神奈川の連絡を取ることは、一切寛斎の手にまかせられた。

       二

 十一月を迎えるころには、寛斎は一人牡丹屋の裏二階に残った。
「なんだかおれは島流しにでもなったような気がする。」
 と寛斎は言って、時には孤立のあまり、海の見える神奈川台へ登りに行った。坂になった道を登れば神奈川台の一角に出られる。目にある横浜もさびしかった。あるところは半農半漁の村民を移住させた町であり、あるところは運上所《うんじょうしょ》(税関)を中心に掘立小屋《ほったてごや》の並んだ新開の一区域であり、あるところは埋め立てと繩張《なわば》りの始まったばかりのような畑と田圃《たんぼ》の中である。弁天の杜《もり》の向こうには、ところどころにぽつんぽつん立っている樹木が目につく。全体に湿っぽいところで、まだ新しい港の感じも浮かばない。
 長くは海もながめていられなくて、寛斎は逃げ帰るように自分の旅籠屋《はたごや》へ戻《もど》った。二階の窓で聞く鴉《からす》の声も港に近い空を思わせる。その声は郷里にある妻や、子や、やがては旧《ふる》い弟子《でし》たちの方へ彼の心を誘った。
 古い桐《きり》の机がある。本が置いてある。そのそばには弟子たちが集まっている。馬籠本陣の子息《むすこ》がいる。中津川|和泉屋《いずみや》の子息がいる。中津川本陣の子息も来ている。それは十余年前に三人の弟子の顔のよくそろった彼の部屋《へや》の光景である。馬籠の青山半蔵、中津川の蜂谷《はちや》香蔵、同じ町の浅見景蔵――あの三人を寛斎が戯れに三蔵と呼んで見るのを楽しみにしたほど、彼のもとへ本を読みに通《かよ》って来たかずかずの若者の中でも、末頼もしく思った弟子たちである。ことに香蔵は彼が妻の弟にあたる親戚《しんせき》の間柄でもある。みんなどういう人になって行くかと見ている中にも、半蔵の一本気と正直さと来たら、一度これが自分らの行く道だと見さだめをつけたら、それを改めることも変えることもできないのが半蔵だ。
 考え続けて行くと、寛斎はそばにいない三人の弟子の前へ今の自分を持って行って、何か弁解せずにはいられないような矛盾した心持ちに打たれて来た。
「待てよ、いずれあの連中はおれの出稼《でかせ》ぎを疑問にしているに相違ない。」


「金銀|欲《ほ》しからずといふは、例の漢《から》やうの虚偽《いつわり》にぞありける。」
 この大先達《だいせんだつ》の言葉、『玉かつま』の第十二章にある本居宣長《もとおりのりなが》のこの言葉は、今の寛斎にとっては何より有力な味方だった。金もほしいと思いながら、それをほしくないようなことを言うのは、例の漢学者流の虚偽だと教えてあるのだ。
「だれだって金のほしくないものはない。」
 そこから寛斎のように中津川の商人について、横浜出稼ぎということも起こって来た。本居|大人《うし》のような人には虚心坦懐《きょしんたんかい》というものがある。その人の前にはなんでも許される。しかし、血気|壮《さか》んで、単純なものは、あの寛大な先達のように貧しい老人を許しそうもない。
 そういう寛斎は、本居、平田諸大人の歩いた道をたどって、早くも古代復帰の夢想を抱《いだ》いた一人《ひとり》である。この夢想は、京都を中心に頭を持ち上げて来た勤王家の新しい運動に結びつくべき運命のものであった。彼の教えた弟子の三人が三人とも、勤王家の運動に心を寄せているのも、実は彼が播《ま》いた種だ。今度の大獄に連座《れんざ》した人たちはいずれもその渦中《かちゅう》に立っていないものはない。その中には、六人の婦人さえまじっている。感じやすい半蔵らが郷里の方でどんな刺激を受けているかは、寛斎はそれを予想でありありと見ることができた。
 その時になって見ると、旧《ふる》い師匠と弟子との間にはすでによほどの隔たりがある。寛斎から見れば、半蔵らの学問はますます実行的な方向に動いて来ている。彼も自分の弟子を知らないではない。古代の日本人に見るような「雄心《おごころ》」を振るい起こすべき時がやって来た、さもなくて、この国|創《はじ》まって以来の一大危機とも言うべきこんな艱難《かんなん》な時を歩めるものではないという弟子の心持ちもわかる。
 新たな外来の勢力、五か国も束になってやって来たヨーロッパの前に、はたしてこの国を解放したものかどうかのやかましい問題は、その時になってまだ日本国じゅうの頭痛の種になっていた。先入主となった黒船の強い印象は容易にこの国の人の心を去らない。横浜、長崎、函館《はこだて》の三港を開いたことは井伊大老の専断であって、朝廷の許しを待ったものではない。京都の方面も騒がしくて、賢い帝《みかど》の心を悩ましていることも一通りでないと言い伝えられている。開港か、攘夷《じょうい》か。これほど矛盾を含んだ言葉もない。また、これほど当時の人たちの悩みを言いあらわした言葉もない。前者を主張するものから見れば攘夷は実に頑執妄排《がんしゅうもうはい》であり、後者を主張するものから見れば開港は屈従そのものである。どうかして自分らの内部《なか》にあるものを護《まも》り育てて行こうとしているような心ある人たちは、いずれもこの矛盾に苦しみ、時代の悩みを悩んでいたのだ。
 牡丹屋《ぼたんや》の裏二階からは、廊下の廂《ひさし》に近く枝をさし延べている椎《しい》の樹《き》の梢《こずえ》が見える。寛斎はその静かな廊下に出て、ひとりで手をもんだ。
「おれも、平田門人の一人として、こんな恐ろしい大獄に無関心でいられるはずもない。しかし、おれには、あきらめというものができた。」


