、三ぐらいにしか見えない。
「きょうのお客さまは名高い人ですが、お目にかかって見ると、まだお若いかたのようですね。」
と牡丹屋の亭主《ていしゅ》が寛斎の袖《そで》を引いて言ったくらいだ。
翌日は寛斎と牡丹屋の亭主とが先に立って、江戸から来た三人をまず神奈川台へ案内し、黒い館門《やかたもん》の木戸を通って、横浜道へ向かった。番所のあるところから野毛山《のげやま》の下へ出るには、内浦に沿うて岸を一回りせねばならぬ。程《ほど》ヶ谷《や》からの道がそこへ続いて来ている。野毛には奉行の屋敷があり、越前《えちぜん》の陣屋もある。そこから野毛橋を渡り、土手通りを過ぎて、仮の吉田橋から関内《かんない》にはいった。
「横浜もさびしいところですね。」
「わたしの来た時分には、これよりもっとさびしいところでした。」
瑞見と寛斎とは歩きながら、こんな言葉をかわして、高札場《こうさつば》の立つあたりから枯れがれな太田新田の間の新道を進んだ。
瑞見は遠く蝦夷《えぞ》の方で採薬、薬園、病院、疏水《そすい》、養蚕等の施設を早く目論《もくろ》んでいる時で、函館の新開地にこの横浜を思い比べ、牡丹屋の亭主を顧みてはいろいろと土地の様子をきいた。当時の横浜関内は一羽の蝶《ちょう》のかたちにたとえられる。海岸へ築《つ》き出した二か所の波止場《はとば》はその触角であり、中央の運上所付近はそのからだであり、本町通りと商館の許可地は左右の翅《はね》にあたる。一番左の端にある遊園で、樹木のしげった弁天の境内《けいだい》は、蝶の翅に置く唯一の美しい斑紋《はんもん》とも言われよう。しかしその翅の大部分はまだ田圃《たんぼ》と沼地だ。そこには何か開港一番の思いつきででもあるかのように、およそ八千坪からの敷地から成る大規模な遊女屋の一郭もひらけつつある。横浜にはまだ市街の連絡もなかったから、一丁目ごとに名主を置き、名主の上に総年寄を置き、運上所わきの町会所で一切の用事を取り扱っていると語り聞かせるのも牡丹屋の亭主だ。
やがて、その日同行した五人のものは横浜海岸通りの波止場に近いところへ出た。西洋の船にならって造った二本マストもしくは一本マストの帆前船《ほまえせん》から、従来あった五大力《ごだいりき》の大船、種々な型の荷船、便船、漁《いさ》り船《ぶね》、小舟まで、あるいは碇泊《ていはく》したりあるいは動いたりしているごちゃごちゃとした光景が、鴉《からす》の群れ飛ぶ港の空気と煙とを通してそこに望まれた。二か所の波止場、水先案内の職業、運上所で扱う税関と外交の港務などは、全く新しい港のために現われて来たもので、ちょうど入港した一|艘《そう》の外国船も周囲の単調を破っている。
その時、牡丹屋の亭主は波止場の位置から、向こうの山下の方角を瑞見や寛斎にさして見せ、旧横浜村の住民は九十戸ばかりの竈《かまど》を挙《あ》げてそちらの方に退却を余儀なくされたと語った。それほどこの新開地に内外人の借地の請求が頻繁《ひんぱん》となって来た意味を通わせた。大岡川《おおおかがわ》の川尻《かわじり》から増徳院わきへかけて、長さ五百八十間ばかりの堀川《ほりかわ》の開鑿《かいさく》も始まったことを語った。その波止場の位置まで行くと、海から吹いて来る風からして違う。しばらく瑞見は入港した外国船の方を望んだまま動かなかった。やがて、寛斎を顧みて、
「やっぱりよくできていますね。同じ汽船でも外国のはどこか違いますね。」
「喜多村先生のお供はかなわない。」とその時、十一屋の隠居が横槍《よこやり》を入れた。
「どうしてさ。」
「いつまででも船なぞをながめていらっしゃるから。」
「しかし、十一屋さん、早くわれわれの国でもああいうよい船を造りたいじゃありませんか。今じゃ薩州《さっしゅう》でも、土州《としゅう》でも、越前《えちぜん》でも、二、三|艘《そう》ぐらいの汽船を持っていますよ。それがみんな外国から買った船ばかりでさ。十一屋さんは昌平丸《しょうへいまる》という船のことをお聞きでしたろうか。あれは安政二年の夏に、薩州侯が三本マストの大船を一艘造らせて、それを献上したものでさ。幕府に三本マストの大船ができたのは、あれが初めてだと思います。ところが、どうでしょう。昌平丸を作る時分には、まだ螺旋釘《ねじくぎ》を使うことを知らない。まっすぐな釘《くぎ》ばかりで造ったもんですから、大風雨《おおあらし》の来た年に、品川沖でばらばらに解けてこわれてしまいました。」
「先生はなかなかくわしい。」
「函館の方にだって、二本マストの帆前船がまだ二艘しかできていません。一艘は函館丸。もう一艘の船の方は亀田丸《かめだまる》。高田屋嘉兵衛《たかだやかへえ》の呼び寄せた人で、豊治《とよじ》という船大工があれを造りましたがね。」
「先生は函館で船の世話までなさるんですか。」
「まあ、そんなものでさ。でも、こんな藪《やぶ》医者にかかっちゃかなわないなんて、函館の方の人は皆そう言っていましょうよ。」
この「藪医者」には、そばに立って聞いている寛斎もうなった。
入港した外国船を迎え顔な西洋人なぞが、いつのまにか寛斎らの周囲に集まって来た。波止場には九年母《くねんぼ》の店をひろげて売っている婆《ばあ》さんがある。そのかたわらに背中の子供をおろして休んでいる女がある。道中差《どうちゅうざし》を一本腰にぶちこんで、草鞋《わらじ》ばきのまま、何か資本《もとで》のかからない商売でも見つけ顔に歩き回っている男もある。おもしろい丸帽をかぶり、辮髪《べんぱつ》をたれ下げ、金入れらしい袋を背負《しょ》いながら、上陸する船客を今か今かと待ち受けているようなシナ人の両替商《りょうがえしょう》もある。
見ると、定紋《じょうもん》のついた船印《ふなじるし》の旗を立てて、港の役人を乗せた船が外国船から漕《こ》ぎ帰って来た。そのあとから、二、三の艀《はしけ》が波に揺られながら岸の方へ近づいて来た。横浜とはどんなところかと内々想像して来たような目つきのもの、全く生《お》い立ちを異にし気質を異にしたようなもの、本国から来たもの、東洋の植民地の方から来たもの、それらの雑多な冒険家が無遠慮に海から陸《おか》へ上がって来た。いずれも生命《いのち》がけの西洋人ばかりだ。上陸するものの中にはまだ一人《ひとり》の婦人を見ない。中には、初めて日本の土を踏むと言いたそうに、連れの方を振り返るものもある。叔父《おじ》甥《おい》なぞの間柄かと見えて、迎えるものと迎えらるるものとが男同志互いに抱き合うのもある。その二人《ふたり》は、寛斎や瑞見の見ている前で、熱烈な頬《ほお》ずりをかわした。
瑞見はなかなかトボケた人で、この横浜を見に来たよりも、実は牛肉の試食に来たと白状する。こんな注文を出す客のことで、あちこち引っぱり回されるのは迷惑らしい上に、案内者側の寛斎の方でもなるべく日のあるうちに神奈川へ帰りたかった。いつでも日の傾きかけるのを見ると、寛斎は美濃《みの》の方の空を思い出したからで。
横浜も海岸へ寄った方はすでに区画の整理ができ、新道はその間を貫いていて、町々の角《かど》には必ず木戸を見る。帰り路《みち》には、寛斎らは本町一丁目の通りを海岸の方へ取って、渡し場のあるところへ出た。そこから出る舟は神奈川の宮下というところへ着く。わざわざ野毛山の下の方を遠回りして帰って行かないでも済む。牡丹屋の亭主はその日の夕飯にと言って瑞見から注文のあった肉を横浜の町で買い求めて来て、それをさげながら一緒に神奈川行きの舟に移った。
「横浜も鴉《からす》の多いところですね。」
「蝦夷《えぞ》の方ではゴメです。海の鴎《かもめ》の一種です。あの鳴き声を聞くと、いかにも北海らしい気持ちが起こって来ますよ。そう言えば、この横浜にはもう外国の宣教師も来てるというじゃありませんか。」
「一人。」
「なんでも、神奈川の古いお寺を借りて、去年の秋から来ているアメリカ人があります。ブラウンといいましたっけか。横浜へ着いた最初の宣教師です。狭い土地ですからすぐ知れますね。」
「いったい、切支丹《キリシタン》宗は神奈川条約ではどういうことになりましょう。」
「そりゃ無論内地のものには許されない。ただ、宣教師がこっちへ来ている西洋人仲間に布教するのは自由だということになっていましょう。」
「神奈川へはアメリカの医者も一人来ていますよ。」
「ますます世の中は多事だ。」
だれが語るともなく、だれが答えるともなく、こんな話が舟の中で出た。
牡丹屋へ帰り着いてから、しばらく寛斎は独《ひと》り居る休息の時を持った。例の裏二階から表側の廊下へ出ると、神奈川の町の一部が見える。晩年の彼を待ち受けているような信州|伊那《いな》の豊かな谷と、現在の彼の位置との間には、まだよほどの隔たりがある。彼も最後の「隠れ家《が》」にたどり着くには、どんな寂しい路《みち》でも踏まねばならない。それにしても、安政大獄以来の周囲にある空気の重苦しさは寛斎の心を不安にするばかりであった。ますます厳重になって行く町々の取り締まり方と、志士や浪人の気味の悪いこの沈黙とはどうだ。すでに直接行動に訴えたものすらある。前の年の七月の夜には横浜本町で二人《ふたり》のロシヤの海軍士官が殺され、同じ年の十一月の夕には港崎町《こうざきまち》のわきで仏国領事の雇い人が刺され、最近には本町一丁目と五
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