「さぞ、御退屈さまでございましょう。」
 そう言って、牡丹屋の年とった亭主《ていしゅ》はよく寛斎を見に来る。東海道筋にあるこの神奈川の宿は、古いといえば古い家で、煙草盆《たばこぼん》は古風な手さげのついたのを出し、大きな菓子鉢《かしばち》には扇子形《せんすがた》の箸入《はしい》れを添えて出すような宿だ。でも、わざとらしいところは少しもなく、客扱いも親切だ。
 寛斎は日に幾たびとなく裏二階の廊下を往《い》ったり来たりするうちに、目につく椎《しい》の風情《ふぜい》から手習いすることを思いついた。枝に枝のさした冬の木にながめ入っては、しきりと習字を始めた。そこへ宿の亭主が来て見て、
「オヤ、御用事のほかはめったにお出かけにならないと思いましたら、お手習いでございますか。」
「六十の手習いとはよく言ったものさね。」
「手前どもでも初めての孫が生まれまして、昨晩は七夜《しちや》を祝いました。いろいろごだごだいたしました。さだめし、おやかましかろうと存じます。」
 こんな言葉も、この亭主の口から聞くと、ありふれた世辞とは響かなかった。横浜の海岸近くに大きな玉楠《たまぐす》の樹《き》がしげっている、世にやかましい神奈川条約はあの樹の下で結ばれたことなぞを語って見せるのも、この亭主だ。あの辺は駒形水神《こまがたすいじん》の杜《もり》と呼ばれるところで、玉楠《たまぐす》の枝には巣をかける白い鴉《からす》があるが、毎年冬の来るころになるとどこともなく飛び去ると言って見せるのも、この亭主だ。生糸の売り込みとはなんと言ってもよいところへ目をつけたものだ、外国貿易ももはや売ろうと買おうと勝手次第だ、それでも御紋付きの品々、雲上の明鑑、武鑑、兵学書、その他|甲冑《かっちゅう》刀剣の類《たぐい》は厳禁であると数えて見せるのも、この亭主だ。
 旧暦十二月のさむい日が来た。港の空には雪がちらついた。例のように寛斎は宿の机にむかって、遠く来ている思いを習字にまぎらわそうとしていた。そこへ江戸両国の十一屋から届いたと言って、宿の年とったかみさんが二通の手紙を持って来た。その時、かみさんは年老いた客をいたわり顔に、盆に載せた丼《どんぶり》を階下《した》から女中に運ばせた。見ると、寛斎の好きなうどんだ。
「うどんのごちそうですか。や、そいつはありがたい。」
「これはうでまして、それからダシで煮て見ました。お塩で味がつけてございます。これが一番さっぱりしているかと思いますが、一つ召し上がって見てください。」
「うどんとはよい物を造ってくだすった。わたしはお酒の方ですがね、寒い日にはこれがまた何よりですよ。」
「さあ、お口に合いますか、どうですか。手前どもではよくこれをこしらえまして、年寄りに食べさせます。」
 牡丹屋ではすべてこの調子だ。
 一通の手紙は木曾《きそ》から江戸を回って来たものだ。馬籠《まごめ》の方にいる伏見屋金兵衛《ふしみやきんべえ》からのめずらしい消息だ。最愛の一人息子《ひとりむすこ》、鶴松《つるまつ》の死がその中に報じてある。鶴松も弱かった子だ。あの少年のからだは、医者としての寛斎も診《み》てよく知っている。馬籠の伏見屋から駕籠《かご》で迎いが来るたびに、寛斎は薬箱をさげて、美濃《みの》と信濃《しなの》の国境《くにざかい》にあたる十曲峠《じっきょくとうげ》をよく急いだものだ。筆まめな金兵衛はあの子が生前に寛斎の世話になった礼から始めて、どうかして助けられるものならの願いから、あらゆる加持祈祷《かじきとう》を試み、わざわざ多賀の大社まで代参のものをやって病気全快を祈らせたことや、あるいは金毘羅大権現《こんぴらだいごんげん》へ祈願のために落合《おちあい》の大橋から神酒《みき》一|樽《たる》を流させたことまで、口説《くど》くように書いてよこした。病気の手当ては言うまでもなく、寛斎留守中は大垣《おおがき》の医者を頼み、おりから木曾路を通行する若州《じゃくしゅう》の典医、水戸姫君の典医にまですがって診察を受けさせたことも書いてよこした。とうとう養生もかなわなかったという金兵衛の残念がる様子が目に見えるように、その手紙の中にあらわれている。
 平素懇意にする金兵衛が六十三歳でこの打撃を受けたということは、寛斎にとって他事《ひとごと》とも思われない。今一通の手紙は旧《ふる》いなじみのある老人から来た。それにはまた、筆に力もなく、言葉も短く、ことのほかに老い衰えたことを訴えて、生きているというばかりのような心細いことが書いてある。ただ、昔を思うたびに人恋しい、もはや生前に面会することもあるまいかと書いてある。「貴君には、いまだ御往生《ごおうじょう》もなされず候《そうろう》よし、」ともある。
「いまだ御往生もなされず候よしは、ひどい。」
 と考えて、寛斎は哭《な》いていいか笑っていいかわからないようなその手紙の前に頭をたれた。
 寛斎の周囲にある旧知も次第に亡《な》くなった。達者で働いているものは数えるほどしかない。今度十七歳の鶴松を先に立てた金兵衛、半蔵の父吉左衛門――指を折って見ると、そういう人たちはもはや幾人も残っていない。追い追いの無常の風に吹き立てられて、早く美濃へ逃げ帰りたいと思うところへ、横浜の方へは浪士来襲のうわさすら伝わって来た。

       三

 とうとう、寛斎は神奈川の旅籠屋《はたごや》で年を越した。彼の日課は開港場の商況を調べて、それを中津川の方へ報告することで、その都度《つど》万屋《よろずや》からの音信にも接したが、かんじんの安兵衛らはまだいつ神奈川へ出向いて来るともわからない。
 年も万延《まんえん》元年と改まるころには、日に日に横浜への移住者がふえた。寛斎が海をながめに神奈川台へ登って行って見ると、そのたびに港らしいにぎやかさが増している。弁天寄りの沼地は埋め立てられて、そこに貸し長屋ができ、外国人の借地を願い出るものが二、三十人にも及ぶと聞くようになった。吉田橋|架《か》け替えの工事も始まっていて、神奈川から横浜の方へ通う渡し舟も見える。ある日も寛斎は用達《ようたし》のついでに、神奈川台の上まで歩いたが、なんとなく野毛山《のげやま》も霞《かす》んで見え、沖の向こうに姿をあらわしている上総《かずさ》辺の断崖《だんがい》には遠い日があたって、さびしい新開地に春のめぐって来るのもそんなに遠いことではなかろうかと思われた。
 時には遠く海風を帆にうけて、あだ
前へ 次へ
全48ページ中23ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング